第15話

日本から十四時間の長時間フライトを終えた白鳥の疲労は限界に達していた。

六時間を超える飛行機移動は、通常はビジネスだが、総務が誤ってエコノミーを選択したため、空港に到着したときには、臀部から背中に至るまで、感覚がなくなるほどの痺れに襲われた。

白鳥は、悲鳴を上げる腰を手でさすりながら、恐る恐る飛行機の扉を出ると、味わったことのない土漠の空気と、空港外に広がる黄土色の景色をみて、そこが得体の知れない地であることを実感した。

入社四年目の四月一日付で岐阜第三工場の鋳造課へと配転となり、三年間製造現場に籍を置いた後、白鳥に言い渡された辞令は、白鳥の想像を遥かに超越する内容であった。

「アジスアベバ?」

白鳥は素っ頓狂な声を上げた。

「ああ、そうだ。君には四月からアジスアベバに行ってほしい」

聞き慣れない都市名に首を傾げた白鳥だが、それがエチオピアの首都であることを知り、身が凍る思いがした。

「エチオピアと申しましても、私はアフリカに行ったことがありませんし、一体全体、その地にどんな仕事があるのか、皆目、想像できません」

口では飄々と言ってみたものの、アフリカ駐在など、どう考えても有り得ない選択肢であると感じた。

ジョー自身も、「ああ、ワシもアフリカなど行ったことはない」という反応で、白鳥は背筋を仰け反らせるしかなかった。

「貴様が販売部に戻りたいというから、わざわざ調べてやったのに、なんだ、その態度は」

ジョーは俄かに剣幕を荒げたが、白鳥は、呆気に口を開けたままである。

白鳥が抱くアフリカの印象といえば、昔、学校の教科書で見たような、竹槍でシマウマを追いかける原始的なものである。

そんな未開の地に、安徳工機のような日本の大手製造業が進出する場所があるのかと、疑問を抱くのは無理もない。

しかし、そんな白鳥のステレオタイプを打ち砕くように、ジョーは至極、淡々とした態度で、説明をはじめたのである。

「近年、産業発展の著しいエチオピアでは、産機の需要が爆発的に増えていてだな、例えば安徳工機が製造販売しているフォークリフト、大型空調、建設機械だけでも、まったく需要が追い付かんのだよ」

工機・産機の製造を主業とする安徳工機は、新興地域に事業所を構える傾向にある。そのため、長い会社員人生の中で、一度や二度の僻地への出向は避けられないが、NEXT11にすら属さないエチオピアは、日系企業の進展すら例がなく、超がつくほどの未開の地であった。

果たして、そんな場所でビジネスが成立するのか。

疑問に思う白鳥を余所目に、ジョーは更に続けた。

「エチオピアのインフラ業は、ほとんどが国営企業だから、売る側としては安心して売れるのだよ」

「国営企業、ですか」

「ああ、エチオピアは民営化が完全に進んでいないため、建設業やインフラの整備は政府が取り仕切っているのだ。だから相手が潰れるリスクはないし、現に多くの中国企業が進出に臨んでいる」

アフリカ大陸の中でも二番目に人口の多いエチオピアは、豊富な労働力に恵まれているだけでなく、政府主導で積極的に外資系企業を誘致し、現に中国資本が次々と同国に流入しているのだという。

