第14話

「―おお、見ないうちに随分と窶れたな!」

白鳥が鋳造工場に配属してから、早二年と半年が経過していた。

十月。

茹だるような猛暑の夏を乗り切り、些か涼し気な空気が、ここ鋳造工程にも流れるようになった今日この頃、白鳥は普段通り作業を行っていると、背後から聞き覚えのある声がした。紛れもない、人事部のジョーである。

「がっはっは、化粧をしないと驚くほどブスやのう」

ジョーは、歯に衣着せぬ言い方で白鳥を罵った。

そこにいたのは、かつてとは違い、化粧っ気もなく、素朴な面容をした白鳥の姿であった。

「良かった、良かった、会社員たるものは、若いうちに余計なプライドを折っておいた方がいいからな」

ジョーは、一通り白鳥の作業を観察すると、満足した様子で、「後で話があるから来い」と言って鋳造詰所に向かった。

白鳥は、不穏な様子を勘繰りながらも、午後の作業を終えると、早々と終業後点検を済ませ、詰所へと戻った。

「どうだ、工場の生活は」

「お陰様で慣れました」

ジョーは、やはり八十円のコーヒーを白鳥に手渡した。

白鳥はタブを空け喉に流し込むと、三年間の工場生活について、ジョーと談話を続けたのであった。

それからというもの白鳥は、糞便こそ漏らしたものの、持ち前の負けん気の強さと明晰な頭脳で、新人作業員の指導係を任されるまでに成長した。

通常、指導係になるまでは最低でも七年は現場作業を持ち回らないといけないが、白鳥は徐々に工程責任者にも信頼され、鋳造工場としては初の女性指導係となったのである。

「そうか、入った当初は糞ばかり漏らして、挙句の果てに役員会議の話題にもなったようだが、今となっては立派な指導係だ。人事の中でも、糞漏らしの白鳥が指導係になったと、評価は上がっているぞ」

「ありがとうございます」

ここに来るまでの白鳥は、上司の指示は聞かず、勤務地や仕事を選り好むというどうしようもない問題社員であったが、過酷な環境の中で粗が取れ、社会人として必要な人間性を兼ね備えた。

ジョーは、これまでの白鳥の功績を称える言葉を並べると、仕切り直し声調を整え、次のように続けた。

「ところで、君もここに来てそろそろ三年が経つだろう、人事は基本的に三年でローテーション、そろそろ異動の時期だ。行きたい部署はあるかね」

思えば三年前の今日、横浜みなとみらい本社の販売部に在籍していた白鳥は、人間性を更生させる目的で、半ば懲罰的に製造部へと左遷となった。

大卒、しかも入社四年目での製造部への異動というのは過去に例がなく、それだけ当時の辞令は特異であると思われた。

今となっては当時の怒りも喉元を過ぎたが、一方でこれ以上、製造現場に居続ける気概は皆目なく、白鳥は終始、仏頂面を貫くと、

「現場作業でなければ、どこでもいいです」

と続けた。さらに、

「ここより辛い所はないですから」

と、力ない声で付け加えた。

「そうか、それを聞けて良かった」

白鳥の言葉を聞き、ジョーは一瞬、ほくそ笑むと、「どこでもいい」という返事を逆手に取り、ある提案をしてみた。

「実はインド東部のハルディア工場で人員が足りてなくてな、一人逮捕されて人員が欠けてしまったのだが、どうだ」

「インド、ですか…」

ハルディア工場といえば、コルカタから南方に六時間ほど車を走らせた場所にある電子基盤工場であるが、十分にインフラが整備されておらず、買物や風俗といった娯楽もないため、日本人出向者から圧倒的に人気がない拠点の一つとされていた。

インドと聞き、白鳥は目を泳がせながらも、決して狼狽した様子を見せまいと、まずはジョーの説明を聞くに徹した。

「ハルディアで昨年、社員の一人が、鬱が原因で発狂し、同性ばかりを狙った買春行為で捕まり会社を追われたため、人員に穴が空いたのだよ。インド駐在は誰もが首を横に振るため、製造現場を三年間経験した君は良い鴨と思ったのだが、どうだろう」

