第19話

他の駐在国と違って、定型の従業員規則の存在しないエチオピアでは、駐在員用のアパートメントなど未だ整備されている訳がなく、しばらくはホテル住まいとなった。

意外にも、アジスアベバには、シェラトンやインターコンチネンタル、ヒルトンといった外資系高級ホテルが多く進出しており、ホテル事情は充実していた。

しかし、精神疾患者の寄せ集めで構成されたエチオピア駐在員にそこまでの贅沢を会社が認める訳がなく、白鳥らは、素泊まり一泊千円の『ハイツ・ホテル』へ長期滞在することが決まった。ハイツ・ホテルは、アジスアベバ市内では中級程度であるが、日本のビジネスホテルの足元にも及ばない不潔さで、なにより便所が離にあるのは苦痛であった。

日本から空輸した生活用品は、既に白鳥の部屋に運び込まれており、開梱して部屋を整理すると、それなりに生活感は出た。

しばらく、ここが居住空間となるのか。

岐阜の独身寮と比べて、どちらがマシであろう、などと考えながら時計を見上げると、時刻は既に日付を過ぎている。

明日も仕事である。白鳥は電気を消すと、すぐに床に付いた。

しかし、エチオピア最初の夜、白鳥は悪夢に魘さることになる。

「ギュルルル…、ギュルルル…」

野鳥で有名なエチオピアは、首都アジスアベバでも多くの鳥類が飛び交い、夜間も得体の知れない鳥たちの合唱が聞こえた。

長時間の移動と慣れない環境に疲労が蓄積していたが、白鳥は、そんな鳥々の合唱に、なかなか眠りに就けずにいた。

「ギュルルル…、ギュルルル…」

月灯が部屋に差し込み、窓外の木枝の陰が、夜間であるのに木漏れ日のように揺らいでいる。枝先には、一羽の黒襟雉鳩が、怪しい鳴声を轟かせている。

「ギュルルル…、バビ…、バビバビバビ!」

一旦、眠りについた白鳥は、妙な物音で目を覚ました。

気が付くと、白鳥の背中は汗でグッショリと濡れている。

また、突如として、激しい悪寒に襲われたのである。

先ほどまで枝先に留まっていた黒襟雉鳩は、既に飛び去ってしまっていたが、未だに妙な鳴声が、どこからともなく響き渡っている。

長時間のフライトの後、慣れないエチオピアの街並みをひた走り、気付かない内に、白鳥は相当の体力を消耗していたことは違いない。

金縛りによる幻聴なのか、そう思った矢先、さらなる歪音が聞こえたとき、それが雉鳩によるものでなく、自分自身の下腹部から鳴っていることに気か付いた。

間違いない、この感覚は、下痢である。

白鳥は、自身の腹鳴りを、東アフリカ特有種の黒襟雉鳩の鳴声と聞き違いし、さらに自らの放屁音で目を覚ましたのである。

黒襟雉鳩の囀りを交えたエキゾチックなアフリカ初夜は一変、急激な便意とともに悪夢に襲われた。

思えば昨夜、腹の調子が悪い時は、敢えて暴飲暴食した方が胃腸の内容物が巡回して回復が早い、という金子の言葉を信じ、その後、調子に乗って中華料理三人前を口にしたのが大きな仇となり、猛烈な腹痛に襲われたのだ。

白鳥の脳裏には、こちらに向かって爪を上げる上海蟹の大群が蘇った。

見ず知らずの国にきて海産物を口にするなど、胃腸の弱い白鳥にとって自殺行為に等しかった。

白鳥は、たとえ信頼のある人間であっても、他人の言うことを易々と鵜呑みにするのは愚かである、と後悔の念に駆られたが、時既に遅し、糞便は既に尻穴から頭を覗かせている。

必死に腹部を抑えて便意の波が過ぎ去るのを待ったが、意に反して下腹部からは轟音が鳴り続き、このままでは真新しいベッドの中で糞便を撒き散らしてしまい兼ねないと思い、便所に行くことを決めた。

「すみません、ちょっといいですか」

白鳥は、蝶番の施錠を外すと、部屋の扉を開け、外にいた警備員に声をかけた。

ホテルには、盗難防止のため、二十四時間体制で警備員が張っている。社員を捨て駒程度にしか考えていない安徳工機でも、さすがに殉職してしまうと会社側の管理責任が問われるため、生かさず殺さずの必要最低限の安全は確保していた。

