第20話
現地スタッフにはすぐに受け入れられた白鳥だが、大方の予想通り、仕事は困難を極めた。
現地人は英語が話せないし、そもそも識字率が低いため、白鳥ひとりでは意思疎通すらできない。ビジネス上の会話は専ら?泄漏有限公司を経由して中国語で行われた。
幸いにも金子は中国語が堪能で、白鳥は金子の通訳を介して、献身的に働いた。
最初は金子の鞄持ちや資料作りから始まり、建設現場、?泄漏有限公司のオフィス、地場の資材業者を回りながら仕事の領域を広げていくと、徐々に仕事を任せられるようになった。
もともと勉強はできる白鳥のため、三ヶ月もすれば仕事にも慣れ、一人でエチオピア政府に立ち寄ったり、隣国シブチの港まで行って輸入された部品を確認したりと、その行動範囲は徐々に広がっていったのだ。
?泄漏有限公司によって与えられた案件は、アジスアベバ郊外の複合施設開発、政府系機関も入居する高層ビジネスビルの建設など、主に建設関連が中心であった。
初めのジョーの説明にあった様に、アジスアベバには仕事が山ほどあるようだ。
本格的にプロジェクトが始まると、大量の重機や建築資材が中国から輸入されはじめ、当面の間、白鳥はアジスアベバとジブチを往復する生活となった。
週に二日はジブチに向かい、ジブチ市内でのホテル泊となったが、日本と経済的な繋がりのないエチオピアにいるよりも、ジブチにいる方が断然、居心地が良いと感ぜられた。
アジスアベバには日本料理のレストランはおろか、日本食を販売するメルカドすらないが、ジブチに行けば、数は少ないものの和食レストランがあり、日本食も手に入った。
その背景には、日本の自衛隊駐屯基地がジブチにあるということ、また中近東やスエズ運河、南アフリカとアジア諸国を結ぶ中継貿易港としての役割を担うこの国では、海外からの輸入品が容易に手に入るのだ。
現地スーパーには日本米だけでなく、寿司、味噌汁や納豆までも棚に並び、白鳥はそれらを狂気乱舞して買い占めたのだった。
「―白鳥、来週から?泄漏有限公司の建材エンジニアの李さんがジブチに来るから、対応してくれないか」
「ええ、承知しました」
エチオピアに渡って三ヶ月が経過したある日、中国から試験出荷された産業機械が到着するという一報を受け、白鳥はジブチに向かった。
もともと販売部として駐在を命じられた白鳥だが、その仕事の領域は製造分野にも及んでいた。
「白鳥に関しては、現地人とのコミュニケーションも上手くいっているし、顔も効くから、仕事の幅を広げてもらいたい、ジブチでの組立プロジェクトを是非とも頼むよ」
金子は、鼓舞するように白鳥の肩を叩いた。
こうして金子の信頼も得て、白鳥の仕事の幅は更に広がっていったのである。
建築業界では、大型の建築資材を運ぶと輸送コストが嵩むため、半完成品の状態で部品を送り、現地で組み立てるというノックダウン方式をとる。またこれは、建築資材に限らず、それらを組み立てるための建設重機にも同様に用いられ、ジブチ港湾には簡易的な組立工場が敷設されていた。
産機の組立には技術的な知識が必要となるため、中国人のエンジニアの李と白鳥、現地採用の作業員が工場に集まり、連日、組立手順の詰め作業を行っていた。
エチオピア・ジブチ鉄道の起点、ラ・ゲア駅近郊の港湾倉庫を間借りした?泄漏有限公司。
ラ・ゲア近郊には、コンテナーヤードと、コンテナーを輸送するためのトレーラーや貨物列車が鎮座し、その上に、ジブチらしい灼熱の砂風が吹き荒れていた。
ジブチ港とアジスアベバを結ぶ七八四キロのジブチ・エチオピア鉄道は、両駅を八時間で結び、エチオピアにとって唯一かつ極めて重要な輸送ルートとなっている。