安徳工機インド支店の社員が、買春行為で逮捕された事件は、社内報のみならず、全国ニュースにもなったため、既知であった。

一方で、その穴埋めのためにインドに飛ぶほど、白鳥に心の余裕はなかった。

白鳥は意を決して、

「わたくし、販売部に戻りたいのですが」

と言ってみると、

「なぜだ?」

と存外な反応のジョー。

本音をいえば単純に都市部で働きたいという動機だが、本音が通用する相手ではないため、白鳥は言葉を選びながら言った。

もともと岐阜に飛ばされたのも、自身のワガママな勤務態度が原因であったため、尤もらしい動機を探し、次のように発言した。

「私は販売部を志望してこの会社に入りました。製造現場で三年間培った経験を、商品販売に活かしたいのですが、どうでしょうか―」

ジョーは、腕組をし、悩む素振りを見せながら、

「販売部か、しかし販売部は需要に対して供給が足りているというか、端的に言えば、貴様が来ても仕事はないぞ、貴様より優秀で使える社員は腐るほどいるからな」

と、人事事情の裏側を打ち明けたのである。

「きつい、汚い、臭い」の3Kで知られる製造現場が常に人員不足な一方で、販売部は都心に事業所がある他、出世など、各面で優遇されているため、定員に対して希望者が多く、人気部署となっていた。

端から白鳥の主張を撥ね付ける様子のジョーであるが、白鳥にも言い分はある。

雇われの身からすれば、いかに条件の良い職種に就くかが重要で、会社の利益など、どうだっていい。

会社が社員を駒のように遣う一方で、社員もまた、会社側を利用しなければ、利害は一致しないのである。

毅然と対峙する白鳥に対し、尚もジョーは明確な答えを決めあぐねながら言った。

「ううむ、しかし、君の言う通り、大卒社員を製造部に何年も置いておく訳にもいかんしな…」

固く腕組みをしながら悩む素振りを見せるジョー。

ジョーは鞄からノートパソコンを取り出すと、電源を付け、人事部が極秘に管理している人員リストを眺めはじめた。

ジョーも人間である。

さすがに岐阜の鋳造工場で、大卒社員、しかも女性を三年も追いやった直後に、さらにインドに飛ばすほど、人事部長も鬼ではない。

アメとムチを使い分けるのも良い上司の資質なのである。

「そんなに販売部に戻りたいか?」

ジョーは、人員募集リストを確認しながら、眉を八の字に曲げ問うた。

「ええ、是非とも」

白鳥は表情ひとつ変えず、真剣な目を向けたままだ。

「そうか、確かに、工場に飛ばされるくらいなら会社を辞めた方がマシだと言っていた君が、三年もの間、過酷な労働に耐えたことは評価したい」

ジョーは、更に調べ物をする様子で、人事情報を眺めていると、何かを見つけたように、声を上げた。

「お、販売部に一枠あったぞ!」

「ほ、本当ですが」

白鳥は、嬉々とした様相で、ジョーの話に飛び付いた。

やっと販売部に戻れる。

薄汚い岐阜の工場にいて、寮と会社の往復で一日を終える生活を強いられた白鳥は、二度と本社に戻れないとすら感じていたが、ジョーの口から発せられた一言が、希望の鐘に聞こえた。

「うむ、ただし、条件がある」

「条件、ですか?」

白鳥は目を丸くして問うた。

「ああ、海外転勤も厭わないという条件であれば、あることにはあるが―」

インドと聞かされた後に海外と言われたものだから、不安を感ぜずにいられず、白鳥は、

「ちなみに、国はどこでしょうか…」

と、恐る恐る行先を伺った。

「うむ、悪くはないと思うぞ。日本から直行便が出ていて、人口が多く大国で、気候は暑くもなく寒くもなく温暖で過ごし易く、首都で―」

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