ここ数年で首都アジスアベバは建設ラッシュが進み、安徳工機の主力建設産機である、土木機械、揚重機械、高所作業車など、すぐにでも調達させたい意向らしい。

一連の説明を聞き、それまでエチオピアの内政情報は皆目持ち合わせていなかった白鳥だが、一方で未開の地を開拓するのはやりがいがあると、ジョーの説得を聞き入れた。

「アジスアベバ行きを、承諾してくれるね」

ジョーは白鳥に握手を求めた。

ここで手を伸ばしたら、本当に後戻りはできない。

しかし、考える余裕を与えないのも安徳工機の人事手法であり、白鳥は固く手を結んでしまうのであった。

「エチオピア駐在を承諾してくれてありがとう、ところで、一点だけ、気を付けて欲しいことがあるんだ」

白鳥が、少なからずエチオピアに対する固定観念が解けたことを確認すると、今度は言い難そうな様子で、ジョーは加えた。

「実は治安の問題があるんだ、エチオピア国内は平和なんだが、周辺国ではそこら中で紛争が起きているから、女性ひとりで行ったら、最悪、死ぬかもな」

「し、死ぬ?」

白鳥はハッと息を吐きながら問うた。

「いや、死ぬね」

「死ぬって、まさか…」

まさか出向承諾の後に命の危険があると知らされるとは、さすがは安徳工機の人事手法に抜け目はない。開いた口が塞がらないとは、まさにこのことである。

「まあ、いいわ、どうせ貴様が死んでも、何ら会社に痛みはない、代わりは腐るほどいるから、死んで本望とでも思って、是非、アジスアベバに飛んでくれ、がっはっは」

無茶苦茶な言い分に反論する気も起きず、半ば強制的にジョーの説得を受けた白鳥。

「衣食住は会社が調達するから、その辺は心配せんでおくれじゃあ、判子押しておくね」

こうして、白鳥のエチオピア出向が決定したのである。


ボレ国際空港(Bole international airport)に到着すると、白鳥は入国審査を済ませ、入国ロビーへと出、そこで待ち構えていたガイドと出逢った。

「Tena y?stlin. 白鳥さんですか?」

ガイドのアッブブ・アラマイヨが日本語で語り掛けると、

「ええ、私が白鳥です」

と白鳥。

アッブブは白鳥に握手を求めると、笑顔でこう言った。

「ウンコはん、出なはった?」

「は、はい?」

突然、何を言い出すのかと思い、白鳥が聞き返すと、

「うんこ、うんこはん、出なはった?」

と、再びアッブブは言った。

初対面の相手に何と失礼なことを聞くのかと白鳥は思ったが、当のアッブブは、何ら悪びれる様子もなく伺ってくる。

きっと、日本人駐在員がふざけて間違った日本語を教えたのだろうと、白鳥は思っていると、

「アジスアベバへようこそ、『ようこそ』をアムハラ語で、ウンコアンデナハッタというのだよ」

とアッブブは説明した。

「あ、ああ、なるほどね…」

白鳥は拍子抜けして苦笑した。

たしかに、たとえ文化が違うといえ、空港に到着したばかりの若い女性に対し、うんこが出たかどうかを問うはずもなく、白鳥は胸を撫で下ろすと、アッブブの大きな上背についていった。

「僕は、安徳工機アジスアベバ支店の現地ガイドを担当してます、アッブブ・アラマイヨです。アッブブが僕の名前、アラマイヨは僕の父の名前、よろしくね」

エチオピアには、苗字という概念がなく、自分の名前の後にこうして親の名前を付すことが一般的とされている。

アッブブは、アフリカ人らしい浅黒い肌と、短くまとめられた天然パーマ、身長は二メートル近くあり、一見、威圧を感じるが、日系企業に勤めるだけあって、日本語が話せるため、すぐに打ち解けることが出来ると感じた。

広大なボレ空港を二人は歩いていると、目の前にエスカレーターが見えたため、疲弊していた白鳥は迷わず乗ろうとしたが、「あ、そこはダメだよ」と、アッブブは制止した。

「これはエチオピア国内で初めて設置されたエスカレーターなんだけど、エチオピア人はエスカレーターの乗り方が分からないから、珍しがって人が大挙し、怪我人が続出したんだよ」

