人事部のジョー episode3(体育会系社員 編)

市川比佐氏

第1話

「第七十九回全国高校野球選手権大会、三千九百校の頂点に立つのは、岐阜の古豪か、将又、沖縄の新鋭か――」

一九九七年八月二十一日。

盆明けの茹だるような酷暑のなか執り行われた甲子園大会決勝には、多くの観衆が訪れていた。

気温三十五度を超す炎天下の中、首元を赤く陽焼けした球児達が、一斉にグラウンドに駆け出す。

観客はその姿を温かい拍手で包んだ。

午後一時に発表された甲子園球場の入場者数は満員の四万五千人。試合開始一時間前には早々と入場規制を行った。

発達した雨雲が西日本全体を多い、天候が不安視された決勝であるが、昼前まで薄っすらと上空を覆っていた雨空も、試合開始三十分を前に陽射しが見えるようにった。

先に守備についたのは岐阜県代表の紫水学園高校。ナインの名前がウグイス嬢によって詠み上げられると、その度にアルプススタンドからは歓声が湧いた。

夏の風物詩、全国高校野球選手権大会が、今年も熱気を帯びてプレイボールの時を待った。

「決勝戦は、十年連続出場、岐阜の名門紫水学園と、対するは、創部六年目にして甲子園初出場となる沖縄県代表、那覇水産高校というカードであります。勝てば岐阜勢としては、一九三六年、岐阜商業が京都の平安中を破って以来、実に八十ぶりの優勝となります。なんといっても注目は、紫水学園で遊撃手を守ります背番号六の豪田勇貴。俊足好打、準決勝でも試合を決める本塁打を放っております」

試合開始前の守備練習中、強い陽光に照らされた背番号六は巧みにボールを捌いた。その風格はどこか余裕すら感じさせた。

「高校生ってのはいいもんやのう、こんな糞暑い中、溌剌としおって―」

城山丈一郎は、日曜日の昼下がり、片肘を付けるだらしない恰好で、画面を眺めた。

大手工機メーカー「安徳工機」に勤める城山は、人事部長という肩書き柄、連日多くの社員と向き合い、気の休まる時間といえば、一年の中でも盆と正月の三日間程度である。

特に社員数二万人を超える安徳工機株式会社において、人事部長の裁量は大きい。束の間の休暇を享受すべく、昼間から独り酌をすると、城山は再び画面に集中した。


大方の予想に反して、試合は緊迫した投手戦が続いた。

準決勝までは両校とも毎試合の本塁打を含む猛攻が目立ったため、この日も打撃戦が期待されていたが、両エースの奮闘もあり、九回までに並べたスコアは二対一。那覇水産高校一点リードという接戦で、最後の最後まで緊張感のある展開が続いた。

「九回裏のツーアウト、ピッチャーは一回からマウンドを守り続ける那覇水産高校のエース島袋。球数は既に百四十球を超えています」

島袋は、時折、帽子を脱いで汗を拭う素振りを見せたが、炎天下の中では、沖縄の気候に慣れた島袋の方が分があるように見えた。

残りアウト一つで、試合が決まる。

正念場を迎えた両校は、ベンチから身を乗り出し、精一杯の声援を送った。

「ネクストバッターズサークルでは、四番の豪田が、二度、三度と素振りをして、今、バッターボックスに進んでいきます」

豪田は、滑り止めのロージンスプレーをバットに振り掛けると、ゆっくりとした足取りで打席に入った。百八十センチ、八十キロという体躯は、高校生としてはかなりの大柄で、相手投手に威圧感を与える。

『かっとばせー、豪田!』

紫水学園側のアルプススタンドからは、割れんばかりの声援が届いた。

豪田は、鋭い視線を相手投手に向けながら、大きく背筋を仰け反ると、バッドを構えた。

「あら、ガチガチやんな、こんなんで打てるもんかね」

城山は茣蓙の上に寝転んで鼻糞を穿りながら画面に釘付けになった。

「ランナーは、先程、ツーアウトからフォアボールで出塁した一年生の山下、彼も俊足ですから、注意すべきですね」

「好投手の島袋君ですが、上体を捻りながら、ややトルネード気味に投げるため、比較的盗塁しやすいピッチャーといえますね。バッターは好打の豪田君ですから、ここはランナーを得点圏に出したくない場面です」