この鉄道の敷設に関しても、メネリク二世が携わっているというから、その影響力は計り知れない。
白鳥はジブチ市内のホテルで李と合流すると、そのままラ・ゲアの倉庫へと向かったのである。
「これはあくまで仮の工場だから、もう少し物量が多くなったら、コンテナーを鉄道で直接エチオピア国内に運んで、アジスで組立を行う予定だ」
ノックダウン工場には、細やかであるが「安徳工機」の社章が掲げられており、何となく自社に帰った気がした。
しかし、当の工場はというと、半製品の組立を行う簡単な設備があるだけで、内部は狭く、工場というより港湾倉庫といった方が相応しかった。
試作期間は一週間。はじめの三日間で組立を行い、残りの二日で動作試験を行う。最終日の昼にはジブチ、アジスアベバ、中国、岐阜を国際電話で繋いで状況報告を行い、その日の夜は打ち上げという流れになっていた。
世界的に見ても最も気温の高いジブチ市の海岸を汗まみれになりながら歩き、漸く工場に到着した白鳥らを待っていたのは、湿気を伴った不快な熱気であった。
朝八時というのに構内の温度計は既に三十度を超えている。
作業員らは、早朝にも関わらず、既に港湾に集まっており、白鳥と李の到着を、今か今かと待ち構えていた。
「彼らは我社が現地採用したスタッフだよ、彼らは非常に優秀なんだ」
李が言うと、ジブチ人スタッフらは笑顔で対応した。
しかし、一旦、白鳥が挨拶の言葉を交わすと、その様子は一変するのである。
「本日から、ここでお世話になります、安徳工機の白鳥です」
現地作業員らは白鳥の顔を見るや否や、驚き様に開口したまま全身を硬直させ、次のように叫ぎ立てたのだ。
「うんこ! うんこだ!」
「うんこ?」
白鳥は、ボレ空港でアッブブにされたのと同様に、またもアムハラ語で歓迎の挨拶を受けたかと思ったが、ここはジブチ、公用語はフランス語である
「うんこだ、まさか本当にうんこにお会いできるとは」
尚も白鳥を称える言葉が聞こえる。
作業員らの様子はまるで、白鳥の存在を畏敬に慄いているようにも見えた。
「うんことはどういった意味でしょう」
何事かと思って白鳥が問うと、
「あなたは、かの有名なうんこ漏らしの白鳥じゃないか」
と、現地スタッフの一人が言った。
「まさか、本当に糞漏らしのアンジョリーナに会えるとは、我々はてっきり教科書上の人物かと思っていたよ」
「糞漏らしのアンジョリーナ?」
解せないといった様子で白鳥が問うと、
「最初の入社研修で聞いたのだよ、日本の製造業はトヨタ生産方式などにみられるように、経営工学の手法が進んでいて、世界中の工場に展開されている。その中に、『糞漏らしのアンジョリーナ』の講義もあったのだ」
と返ってきた。
白鳥は思わず背を仰け反らして驚嘆するしかなかった。
李の説明はこうだ。
日本の製造業では、入社と同時に、原価管理、現場管理、作業管理といった経営工学の手法をひと通り学ばせるのだが、それは海外の現地工場でも同様に徹底されている。
その中で、三年前から新たに付け加えられた「作業中の糞便対処」は、ここジブチのノックダウン工場でも例外なく水平展開されていたのだ。
『糞漏らしのアンジョリーナ』とは、まるでジブリ映画の一説のような異称を付けられたものである。
尚も恍惚の目を浮かべながら作業員達は称賛を続けた。
「あなたはフレデリック・テイラーと並んで経営工学の権威だ。工場内の便所の位置や作業中の便意のコントロールなど、あらゆる面で糞便の模範となった方だ」
そう言うと白鳥に握手を求めた。
『作業中の脱糞行為、および脱糞した大便を溶炉に投げ込み問題を揉み消そうとしたことに対する対策書』は、後の経営工学会に大きな波紋を呼び、労務管理における便意の重要性について活発な議論を巻き起こした。