「なんだ? こんな夜中に」

驚いたことに、ここの警備員の名前も、アッブブといった。

エチオピアは、国民の六割がキリスト教であり、次いでイスラムと続く。そのため、聖書上の登場人物の名前をそのまま引用することが多く、名前が被ることは珍しくない。

しかし、こっちのアッブブは、ガイドのアッブブと違って、些か愛想がなく、白鳥が話しかけると、面倒な者を見るような目付きでいった。

「夜間の外出は禁止されているはずだが」

「申し訳ありません、急な腹鳴りがして、用便に行きたいのですが」

「用便? 我慢しろ、大人だろう」

「いえ、我慢の限界で、既に身が出ています」

アッブブはひとつ舌打ちをすると、

「大か、小か?」

と問うた。

三年間の過酷な工場実習の中で、トイレに行くために、わざわざ他人に申告しなければならない慣習にも慣れた。

「うんこです」

白鳥が言うと、アッブブは、然も眠そうに大欠伸をして、面倒そうな素振りを見せたが、対する白鳥の方が緊急を要すのだと訴えると、アッブブはカラシニコフと懐中電灯を手に取り、暗闇を電灯で照らしながら、離にある便所へと向かった。

ホテルを出て二十メートルほど向かった先にある用便個室は、煉瓦を積み塗炭屋根を被せただけの簡素な造りで、所々、ブロックが欠け、いかにも崩れそうで心許無かった。

思えば、昨昼、白鳥がアジスアベバに到着してから現在に至るまで、空港やオフィスの洋式便所でしか用便を足しておらず、これが人生初のエチオピア式便所であった。

ギイイッ、バタン。

塗炭扉の錆びた蝶番が不気味な音を掻き立てる。

白鳥が一歩、便所に足を踏み入れると、そこには驚愕の光景が広がっていた。

エチオピアの一般的なトイレは、コンクリート石の床に深さ七、八センチ程度の僅かな溝が掘ってあるだけの『便溝』であり、勢いよく噴出した糞便が、溝から撥ね散る危険性が高い。

また用便後も注意が必要で、エチオピア式便所は、一応は水洗であるが、天井に括りつけられたバケツホースから無作為に水が流れるため、水圧によって便溝内部の糞便が四方に飛び散る危険性もある。

実際、薄暗い電灯の中で、目を凝らしてよく見ると、前人のものと見られる糞便の痕跡が、びっしりと壁面一杯にこびり付いていた。

このように、種々の危険性を兼ね備えたエチオピア式便溝であるが、今も白鳥は贅沢を言っている余裕はない。白鳥は、ズボンを脱いで便溝に股がると、尻穴の焦点を溝に合わせた。

用便中も、安全のため、アッブブが扉の外で待っていることを思うと気が落ち着かない。これは中華料理三人分の大量の糞便であり、五分、十分ですべて出し切ることは到底不可能なのである。

「ギュルルル、ギュルルル!」

白鳥の下腹部には黒襟雉鳩の大群が大便放出の賛歌を奏でながら、今か今かと飛び立つ瞬間を待っている。

白鳥は、両足を気張りながら、充血した眼球を剥いた。

アジスアベバの夜は、東京と違って外灯が極端に少ないため、トイレの灯りの下には、得体の知れない昆虫が集まっていた。

白鳥は、そんな昆虫の群れを憂い目で追いながら、昨晩の自らの愚行を呪った。金子理論には反するが、慣れない土地に来たときは、極力、暴飲暴食をしない方が身のためなのである。あれはあくまで半分中国人と化した金子にとっては有効なのであって、白鳥にとっては自殺行為である。

―結局、その後、一時間もの間、慣れないエチオピア式便所で格闘を続けた白鳥。すべての便を排出し、ようやく扉を開けると、そこに待っていたのは心配して駆け付けた宿直のホテルマンらであった。

「白鳥様、体調、大丈夫ですか? なにやら便所から物凄い呻き声と黒襟雉鳩の鳴声がしたので、心配して駆け付けました」

白鳥は、蒼白い顔をしながらも、居丈高に言った。

「私は大丈夫です、しかし、大量の糞便が便溝に詰まってしまって、流れなくなってしまいました、申し訳ありませんが、掃除をお願いできますか?」

「鳩の糞ですか?」

「いえ、私の糞です」

ホテルマンらは、互いの顔を見合わせると、

「畏まりました、後は私共で清掃しますので、白鳥様は早く御休みになって下さい」

と、紳士的に言った。

「ありがとうございます、では、私は明日、早いので、部屋に戻ります」

颯爽とその場を立ち去る白鳥。

しかし、ホテルマンが一歩、便所に覗き込むと、阿鼻叫喚の喚声が鳴り響くのは言うまでもなかった。

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