第18話

かくして、半ば強制的に中国行きを伝えられた金子の心情は、並々ならぬものであった。

今となっては世界の経済大国となった中国だが、二十年前は新興国の一つに数えられるだけで、民度や生活環境など、悪い噂が立っていた。

なにより、重篤な精神疾患を患った直後での中国出向は、まさに自分を殺しに来ているのではと疑うほどの仕打ちであった。

妻、子供、そして住み慣れた我が家を離れ、孤独な中国駐在が始まったのである。

「中国人は、やたらに淡を吐くね。所かまわず淡を吐く。道端は勿論、電車や車の中、ホテルのロビー、会社のオフィス、客先、スターバックス、病院の待合室など、とにかく吐く。でも感心したのは、普段から淡を吐き慣れているせいか、淡を掛けられることはなかったね。彼らの淡はコントロールが抜群で、百発百中、絶対に外さないのだ」

いつの間にか円卓には、乗り切らないほどの料理で溢れていた。

魚蛋、豆瓣魚、啖?花、花椒魚など、四川料理の定番の品々を前に、白鳥の食欲は引っ込んでしまった。

テーブルからは八角や花椒の香りが立ち込め、嗅いでいるだけで舌が灼けるほどであった。

「中国には九年もいたから、色々な都市を回ったね。主には沿岸の工業地帯が多かったが。上海や北京、広州はもちろん、日系企業の多い福州や杭州、武漢、瀋陽、天津など、諸々行ったよ」

「それだけ中国に行っていれば、ほとんど中国人じゃないですか」

「あはは、そうかもしれないね」

金子は声を高らかに自嘲した。

「僕が中国の現地会社で教わった大事な言葉に、留面子、有道理、合情合理というものがある。どれも有名な格言で、中国人の国民性をよく表す格言のようなものだ」

「留面子、有道理、合情合理、ですか、それぞれどういった意味なんでしょうか」

「留面子は面子(メンツ)を守るということ、有道理は正しい道理や論理に従うということ、そして合情合理は、情、つまり人間性と、理、つまり道理の双方をバランスよく使い分けるということ。どれも簡単ではないが、これらを心がけることで、中国人との付き合い方は上手くいく」

金子は、九年間の中国駐在で得た経験を糧に、白鳥に中国人の国民性を説いた。同じ東アジアにいながら、国民性が極端に違う日本と中国。互いの文化を理解することで、今後の仕事もスムースに進むのである。

これから?泄漏有限公司と協業を進める上で、エチオピアでの成功は中国人との付き合い方に全てがかかっているといっても過言でない。金子の語調にも力が入った。

「彼らは、マナーが悪いと思われがちだが、それは単なる先入観だ、例えば接待の席では、彼らは絶対に泥酔をしない。留面子の精神があり、人前で醜態を晒すことを嫌う。それに煙草を吸う時は、必ず目上の人が吸うのを確認してから、後で吸う。これは儒教の精神からきているのかも知れない」

「なるほど、重きを置く場所が違うだけで、道徳心はあるのですね、肝に銘じます」

白鳥は感心しながらも、畏まった様子で応えた。

設計畠という不夜城の生活、精神疾患、そして理不尽な海外左遷。

これまでの金子の人生は、白鳥にとってはまるで想像もできない世界であり、そんな金子の教えには、ただただ恐縮するしかない。

「あっはっは、肝に銘じるとは、大袈裟だね。とは言っても、やはり中国人と日本人の交流には限界があって、特に海外慣れしていない駐在員は鬱になりやすい。聞くところによると、中国駐在員の四人に一人が鬱病にかかっているという。中国駐在員は、常に睡眠導入剤や精神安定剤を服用しているから、産業医がフルに稼働して、挙句の果てに産業医が鬱になっている状況だ。上海や広州ならまだしも、内陸部は悲惨だ。設計部で倒れて、三ヶ月間、精神病棟に入院し、その後、半ば強制的に中国出向が言い渡られた時、僕は思ったね、会社は完全に僕を殺しにかかっていると―」

それなりに優秀な大学を出て、大手企業に就職し、役職を得たにも関わらず、過労で心身を擦り減らし、会社によって人生を棒に振るわれた金子の人生は、あまりにも酷であると思った。