それはいずれ、科学的糞便管理法、糞便制御工学、便所配置法など、数々の学説へと繋がり、経営工学界隈では、それら学説を総称して「白鳥論」と呼んだ。
「白鳥論」は、世界中の大学や製造業、研究機関で議論を呼ぶなど、トヨタ生産方式と並んで、日本の製造業を代表する経営工学の重要な手法となったのである。
「おそらく、あなたは、ジブチで一番有名な日本人の一人だよ、日本の総理大臣の名前は言えないけど、君の名前はすぐに出てくる」
「そ、そうですか…」
岐阜工場で隔離された生活を強いられた僅か三年の歳月で、世の中はすっかり移り変わってしまったと、白鳥は実感した。
「さて、ハリウッドスターの歓迎ムードはお終いだ、早速、作業に取り掛かろう」
気を取り直して李は言うと、持ち前のリーダーシップで場を取り仕切り始めた。
?泄漏有限公司は既にアジスアベバ市内に多くの高層建造物を建設しており、李は手慣れた様子で作業を開始した。
新興企業らしい猛進力と、中国人特有のバイタリティーの下に、指示を受けた作業員らは次々と部品を開梱し、組立作業の段取りを組んでいく。
安徳工機のような古い体質の企業風土に慣れ親しんだ白鳥にとって、?泄漏有限公司の仕事のスピード感は目を見張るものがあった。
紅海に切り出した独特な国土形状から「アフリカの角」と呼ばれるジブチ。
アフリカ東部の沿岸地域にあり、季節の変化が少なく、年中三十五度を超える常夏猛暑の国である。
特に夏場は気温が四十度を超え、降雨量も少ないため、日中、工場建屋内には熱気がこもり、温度計は四十五度を超えていた。
あまりの酷暑に白鳥は早々と音を上げたが、慣れているのか現地作業員は黙々と作業を進めている。
差し迫る蜃気楼のように、熱気で歪む視界。
このとき、白鳥は一抹の不安を感じていた。
比較的、過ごし易いアジスアベバの高山気候に対して、これだけの酷暑では体調も優れず、経験的に、こういった時こそ下痢を引き起こす危険性が非常に高いのである。
優秀な現地スタッフのお陰で、午前中の作業は順調に終わった。
時刻は昼の十二時を回った。一行は午前の作業を切り上げると、昼食へと向かったのである。
一行が向かった先は、港湾近くにあるレストランである。
テラスからはタジェラ湾が一望できる眺望で、また店内も清潔感があり、壁、柱、テーブルクロスに至るまで白で統一されていて、それが干上がった海岸の塩の積層と相まって、実に神秘的な様相を帯びていた。
「今日は、日本から来た有名人を称えるため、急遽、この辺で最も良いレストランを予約したのだよ」
李は白鳥を見つめながら誇らしげに言った。
物価の安くないジブチ市であるが、昼食に五千ジブチフラン(=三千円)とはかなり高価な部類である。
どれもこれも、現地従業員の白鳥に対する敬意も現れであった。
白鳥は、彼らの計らいに目頭を熱くしたながらも、一方で、こうも気温が高いと、胃腸が疲弊して食欲が湧かず、せっかくの御馳走も喉に通らないのではと心配した。
ミネラルウォーターを一口含む白鳥。
暑さでだるさが増し、だらりと椅子の背もたれに寄り掛かる姿勢になった。
「どうしたんだい、顔色が良くないみたいだが」
「い、いえ、問題ないですよ」
白鳥は、必死に笑ってみせたが、どうみても体力の限界であった。
「そうだ、言い忘れたね、現地スタッフの紹介をするよ」
李が、思いつき様に、
「彼がここの現場監督者のアッブブだ」
と紹介すると、隣席に座っていた三十歳前後の男が目礼した。
まさかとは思ったが、ここに来て三人目のアッブブである。