アッブブの言う通り、エスカレーターの前には、なにやら「No Entry」の貼紙が貼られており、運転が止められているようだった。

「なるほどね」

些細なやり取りであるが、白鳥は民度のレベルを実感した。

アッブブは、白鳥の荷物を受け取ると、そのまま歩いて駐車場へと案内した。

ガラス張りのボレ空港は、陽光が燦々と降り注ぎ、もともと闊達な空間が、より広く演出されている。白を基調とした近代的な空港内部を見れば、ここがエチオピアであることを忘れさせるが、一旦、外に出ると、空気感というか、やはり異国であることを感じさせた。

一歩、空港を出ると、頭上からアフリカの強い紫外線を浴び、長時間のフライトの疲れが、ドッと溢れ出た。

アッブブはそんな疲れた様子の白鳥に気を遣いながらも、満面の笑みで対応を続けたのである。

「アジスは初めてかい?」

「ええ、というより、アフリカ大陸に訪れるのが初めてです」

二人は空港を出ると、客待ちをする無数のイエローキャブを横目に見ながら、アッブブの運転するバンへと乗り込んだ。

市街を走るタクシーの多くがトヨタ製カローラであり、ここでも日本車の偉大さを実感した。

「あはは、そうかい、でも、皆そう言うよ、僕もアフリカから出たことはないし、エチオピア人は海外へ渡航経験がない人が多い」

「そうなんですか?」

「エチオピアは植民地化された経験がないからね、海外からの文化が流入してないし、歴史的に外交に疎いのだよ」

アッブブはどこか含みのある言い方をしたが、その真相は後程、判明するのであった。

エチオピアの人口九千万人というのは、アフリカ大陸ではナイジェリアに次ぐ第二の規模であり、また周辺隣国に比べ、多くの労働力が安価で手に入るため、新興企業が流入する背景となっている。

中でも人口三百万人を要す首都アジスアベバはアフリカ経済の要衝であり、アフリカ連合やアフリカ国連経済会議など、多くの国際機関の本部がここに位置する。

また、近年、他国を惹き付けるエチオピアの魅力はその人口規模だけに限らず、温暖な気候にもある。

アジスアベバは市全体がエントト山麓にあり、標高二千四百メートルの高山気候に属するため、緯度に関わらず年間を通じて二十度前後と過ごし易く、適度な降雨もあるため、予てより農業も盛んであった。

アッブブの運転する車はボレを出ると、徐々に市中心部へと進んでいった。

アジスの中では高級住宅街で知られるボレであるが、他先進国の都市圏と比べると、やはり新興国という印象が拭い切れず、窓外に広がる景色を眺めながら、白鳥は不安を覚えた。

「渋滞がなければ、ケイザンチス(Kazanchis)までは二十分ほどで着くから、それまで休んでいて構わないよ」

「いえ、大丈夫です」

アッブブは終始、白鳥を気遣う言葉を掛けた。

車中、白鳥はアッブブとの会話を交えながら、そして窓外に広がる景色や現地人の行動を目に焼き付けながら、日本とは完全に異なるアフリカの文化を探っていた。

まるでその行動は、動物が糞尿や性器を擦りつけてマーキングをする様に似ていた。

比較的、環境が良いと言われるアジスアベバの道路も、中心部を除いては、歩行者と車を明確に分ける線がなく、無作為に人が横断するため、その度に車を停止する必要がある。

事前情報通り、近年、著しく建設ラッシュが進むアジスアベバでは、中心部に近付くに連れて、建設中の高層ビルや大型ショッピングモールが現れた。しかし遠目には新興都市の風を靡かせるが、割れた窓ガラスをガムテープで補修しているのを見ると、やはり整備は遅れているのだろうと感じさせた。

その他、傾いた電信柱、建設地周辺に散在する瓦礫、均整のない建物の屋根、泥にまみれた歩道、都市の景観を干渉する細部の諸々が、神経質な白鳥の気に障った。

かつて最貧国のひとつとして数えられたエチオピアだが、ここ数年は二ケタ経済成長を続け、アフリカ随一の経済国と成り代わろうとしている。その過程で、新と旧、貧と富が混同するのは致し方ない。なにより、旧から新、貧から富への移り変わりに、自らが携わっていることに誇りを持たなければ、この仕事はやっていけない。白鳥は、そう自分に言い聞かせると、再び車窓の外に目をやった。