「日本に妻と娘がいたんだが、僕があまりにも家を空けている時間が長いものだから、ある日、突然、失踪していたんだ」

「ひどい…」

「ああ、どうやら、他に男がいたらしい」

今年、五十歳を迎える金子は、本来は役定となる年齢だが、こうして海外出向を続けることで、多額の養育費のために、駐在手当を稼いでいる。

白鳥は思った。

金子という男は、一体、何のために働き、何を目的として生きているのか。

別れた妻のため、自分の心身を破壊した会社のためというならば、すぐに辞めるべきだ。

失うものがなくなったはずの金子を、何がここまで追い込むのだろうか。世間体のためというのならば、日本社会の柵は悪である。

「その後、九年間の中国生活で三つの仕事を回し、最後に担当した仕事がたまたま中国政府系企業との建設合弁であったため、その流れでエチオピアに来たという訳だ」

金子はいつしか、セント・ジョージから紹興酒へと切り替えていた。

もともと悲壮した金子の顔は、酒に顔を赤らめ、見た目より老けて見えた。

「今は、もう、なんともないんですか?」

「ああ、お蔭さまでね。意外にも気持ちはすっきりしている。エチオピアは生活環境が良いとは言えないが、未だに天水で農業を行うこの国では、日本のような高等社会のストレスはないし、中国のような大気汚染もない。ここでは人々が実に楽しそうに暮らしているのだ」

金子は、他人事のように言うと、再び声高らかに笑った。

白鳥を含め七人の日本人駐在員で行われた団欒は、いつしか金子、白鳥の二人と、その他五人という様に、会話の渦が分かれていた。

神妙な面持ちで話す二人に対し、もう一方の渦では、賑やかな話題で溢れている。

「長い間、海外生活をしていて、辛かったことはありますか」

「あるよ、そりゃ、辛い事の連続だったけど、一番キツいことと言えば、トイレだね、食事中に下の話など申し訳ないけど―」

三十代半ばで心身を崩し、その後、九年間、海外出向を命じられ、気付いた頃に嫁子供からも見捨てられた男が、最もキツイことといえば、トイレであるということを聞き、白鳥にはどうしても他人事に聞こえなかった。

「でも、多かれ少なかれ、海外駐在を経験する者は、トイレに対して不安を覚えるものだよ、日本ほどトイレのクオリティが高い国は他の先進国を見回しても、見つからないからね、便座の温度調整ができて、温水洗浄機能があって、自動で蓋が開くわけだ。これに慣れてしまうと、扉のないニーハオトイレなど、とても耐えられる訳がない」

「トイレはどのように克服したのですか」

同じ悩みを持つ身として、白鳥は敢えて詮索して聞いてみた。

「人それぞれ対処法はあると思うけど、僕の例を言うと、ある種のショック療法として、下痢のときは敢えてアルコールや香辛料たっぷりの中華料理を暴飲暴食するのだ、こうすることで、胃腸の中に溜まった腐敗物を出し切る、一時的な苦痛は伴うが、過ぎ去ってしまえば問題ない、ちなみにこの方法は中国三千年の歴史の中で、最もポピュラーな方法だよ」

「なるほど、随分な荒治療ですね…」

金子の説明は一種の説得力を伴った。

なぜなら、金子自身が、かつての白鳥と同じく、仕事中に失禁するという社会人として最も屈辱的な体験をしており、その後も海外の過酷な生活環境の中で、なんとか順応してきた経験値に基づく対処法だからである。

宴の時間は思いの外、早く過ぎ、時刻は既に十時を回っていた。

一行は会計を済ますと、帰り支度を始めた。

「今日はいいよ、白鳥はゲストだから、僕が払っておく」

金子は白鳥の手を封じると、二名分の会費を渡した。

各々の帰路に着く駐在員達。

日本の企業戦士達の背中が、異国の夜闇の中に消えていく。

このとき、白鳥にはある純真な思いが芽生えていた。

未だかつて、これほどまで親身に糞便談話に付き合ってくれた人物は、金子以外に誰一人として存在しなかった。

そんな金子に、白鳥が恋心を抱くのは、時間の問題であった。

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