「あと、その隣にいるのが品質保証担当のアッブブだ」
「よろしく、アッブブです、アンジョリーナに逢えて光栄だよ」
さらに四人目のアッブブは白鳥に握手を求めた。
「その隣が、保全担当のアッブブ、そしてその向かい側が調達のアッブブ、その横が作業記録員のアッブブ…」
「ちょっと待って下さい、こちらの方は皆、アッブブさんというのですか」
次々と名乗り出るアッブブに白鳥は驚嘆したが、「三十名中、二十五名がアッブブだよ」というアッブブの回答に、やはり驚きを隠せずにいた。
「では他の五名の方は?」
「うん、順番に紹介するね、彼は会計係のアラマイヨ、彼は班長のアラマイヨ、彼は倉庫管理のアラマイヨ、そして彼が備品番のアラマイヨ」
東アフリカにはアッブブとアラマイヨの二通りしか名前がないのか。そう思った矢先、
「最後に、彼がリーダーのポだ」
と李。
「ポ?」
白鳥は、声が一オクターブ裏返り、頓狂な声を上げた。
「よろしく、ポです」
ポが握手を求めると、アッブブは次のように説明を加えた。
「ああ、彼だけは出身が違って、コンゴ共和国の出身なんだ、コンゴ人は名前が長いから、互いをニックネームで呼び合うんだよ」
白鳥は、釈然としない面持ちながらも、
「そうなんですか、ちなみに本名はなんと言うのでしょうか」
と問うた。すると、
「ガディール・エルビネ・デランシー・ダビド・ナンボコ・イェニ・ビクロゥ・カサブブ・セセ・セコ・カバンゲ・カビラ・ンツンバ・カンバレ・カヂマ・ムイビ・カララだよ」
とポ。
「そ、そうなんですか、ちなみにポはどこから来たんですか?」
白鳥は、長い名前の中にひとつも「ポ」という語句が入っていないことを指摘したが、
「コンゴでは細かいことは気にしないんだよ」
とポは明解を避けた。
中継貿易港の側面を持つジブチは、名産もやはり様々な国の複合品となっていた。
ジブチ料理といえば、エチオピアやソマリに見られるような、サフランやシナモンなどの香辛料を使ったアフリカ料理の他に、インド料理、フランス料理の要素が随所に含まれる。
この日、白鳥に振る舞われたのは、新鮮な魚介を使った南仏風料理のコースである。
「日本でも生魚は食べるんだろう、ジブチも海があるから、魚は頻繁に食べるよ」
アッブブは笑ってみせたが、テーブルに運ばれてくる諸々の品を見た瞬間、白鳥は言葉を失った。
次から次へと大量の生魚がテーブルに運ばれてくる中に、白鳥の天敵でもあるオイスター(生牡蠣)の姿があったのだ。
腹の弱い白鳥は、現地料理は勿論のこと、鮮魚など絶対に口にしない。ましてや魚貝類など、もってのほかである。
今でこそ日本の寿司は国際社会で受け入れられているが、日中四十度を超える国で生魚を食すなど命を捨てるも同然である。相当の覚悟と強靭な胃腸をもってしてでないと、とても口にできない。
しかし、そんな白鳥の心配を他所に、アッブブ、アラマイヨ、ポ、そして李は、飛び付くようにオイスターを口に入れた。大きな氷の山に盛られた生牡蠣が、次々と口の中に放り込まれていく。
見ているだけでも下痢を引き起こしそうな豪快な食べっぷりに、白鳥は何度も嘔吐しかけた。当然、白鳥の手は止まったままだ。
フランス人もジブチ人もコンゴ人も中国人も、皆、阿呆である。
なぜ、自らの健康を顧みず、目の前の牡蠣に飛び付くのか。
彼らはあらゆる細菌に抗体を持っているかも知れないが、日本という衛生管理が徹底された無菌国家で育った白鳥には、海外の鮮魚など、毒の塊に等しい。
「どうしたんだい? 食べないのかい」
対面に座っていたアッブブは、いつまでも手を出さない白鳥を心配してか、一旦、牡蠣を食べる手を止めると、白鳥の皿を取り、山盛りの牡蠣を盛ったのである。