島袋は、俊足の山下を警戒して、二度牽制球を送ると、豪田は、バッターボックスを外し、緊張を解すように首を回した。

「島袋投手は、百四十キロ後半の速球と、縦に鋭く落ちるスライダーを巧みに使いこなし、ここまで積み上げた三振は十二個。ヒットは三本しか与えておりません。強打の紫水学園を、九回まで僅か一点に抑えて参りました」

九回裏二死で四番、敬遠されてもおかしくない場面だが、一塁には俊足の山下。ランナーを得点圏に置きたくない那覇水産ベンチの思いもある。

互いの思惑の読み合いが、極限の域に達する。

果たして、相方の策略は如何に―。

豪田は、初球は様子を見ることに心に決め、落ち着いた足取りでゆっくりと打席に入った。

対するマウンド上の島袋は、左肩越しにファーストランナーを目で牽制した後、クイックモーションから初球を投じた。

『スパァーンッ!』

乾いた音が甲子園球場に木霊すると、主審は勢いよく右手を上げた。ストライクだ。

それを見て、沖縄水産アルプスからは轟音のような歓声が上がる。

島袋の放った球は、綺麗な縦回転をさせながら、鋭くキャッチャーミットに収まった。

豪田と島袋。互いに将来を有望視された選手が、甲子園の舞台で死闘を繰り広げている。

「初球は、真ん中低めの直球です。今の球を見てどうでしょうか」

「連日連投の島袋君ですが、疲れが見えませんね。しっかりと腕が振れています」

豪田は初球を見逃すと、いったん打席を外し、やはり二度、三度と素振りをした。

速い―。

純粋に豪田は、そう感じた。

沖縄水産はエース島袋が、大会初戦から連投しており、この日も初回から投げ続け、既に球数は百四十を越えている。

にも関わらず、電光掲示板に映る球速表示は百四十九キロ。高校生投手としては最も速い部類だ。

また球速表示だけではなく、低めにコントロールされた勢いのある速球は、仮に手を出しても、詰まって内野ゴロがよいところだろう。当の島袋も、残りあと一人で優勝という場面で、ペースを上げてきたと思われた。

満員の外野席を遠目に眺めながら、豪田は冷静に戦略を巡らせた。事前に行った対戦投手の研究、そして、これまでの投球内容から、

「ここは変化球に絞るべきだ」

と、咄嗟に判断したのだった。

豪田はこの日、三回裏に先制の適時打を放っており、その時打ったのも、やはりスライダーであった。

好投手島袋は、球種は少ないものの、伸びのある直球と変化量の多いスライダーでバッターのタイミングを崩し、ここまで順調に勝ち上がってきた。

島袋は然程、大柄という訳ではないが、腕が長く球持ちが良いため、球の出所がバッターボックスに近く、実際の球速表示よりも速く感じる。またストレートと変化球の腕の振りが殆ど同じであるため、リリースポイントの見極めが難しい。プロのスカウトも絶賛する技術があった。

高校生投手としては完成された投球術を伴わせる島袋であるが、しかし豪田にも勝因がない訳ではない。

島袋のスライダーは、低めに決まると手を出せないが、球速が遅い分、高めに入れば狙いようがある。

豪田は、次の球に狙いを定めると、ひとつ深呼吸をし、打席に戻った。

島袋は、再び一塁に牽制球を入れると、体勢を直し豪田と睨みあう。キャッチャーのサインに、二度、首を横に振る島袋。どうやらサインが合わないのだろうか、若干ではあるが島袋の表情が曇ってみえた。

カウントは、ワンストライク、ノーボール。投手側からしてみれば、未だ遊び玉はあるため、おそらく、ボール球になる変化球を放って誘いに来るだろう。豪田は冷静に分析すると、次の球も、一応は打つ素振りを見せながらも、待つべきと決めた。

島袋は、呼吸を整えると、トルネード投法のような身体を捻じる体制から、二投目を放った。

「ストライク!」

瞬間、豪田は自分の目を疑った。

予想に反し、島袋が投じた二球目は直球であった。

沖縄水産アルプスからは、先ほどと同様に、割れんばかりの歓声が巻き起こる。

そして豪田はこの時、島袋の口元が俄かに緩むのを見逃さなかった。

島袋が二投目に放ったストレートも、球速表示は百四十九キロ。そして先ほどと全く同じ、真ん中低めであった。

島袋が、キャッチャーのサインに首を振って、わざわざストレートを選択したことを考えると、速球に相当の自信があるのだろうと推察できた。投球後に見せた不敵な笑みも、ある意味、島袋の余裕を感じさせた。