市南東部、空港のあるボレから十五分ほど北上し、メネリク二世通りに入ると、ヒルトンやシェラトンといった高級ホテルや、国際機関の林立する中心部へと入る。

白鳥は、街中に掲げられているメネリク(Menelik)という名前を見ると、

「メネリク二世とは、どういった方なんでしょう」

と、アッブブに問うた。

「メネリクとは、かつてのエチオピア帝国の皇帝のことだよ。エチオピア人のメネリク二世に対する崇拝心は、他国が想像している以上に強い。その背景には、憎きイタリアとの大戦の歴史があるのだ」

エチオピアには、他国に侵略されずに継承された独特の文化が多く残存しており、それは最近、海外資本が同国に流入されるまで、殆ど手付かずの状態で残されていた。

エチオピアはアフリカ大陸の中で、唯一、列強国の支配を免れた国である。ただし一国を除いては―。

「その唯一の敗戦が、対イタリア戦という訳だ」

アッブブは、言葉を濁しながら続けた。

「ウッチャリ条約の誤訳の判明がきっかけで、十九世紀後半に第一次エチオピア戦争が勃発した。歴史上、最も単純で重大なミスだ」

「ミス? 具体的に、どういった誤訳なのかしら?」

「ああ、ウッチャリ条約では、エチオピアの外交規定について、アムハラ語とイタリア語で解釈に相違があったのだ。前者はエチオピア側に一定の自治権を与えており、一方で後者では、エチオピア外交はイタリアの保護下にあると記述した。つまり、イタリア政府だけがエチオピアを事実上の支配下であると、一方的に勘違いしていたのだ」

日本どころか外国との国交が少ないエチオピアの歴史を白鳥が知る由もなかったが、アッブブが熱を入れながら話すのを見て、エチオピアがイタリアを敵視した歴史を偲んだ。

「その後、メネリク二世が条約を破棄すると、激昂したイタリア軍バラティエリ総督がエチオピアに攻め込んできたのだ。しかし、我がエチオピア軍は強かった。イタリア軍は、エチオピア軍の戦力を見劣り、大敗を期したのである」

ハンドルを握るアッブブの力が強くなったと思うと、歴史語りをするアッブブの声量も、徐々に大きくなるように感ぜられた。

尚もアッブブは続けた。

「イタリア人は、我々エチオピア人が、未だに槍を投げて攻撃するとでも思ったのだろう、しかし実際に蓋を開けてみると、一万五千のイタリア兵に対し、我がエチオピア兵は十万人を傭し、さらに八万丁ものライフルを兼ね備えていた。結果的に、大方の予想を狂わし、圧倒的な戦力でエチオピア軍がイタリアを制すると、列強国の度肝を抜いたのだ」

いつの時代も、小が大を兼ねる戦いは、見る者を高揚させる。

当時、アフリカの小国と思われていたエチオピアは、圧倒的な戦力でイタリアを破り、アッブブの言うように欧州の列挙各国を驚かせたのだろう。

そして白鳥自身もまた、窓外に映る近代的なアジスアベバのビル群を見て、この国に対する固定観念が徐々に変化していくのである。

「メネリクの美談はそれからだ、イタリアの敗戦後、首都アジスでは、エチオピア軍が負傷したイタリア兵を介抱したのだ。それは、その後の列強国との国交回復を見込んだメネリクの策略でもあった。メネリクは常に先見の眼があり、外交にも長けていたのだ」