しかし、尚も白鳥は、終始、笑顔を浮かべるだけで、それを決して口にしようとしない。
このとき、白鳥は思った。
アッブブがもし、他人の便意を覗く能力があるとすれば、確実に自分を殺しにかかっていると。
胃腸の弱い白鳥に貝毒を盛り、確実に下痢に追いやっていると、そう感じたのだ。
「ほら、ジブチの生牡蠣は甘味があるから、軽くライムを絞れば食べられるよ」
アッブブは、牡蠣を手に取ると、丁寧にフォークで貝柱を外し、その上にライムを絞って、口に流し込んだ。
ちゅるん、とアッブブの喉が軽妙な音を立てる。
その様子を見て、思わず白鳥は嗚咽しそうになった。
「早く食べなよ」
まるで毒林檎を勧める老婆の表情を浮かべるアッブブ。
白鳥は、すぐにでもアッブブを殴り掛かりたい衝動に駆られたが、公衆の面前で癇癪を切らしてはならないと、必死に耐えた。
大量の貝毒を盛られるという絶体絶命の状況下で、白鳥が毅然と対応するには理由がある。
今の白鳥の立場は、あくまで?泄漏有限公司に製品を卸す二次請けであり、顧客の厚意に背くなど、決して許されないのである。
安徳工機がエチオピアでビジネスを繰り広げられるのは、あくまで?泄漏有限公司の協業があってのことだ。
「?泄漏有限公司との仕事は、常に留面子を心掛けよ」
これは、支店長の金子にも口煩く指導された内容であった。
白鳥は、再び皿に盛られた種々の魚介を見渡した。
せめて食べているふりでもしなければと思い、白鳥は一番毒の少なさそうな白身魚をフォークで取ると、匂いを確認し、恐る恐る口に放り込んだ。
セーフだ、しかし、やはり生きた心地はしない。
そのまま白鳥は食べる素振りを続けながら、生牡蠣の身を殻から剥いで殻の裏に隠し、然も食べ終わったかのような感を演出した。
「いやあ、本当に美味しいですね。こんなに美味しい魚は日本でも食べられません」
「そうだろう」
自慢げに目を細めるアッブブ。
その不敵な笑顔は、やはり自分を死に追いやる毒林檎の老婆に見て取れる。
牡蠣の盛られた氷の山は、あっという間に空になり、白鳥にとっては漸く昼食の時間が終わったと感ぜられた。
しかし、この後、アッブブの口から放たれる言葉に、白鳥は思わず卒倒しそうになるのだ。
「すみません、生牡蠣を追加したいのですが」
「はい?」
思い掛けないアッブブの言葉に、白鳥は思わず耳を疑った。
「こう暑くては、精気を付ける意味でも、たくさん食べないと」
白鳥はこのとき、口には出さないが、行き場のない怒りを感じていた。
アッブブは、然ももっともらしい方便で牡蠣を追加したが、これは間違いなく自分を殺しにきている。
白鳥は怒気を込めた視線を向けたが、一方のアッブブは、尚も笑みを浮かべたままだ。
紛れもない、これは冷戦である。
ジブチ・エチオピアで、大国中国が、小日本の一企業を乗っ取ろうとしているのではないか。
考える隙もなく、テーブルには追加の生牡蠣が運ばれてきた。
きっとこのウェイターもグルに違いない。
先ほど同様、アッブブは白鳥の皿を取ると、大量の牡蠣、いや、毒を盛ったのだ。しかも、今度は誤魔化しきれないほどの大量の牡蠣である。
「私、小食だから、もうお腹いっぱいでして…」
白鳥は必死で抵抗してみせたが、
「何を言っているのだ、ちゃんと食べないと、もたないぞ」
とアッブブ。また、そのやり取りを見て、李も首を縦に振り頷いた。
この構図は、小日本を破滅に追いやるジブチ、中国の謀略。
「ほら、せっかくの牡蠣だ」
「早く食べないと、昼休みが終わってしまうぞ」
「さっさと食え、このファッキンジャップ」
その後も無言の攻防は続いたが、結局、日本軍は降伏し、白鳥は大量の牡蠣を口にすることになったのであった。
