第21話

「―ほう、ここがアジスアベバか」

ジョーを乗せたリムジンタクシーは、ボレ国際空港を出発した。

壮観な白亜色を呈したロングホイールの車輌は、土漠の景色には些か不釣り合いに見えたが、慮ることなくジョーは、後部座席で葉巻を嗜んだ。

「アフリカなど初めてだな」

紫煙を吐くと、暫し異国情緒の風景を享受した。

ケイザンチスに到着すると、シェラトン・アジスアベバの一室を間借りしたジョーは、気怠そうにソファに腰を掛け、既に待機していた白鳥と対峙した。

一泊二千ドル、コンシェルジュ付のエグゼクティブスイートは豪華絢爛とした内装で、ここから見るアジスの景色は、パリやニューヨークに負けず劣らずの近代的な街並に思えた。

「白鳥、?泄漏有限公司のお偉いさん方が、えらくお前のことを評価していたぞ」

アジスアベバに駐在してから一年、白鳥は業務の垣根を越えて献身的に働き、無事、大型建築プロジェクトは着工のときを迎えた。

日本にいてもアジスアベバ駐在員の良い噂は耳に入っており、ジョーは白鳥を称える言葉を並べた。

「なにやら、自ら積極的に作業指導を実施してみてくれたようじゃないか。それに加え、便意を散らす方法までも、実践してくれたと聞いた、その調子で頑張ってくれ」

そう言うとジョーは白鳥に握手を求めた。

「思えば、今から約二年前、?泄漏有限公司が我々に現地エンジニアを要請したとき、人事の間でも、社員を出すべきかどうか議論になったのだ。エチオピアの治安は計り知れないし、何よりアフリカで本当にビジネスが成立できるか、皆が疑問に思っていた。もし社員が紛争に巻き込まれるなんて事態に陥れば目も当てられない、会社側の責任が追及される。だから我々は、死んでもいいような問題のある社員を掻き集めて、死んで本望という気持ちでエチオピアに送り込んだのだが、今日まで一人の死者も出ていないどころか、本日、見事に着工の時を迎えることが出来た。これは大変に素晴らしいことだ、君は会社のために人柱となってくれた、人間の順応能力は恐るべきもんやな」

「お褒めの言葉を頂き、恐縮です」

この日、安徳工機を代表して着工式典に招かれ、成田から遥々、アジスアベバへと飛んだジョー。

ジョーにとってアジスアベバは初の訪問であるため、最善をとって市内で最も高級なシェラトンに宿泊し、一歩もホテルを出ることなく、翌日の式典に備えた。

部下には一泊千円の安ホテルに宿泊させながら、「部長たるものは雲上の存在、一般社員とは異なる」という言い分で、自分はその二百倍近い価格のホテルに宿泊したのだ。

ジョーは、冷蔵庫から徐にシャンペンを取り出すと、目を細めながらグラスを傾けた。

仄かなトーストの香りが口の中に広がる。

アフリカ大陸のエキゾチックな風味を、シェラトンの一室でジョーは堪能した。

「実は、折り入って相談があるんだがな―」

突然、ジョーは声調を整えると、咳払いをひとつ挟んだ後、次のように言ったのである。

「白鳥を本社に戻したい意向があってだな」

「本社、ですか? みなとみらいの」

人事は基本的に三年でローテーションである、例外はないはずだ。ここへきて僅か一年で異動など、どういった風の吹き回しであるのか。まさかアジスアベバに限っては例外というのか。白鳥はジョーの言葉を待った。

「ああ、貴様も今年、三十ニ歳になるだろう、本社で三年、製造現場で三年、そしてエチオピアで一年を過ごした貴様は、十分に社会人としての礎を築いたと思うから、是非、本社に戻って欲しいのだ」

これまで散々、人をこき使ってきたジョーの言葉だけに、白鳥は猜疑心を込めながら、「ちなみに、どこの部署でしょうか」と、問うと、「便所掃除だ」という回答が返ってきた。

なにやらパートタイムで雇っていた清掃係が辞職したらしく、なかなか穴が埋まらないらしい。白鳥であれば、便所の重要性を熟知しているだろうから、適任かと思ったが、白鳥の返事はジョーの意に反するものであった。

「便所掃除であれば、好きな時に便所に行けるぞ、なぜなら職場が便所だからな」

尚もジョーは飴をチラつかせるが、思いの外、反応は薄い。

一年前であれば、間違いなく首を縦に振っていたであろう白鳥だが、

「いえ、私はエチオピアに残ります」

と、毅然と応えた。

意外な反応にジョーは、一瞬、戸惑うような表情を浮かべた。

「ほう、そうかい。あれほど本社にこだわっていた貴様が、エチオピアに永住か? 頭でも狂ったのか」

「いいえ、とんでもございません、日本にいても糞漏らしで後指を差されるだけですし、寧ろこちらの方が英雄扱いされて心身は穏やかですよ」

白鳥が岐阜の鋳鉄工場で、作業中に大便を漏らし、さらに漏らした大便を溶炉に投げ入れ隠そうとした伝説は、もはや社内で知らない者はいない。岐阜工場のエントランスには、脱糞野郎の名を付した黄金の巻糞像とともに、白鳥の銅像も新たに建設されていた。

陰湿な日本の企業風土では、『失禁=悪』の構図は定着されており、禁忌を破った白鳥に、もはや居場所はない。

そして、さらに白鳥は、決定打となる事実を打ち明けたのである。

「私、結婚を決めたのです」

「ほう、そうか」

まさか失禁した西洋かぶれの女を愛でる男がいるとは。

ジョーは驚嘆しながらも、

「ちなみに相手は誰なんだ」

と問うと、白鳥は、一呼吸置いた後に、

「金子支店長です」

と言った。

ジョーは再び驚愕して括目させた。

「ほう、あの精神疾患の金子とか」

「初めてエチオピアに来たとき、彼は私の糞便談話を真摯に聞いてくれました。作業中に糞を漏らして溶炉に投げ込み、その後、白鳥論の儀形となった私を愛する男性など、金輪際、現れないと思っていましたが、彼は広い懐で、糞便を含めて、私を受け入れてくれました―」

白鳥は未だ三十ニ歳だが、五十歳を超える金子は、そろそろ定年後の身の振り方を考えていた。

精神疾患持ちでバツイチ子持ちの初老男性を受け入れる女性はさして多くない。

「それじゃあ、このままアジスアベバに骨を埋める気かな」

「ええ、既に郊外に家を建てている最中です」

不本意な失禁伝説で一躍有名になった白鳥は、社内結婚など有り得ないと諦めていたが、これまでの金子の過酷な人生を考えれば、大便を漏らしたことなど放屁程度の些末なことである、と割り切ることが出来たのだ。

「がっはっは、こりゃ傑作だ、よかった、よかった。互いに瑕疵がある者同士、仲良くやってくれ」

ジョーは噴飯するように笑うと、シャンペンのグラスを白鳥に渡した。

エチオピアでは、女性が男性の三歩後を歩く男尊女卑の文化がある。

これは、かつて白鳥が抱いた男女平等の精神とは真っ向するが、しかし、女性が献身的に男性の世話をしたり、家庭を守ることが男尊女卑に繋がるかといえば、それは全く違う。

エチオピアにはエチオピアの風土があり、固有の文化がある。

白鳥は一年間のアジスアベバ駐在で、日本のような高等化社会のストレスを厭い、この地で悠々自適な生活を送ることこそが、真の人生の幸せに繋がると決心したのであった。

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