なるほど、と白鳥が感心すると、

「一方で、裏切り者のエリトリア兵は、右腕と左足を削ぎ落とされたがね」

と、アッブブは不適に笑った。

「なるほど、よく出来た話ですね」

「でも、その後の第二次エチオピア大戦では、一回目の敗戦を反省したのか、十分に戦力を蓄えたイタリア軍にエチオピアは敗戦したのだけどね」

第二次エチオピア戦争の開戦は、第一次戦争でイタリアが敗戦してから、およそ四十年の年月が経過していた。

このように、エチオピアが対イタリアを敵視していた時代は、思いの外、長いのである。

「それにしても、アッブブさんは歴史に詳しいんですね」

「そんなことないよ、メネリクの美談は、エチオピア国民であれば誰もが知っているはずだ」

アッブブはそう言って謙遜してみせたが、為人や語学力、歴史の知識を鑑みて、相当の学があると言える。

エチオピアはここ十年で就学率が急増し、農村部を含めても、九十五パーセントを超える児童が学校に通うことが出来ている。

アッブブは比較的、裕福な家庭に育ち、かなりの高等教育を受けているのだろうと、白鳥は勘繰った。

車は、安徳工機のあるケイザンチスへと入った。

ケイザンチス・ビジネス地区は、政府が外国企業向けに整備した経済特区であり、林立する近代的なオフィス群を見ると、ここがアフリカの一部であることを忘れさせる。

「六十年のローマオリンピックで、アべべが金メダルを取得したのは知っているだろう。翌大会の東京五輪でも、アベベは金メダルを取得しているから、日本人にも馴染みがあるはずだ」

「ええ、勿論、知ってます」

東京オリンピックは白鳥が生まれる以前の出来事であるが、裸足でアスファルトを駆け抜けるアべべの姿はテレビで見たことがある。

白鳥が、唯一、知っているエチオピア人だ。

「アベベが金メダルを取得したとき、エチオピア国中が喜んだらしい。敵地イタリアでエチオピア人が優勝したと、彼は最後のエチオピア戦争で、平和的に勝利を齎せた英雄だ」

アベバは四十一歳の若さで逝去したが、生涯、アフリカのスポーツ興行に携わり、現在もアベベの名を付した競技場が残されている。

「ちなみに、僕の名前も彼と同じ、アべべだよ、こちらの訛りでアッブブと聞こえるが、アべべとも発音する」

首都アジスアベバは、メネリク二世通りを中心として、その周囲には、ウガンダ、コンゴ、ロシア、メキシコ、など国名を付したユニークなストリートが同心円状に広がっている。


ケイザンチス中心部のインターナショナル・トレード・センタービルの一フロアを借り切った安徳工機アジスアベバ支店は、支店長の金子諭吉と、数名の日本人駐在員が在籍しており、その他大勢の事務職は現地採用である。

当然、日本人女性は白鳥のみだ。

「よく来たね、アジスアベバは初めてかい」

金子は、細身の体躯であるが、銀縁の眼鏡が知的な雰囲気を醸し出しており、海外駐在員らしいフランクな挨拶で、白鳥を迎えた。

「よろしくお願いします、白鳥香織です」

いつしか白鳥の中では、アンジョリーナのミドルネームは消えていた。

金子は白鳥にエチオピアン・コーヒーの高級種であるイルガチェフを振る舞うと、ソファに腰を下ろし、白鳥と対面した。

ガラス張りの応接室は、ここがパリやニューヨークのオフィス群であるかのような精巧なデザインだが、窓外にはやはり建設中の足場が並び、景観が良いとは言えない。

「君、凄いね、女性一人でエチオピアとは、キャリアウーマンだね」

「いえ、キャリアウーマンなんて、そんな―」

金子は笑って言ったが、当の白鳥はというと、かつて死ぬほど憧れたキャリアウーマンという言葉が、胸に突き刺さった。現在の白鳥は、かつて思い描いていた、ニューヨークやパリで活躍するキャリアウーマン像とは遠くかけ離れていた。