ようやく一行は食事を済ますと、店を出て、工場へと戻った。
昼食後の白鳥の腹は、大量の生牡蠣でずっしりと重量と伴った。下腹部が盛り上がるほど暴食し、中では大量の牡蠣が蠢くのが分かった。
酷暑の波打ち際では、白い波が沸き立っている。
白鳥は、ラ・ゲアに戻る間、塩塊に白く染められた海岸線を見つめた。
この海も、きっと日本に通じている。
そう思うと、貝毒を盛られ命の危機に瀕する白鳥は、感慨深い気持ちにやられ、自然と瞼が熱くなったのだった。
午後一時。
現場に戻ると、空調のない工場は午前中よりも熱気を増し、白鳥は立っていることすら憚れたが、対照的に、三十名の現地作業員は黙々と作業を続けた。
白鳥は、日本から送られた作業手順書を片手に、現地作業員たちの作業指導を再開した。
白鳥と現地作業員の間柄は、指導者と生徒の構図である。
ジブチでは、九年間の義務教育に加え、近年は大学進学率も増加傾向であり、現地採用された従業員達も高い教養を兼ね備えている。
知識欲の高い現場監督者のアッブブは、作業が進む毎に手を止め、白鳥に具に質問を投げ掛けた。
日本の製造業で経験を積み、さらに白鳥論の師範となった白鳥から、技術のイロハを盗もうというアッブブのハングリー精神は並々ならぬものであった。
しかし、そんなやり取りも、終に均衡を破る時がくる。
午後の作業が始まって三十分が経過した頃であろうか。
白鳥は暑さで意識が朦朧としながら、アッブブの対応に勤しんでいると、急に腹部に違和感を覚えたのである。
「案の定であったか…」
白鳥は、背中を伝う妙な汗を感じた。
この感覚は紛れもない、下痢である。
白鳥は昼に食した牡蠣の山の光景を憂いた。
顧客と卸元という関係性を逆手に使って無言の圧力をかけ、白鳥に貝毒を盛ったアッブブ。
あのとき、アッブブが生牡蠣を勧めていなければ、今頃、白鳥の腹は無事であったに違いない。
ただでさえ暑さで消化能力が落ちているときに、大量の生魚と牡蠣を食した訳であるから、下痢を起こさない方が不思議である。
黙々と作業を続ける作業員。
工程作業表は白鳥が持っており、ここで白鳥が離れれば、すべての作業がストップしてしまう。
もともとタイトなスケジュールを組んでいるのに、遅れをきたす訳にはいかない、絶体絶命の状況。
しかし「逃げられない」、という焦りやプレッシャーが、更なる便意を引き起こすものである。
便意は神が創造した人間の欠陥機能であり、さらにその後の人類の文明化によって、高等化した社会の中で、『失禁=悪』という模式が確立されてしまった。
人は誰しも一日一度は糞をするのに、その用便行為が禁忌と見做される社会的通念に、疑問を抱かずにいられない。
尚も白鳥の便意は収まることを知らない。
日本であれば、「用便願います」の一言で解放されるのだが、ここはジブチ。
白鳥は、次々と押し寄せる二重、三重の便意の波にとうとう勝てず、徐に手を挙げると、
「すみません、用便に向かいます」
と、叫んだ。
すると、現地作業員からは意外な反応が却ってくるのであった。
「便漏らしのアンジョリーナだ! 白鳥が糞便をするぞ!」
アッブブが叫ぶと、その他、大勢のアッブブが、まるでハリウッドスターでも見るかのような顔つきで白鳥の周囲を囲った。
経営工学の権威とも言われた「便漏らしのアンジョリーナ」の、生の用便が見れる。またとない機会だった。
工場の壁面には、「安全第一」と並び、「糞便は決して恥ずかしい行為でない」、「便意を催したら代替作業員を呼び、速やかに用便を足す」といった仏語の標語が掲げられている。