まずい―。

不利な形勢に陥った、と豪田は焦った。

豪田は打席を外すと、助けを求めるようにベンチを振り返った。

目線の先には口髭を逆八の字に曲げ、腕を組む栃丸監督の姿がある。栃丸は、怒りに顔を紅潮させ、今にも罵声を浴びせかけん勢いで豪田を睨み付けている。

ここでもし三振などすれば、監督に面罵されるだけでなく、末代まで岐阜の恥だと呼ばれ続ける。

咄嗟に見た栃丸の顔が、余計に豪田の緊張を掻き立ててしまった。

カウントは、ツーストライク、ノーボール。

投手有利のカウントで、些か島袋のマウンド捌きには余裕が見られる。

あと一球で試合は決まってしまう。

豪田は瞑目すると、頭の中をフルに回転させ、策略を練った。

甲子園は連日試合が続くため、強豪校では、複数投手を準備しておくのが普通である。豪田は本職は遊撃手であるが、二番手投手として、時折マウンドに上がることがある。実際、初戦の栃木県代表作山工業戦では、五点リードの場面で豪田はマウンドに上がった。本職の投手ほどではないが、最低限の戦略は会得しているつもりである。九回裏ツーアウト、しかも相手が四番バッターという場面で、同じ球を連投するのは考え難い。

後のない豪田の選択は決まっていた。

臭い球はカットし、打ちごろの球は大振りせず単打とする。

豪田は、グリップエンドにかけた小指を外すと、バッドをやや短く持ち直した。

下手に長打を狙うよりも、来た球に逆らわず、内野の頭を抜ける程度の力で弾き返す。大丈夫、豪田の後に控える五番西田も、ここまで好調を維持し、打率は四割を超えている。

ツーストライク、ノーボール。バッテリーは、一旦、様子を見るため、外角に遊び球を投じるであろう。バッターボックスの豪田は、肩の力を抜き、楽にバットを構えた。

島袋は、先ほどと同様に、僅かに腰を捻る投球フォームで、ボールを投じた。

大会屈指の好投手だけあって、ストレートの際も、変化球も、フォームは全く同じ。

豪田はノーステップで体重を後にかけると、島袋の指先からボールが離れるポイントを見つめ、腕に力を込めた。

満員の甲子園球場は、まるで時間が止まったように静まり返った。

「打て!」

何処からか聞き覚えのある声がした。豪田はそんな言葉にも耳を貸すことなく、一点にボールの行方を眺めた。

しかし、次の瞬間、当初の思いとは裏腹に、豪田の体が動いでしまうのであった。

豪田は、チラとキャッチャーの方に一瞥をくれると、僅かにミットが上を向いているのが分かった。島袋の縦スライダーは落差が大きいため、普通に捕球することが難しく、一瞬の動作の中で、キャッチャーは無意識に手首を返しているようだ。

間違いない、スライダーだ。

再び投手に目を向ける。島袋の投じたボールは、豪田が待ち望んでいた絶好のボールであった。

打者のタイミングをずらすような遅球が、キレの良い縦回転で、豪田の手前で落ちる。

百五十キロ近い豪球に比べ、凡そ三十キロも遅い島袋の縦スライダー。

変化は大きいが、その分、力はない。万が一、芯に当たれば長打は免れない。

「きた!」

豪田はそう思って、勢いよくバットを出した。

固唾を飲んで球の行方を追う観衆。

しかし、変化の大きいスライダーに、バットの先は虚しくも空を切るのであった。

「ストライク! ゲームセット!」

その瞬間、豪田の夏が終わった。

豪田が手を出したのは、ホームベース上でワンバウンドするようなクソボール。

体勢を崩された豪田は、勢いづいてそのまま打席上に倒れ込んだ。

「うおおおお!」

沖縄水産ナインがマウンドに集まり一つの輪を作る。その中心で人差し指を天に突き上げ、喜びを享受するのは紛れもない、島袋であった。

アルプススタンドからは、割れんばかりの拍手と歓声が湧き上がる。

豪田は、悔し涙を浮かべながら、霞んだ視線の先で観衆を眺めた。

「岐阜の夢が甲子園の砂の上に散りました―」

まさか、最後の最後で欲が出てしまった。

あの場で長打を放てば自分がヒーローになっていたに違いないという一瞬の愚欲により、岐阜積年の希望は崩れ落ちたのである。

豪田はがっくりと跪くと、涙で濡れる黒い砂を、いつまでも見つめ続けた―。

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