「あはは、我々が扱っている製品、つまり重機や工機というのは、主に新興国に需要があるから、パリやニューヨークなどには支店を置かんぞ、まあ、そんなにネガティブに思わんでおくれ。アジスアベバは常春国だから、常に過ごしやすい、いい国だ」

安徳工機アジスアベバ支店では、主に輸入品の販売を行っている。同国内にはノックダウン工場と品質検査場があるが、生産拠点はない。

輸入品の多くはインド、パキスタン、そして中国からであり、一部、政府系建設企業である?泄漏有限公司と産機の共同開発を行っている。

安徳工機がエチオピアに進出した背景も、元はと言えば同国内でインフラ整備を行っている?泄漏有限公司との協業によるものであった。

「来てもらって早々、こんなことを言うのはなんだが、はっきり言って、我々自身も、ここで何をやればいいか、全くもって分かっていないし、君に何をさせていいかも決まっていないのだよ」

金子の説明を片耳で聞きながら、白鳥は支店内を見渡した。

オフィスには日本人の管理職を囲うように、大勢の現地スタッフが働いているのが目に入ったが、彼らが一体、何をしているのか、皆目、見当がつかなかった。

金子は瞑目しながらイルガチェフの香りを堪能すると、ゆっくりと一口、啜った。

初対面ではあるものの、金子の優雅な振舞いを見て、掴み所のない男であると、白鳥は感じた。

「僕も様々な国に行ったが、アフリカは完全な未開だ、インドやブラジル駐在などまだマシな方で、ここにどんな企業があるのか、誰も情報を伴わせておらんのだ」

歴史的経緯から、エチオピアでは長らく外国資本を受け入れていなかったが、近年、積極的に中国資本を受け入れ、市内では建設ラッシュが続いている。建設重機の需要が延びている要因だ。

アジスアベバ中心部には、中国の政府系企業によって敷設されたアジスアベバ・ライトレールが走る。

土気色の街並みに、突如、現れた近代的な萌葱色の鉄道が、異質な雰囲気を作り出していた。

「エチオピアに日系民間企業の駐在事務所がないわけではないが、その数は非常に限られており、あるのは、地場の革製品を扱う衣料系企業と、コーヒー豆の輸入を行う総合商社のみである、このイルガチェフも、数少ないエチオピア製品のひとつだ」

応接には、種々のコーヒー豆袋のほかに、木彫りの人形や、キリンの切り絵、民芸品が所狭しと飾られていた。どれも金子が現地のメルカドを巡って買い付けたものだという。

「本当にここは前人未踏の地なのですね」

「うん、実際、アジスアベバに駐在事務所を置くのは、日本の製造業としては安徳工機が初めてだ。それも、?泄漏有限公司に産機を卸すのが目的であって、我々だけで市場を開拓することも出来ないし、現地企業とのコネクションもない。あるのは、エチオピア政府、?泄漏有限公司、そして信頼の置ける現地スタッフだけだ」

エチオピアの近代経済を紐解けば、ここで事業を繰り広げることが決して安易ではないことは明快だった。

安定した内政状況のエチオピアだが、周辺隣国に恵まれておらず、一九九一年のエリトリア独立に伴い内陸国となったため、物品の輸入は専らジブチを経由するしかない。かつてはエリトリア南部のアッサブ港も使えたが、九十八年に勃発したエチオピア・エリトリア国境紛争によって、このルートは完全に断たれた。

金子はイルガチェフを飲み干すと、颯爽と立ち上がり言った。

「とりあえず、夜は外に出歩かないことと、何かあったらカラシニコフを持った現地警備員に問い合わせてくれ、ということだけだ。ちなみに現地スタッフは、英語はおろか識字能力もないから、アムハラ語も伝わらないことがある、コミュニケーションは、身振り手振りでなんとかしてくれ。なにせ、この国の識字率は四割を切っているからな―」

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