ここジブチでも、一日二回の小便時間と、一日一回の大便時間が標準作業時間として確保され、また便所は極力、作業者の近くに配置し、構造上無理な場合は、オムツや携帯簡易トイレを用意することが徹底されていた。
白鳥の回りには、その瞬間を見逃さまいと三十人の輪ができた。
「この港湾工場は賃借だから、便所は外部にあるのだ、しかし安心してくれ、我々は『白鳥論』を忠実に守り、簡易便所を用意している」
自信に満ちた声でアッブブが言うと、詰所から大量の成人用おむつと携帯簡易トイレが運ばれた。
アッブブは手際よくそれらを白鳥の元に持ってくると、
「僕らも今日が初めての実作業だから、使い方が分からないのだ、是非、皆の前で実践してみてくれ」
と提案した。
白鳥は、まさか人前で用便を足すなど夢にも思っていなかったが、目前のアッブブらは、師範の用便光景を目に焼き付けようと、固唾を飲んでその時を待ち構えている。
異国ジブチで、見ず知らずの人々の前で下半身を露出するなど、理不尽な状況に代わりないのだが、一方で迫り来る便意は留まることを知らず、あと一歩でダムが崩壊するという所までくると、白鳥は意を決してズボンを脱ぎ下ろした。
―黒襟雉鳩は、東アフリカの山岳地帯に分布するキジバトであり、日本に生息するキジバトに比べ全体が灰色にくすんだ印象で、首の周りにある黒い帯が特徴である。エチオピアやジブチでは市街地でも見られるポピュラーな種である。
特徴的な「ギュルルル」という鳴声は、主に縄張りを示すために用いられるが、それが人間の腹鳴りに似ていることから、昔から便意をもたらす神鳥として持て囃されてきた―。
倉庫の換気口には、数羽の黒襟雉鳩が巣を構えていた。
酷暑のジブチにおいて、雉鳩は、どこが涼しいかを本能的に熟知しているようだった。
「ギュルルル…、ブビッ!」
白鳥は、袋状の簡易トイレを手際よく尻穴にあてがうと、轟音を立てながら大便を足した。音に驚いた雉鳩は一斉に飛び立った。
その様子を目の当たりにしたアッブブらは、まるでハートフルなヒーリングミュージックを聞くように恍惚な表情をして、瞑目して便音に聞き入った。
「バビ、バビ、バビ!」
尚々、心地の良いサウンドは鳴り続ける。
生牡蠣に毒された便意の波は留まることを知らず、土石流を噴出し続ける尻穴。
やっとのことで白鳥は、全ての便を出し切ると、手際よく尻穴をティッシュで拭いた。
簡易トイレは忽ち一杯になったが、中のポリマーが便の水分を吸って膨張し、すぐにゼリー状に固まった。
ズボンを上げ、再び作業指示に戻る白鳥。
一連の所作を目の当たりにしてアッブブは、思わず感嘆の声をあげた。
「凄い…、便意を催してから、用便を足し、再び作業に戻るまで、きっかり五分以内だ。これがプロの為せる業か…」
工場の中では、白鳥を称える拍手喝采の嵐が吹き荒れ、また感激して涙を流す者もいた。
「これだけ迅速に便意を散らすことが出来れば、確かに時間に遅れることはない、これが日本のモノづくりの底力であるか―」
日本同様、資源の少ないジブチ。
今後も地の利を活かし、中継貿易港として経済発展するには、日本人のように勤勉であるしかない。その為には、効率的な排便能力が必要である。
一通り便を出し切った白鳥だが、大量の牡蠣を前に残便感もあったため、念のためオムツを履いた。
その後、急な便意を催しても、作業に支障ないよう備えたのだった。
「備えあれば患いなし。日本の格言は世界でも通用するな」
白鳥の振る舞いに感銘を受けたアッブブ一行は、白鳥を見倣うようにして、一斉にオムツに履き替えた。
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