第16話
アジスアベバ中心部、シェラトンやヒルトンといった高級ホテルが林立するケイザンチスの一角にある中華料理レストラン『??飯店』に一行は場所を移すと、女性として初めてアジスアベバ駐在員となった白鳥の活躍を祈願して、ウェルカムパーティが執り行われた。
四川料理が中心であるためか、店内の装飾は赤を基調としており、流れてくるBGMもまた、中華琴や二胡など、やはり四川らしい雰囲気を醸し出していた。
支店長の金子を長としたアジスアベバ駐在員一行は、半年前から視察目的でアジスアベバに短期滞在を繰り返しており、本格的にこちらに移り住んだのは、年が明けた一月からという。
安徳工機では、インド東部、中国内陸部、ロシア北部、メキシコ山間部など、生活環境の著しく悪い地域への海外出向は左遷と見做される傾向にある。
娯楽もなく、家族や自宅を手放して、慣れない言語環境と現地人スタッフに苛まれながら、暑過ぎたり寒過ぎたりする気候での生活を強いられる海外出向は、ある種の懲罰的人事であった。
なかでも今回のエチオピア駐在に関しては、数ある海外駐在先においても、極めて過酷な環境であり、アジスアベバ駐在員はクセ者中のクセ者で構成されている。
深夜まで残業を強いて多くの部下を精神疾患に追い込んだハラスメント設計課長、体の関係と引き換えに女子大学生に内定を言い渡したすけこまし人事課長、下請会社から金品を横領した営業次長、過酷な労働環境で鬱を発症した金子、そして、作業中にうんこを漏らして溶炉に投げ込んだ白鳥。
金子は、ここに移るまで九年もの間、中国国内を転々とし、偶の出張以外で日本に帰れたことはなかったという。
平等と謳う人事も、完全な平等を実現することは難しい。人によっては、家族と顔を合わす機会がないため、いつの間にか子供が大人になっていた…、という逸話も耳にするが、金子はその典型であった。
乾杯の手始めに、一行は、エチオピアのローカル・ビールであるセント・ジョージを頼んだが、白鳥はハイネケンを注文した。
信頼するもの以外は口にしない。現地の飲料で下痢でも起こしたら、今後のエチオピア生活に著しく支障を来してしまう。
「僕は日本にいた頃、岐阜の設計部にいてね、産機用モーターなど駆動装置の開発に従事していたんだけど、狭苦しい技術屋の空気が肌に合わず、自ら希望して設計を出たのだ。所謂、『設計崩れ』というもんだ」
金子は瓶のままセント・ジョージを口にすると、自虐的に笑った。
安徳工機社内には様々な部門が存在するが、なかでも設計部は花形で知られ、優秀な社員が集まる傾向にある。その分、競争が厳しく、ピリピリとした雰囲気が肌に適わず、自ら他部署への異動を志す社員も少なくはない。
金子は温和な見てくれだが、どことなく卑下のある話し方が、偶に気に障った。
「入社十二年間、設計畠を歩んだ。僕の在籍していたモーター設計は、朝は八時から夜十時までビッシリと打合せが続くため、実務を行うのは早朝か深夜、もしくは土日に限られる。岐阜工場は、ご存知の通りバスが少ないから、夜勤者と一緒に移動したり、会社に寝泊まりしたり、そうだね、平均して週に二日は会社に泊まったかな」
「週に二回、ですか…」
白鳥が、みなとみらいの販売部オフィスで、定時間勤務ののうのうとした生活を享受している一方で、不夜城で知られる設計部課員の実態を知ると、背筋が凍る思いすらした。
金子は続けた。
「ある時、駆動装置に内蔵される制御プログラムの新規開発を任されたことがあった。プログラムを組むと言っても、実際に僕がコードを書く訳じゃなくて、下請のシステムメーカーを統括するんだが、設備側の要件がなかなか決まらなくて、何度もやり直しを喰らった。要件が変わっても、開発納期は待ってくれないから、その内、残業休出を含めた力技になっていって、僕もシステム屋も、百時間を超える残業を強いられたのだ」
設計部門の仕事の流れなど説明されても白鳥には理解し難かったが、金子の語調や表情から、その凄惨さを読み取った。
「当時は、まだ三十代半ば、結婚して子供ができたばかりで、脂が乗っていた時期だけに、多少の力仕事は構わないと思っていたが、納期まで残り一ヶ月と差し迫ったある日の朝、布団から起きると、妙に体が重いと感じたことがあった。二十代の頃は体力があったので、徹夜も余裕だったが、三十過ぎて体にガタがきたのだろう。その程度にしか考えていなかったが、三日経っても怠さは抜けず、その内、手足に痺れを感じ、また難聴や慢性的な頭痛などを感じた」
金子の話しぶりは、徐々に陰気さを伴い、白鳥は、眉間に皺を寄せながら話す金子の表情に釘づけとなった。
「体の不調を感じてから三日目の朝、プロジェクトの進捗会議があった。まさかと思ったが、進捗が芳しくない責任の矛先を、生産技術は開発側の責任に押し付けたのだ。いつまでも設備側の要件を決めあぐねているのは技術サイドなのに、その尻拭いだけでなく、挽回対応まで開発に寄せるなど、正気の沙汰でないと感じたが、誰も状況を理解してくれる人物は現れず、部長含む管理職の前で僕は面罵された。僕は必死に弁明してみせたが、一瞬、頭に血が上ったかと思うと、次の瞬間、思い掛け無いことが起きたのだ…」
「思い掛け無いこと?」
金子は一瞬、口を紡ぐと、
「失禁したのだ」
と、口惜しそうに苦笑した。
「失禁、ですか…」
「ああ、便意を催していないのに、突然、失禁してしまったのだ。当然、周囲の人間は阿鼻叫喚の様相で僕を罵ったのだが、僕はそのままその場に倒れ込み、全身痙攣を起こし気絶して、気付いたときには岐阜市内の産業病院にいた」
失禁と聞いて、白鳥は過去に岐阜工場で大便失禁し、しかもそれを隠蔽するために糞便を溶炉に投げ込んだ所、成分解析によってばれ、白鳥の名前ともども世界中の拠点に散蒔かれたことを思い出した。
しかし、同じ失禁でも、白鳥の方が余程みっともなく感じられた。
「当時の残業は、平均して月百時間を超えていたと思うけど、でも実際に会社に申請したのは、半分以下の四十時間だった」
「ほとんどがサービス残業だったという訳ですね」
調子を合わせながら白鳥が言うと、金子はセント・ジョージを傾けながら小さく頷いた。
今となっては勤怠管理を厳しくなったが、つい数年前まではサービス残業は普通に横行していたらしく、部署によっては、未だに残業申請を認めない上司も存在する。
「それからの生活といえば、本当に人生最悪の期間だったね。窓に鉄格子のはめ込まれた隔離病棟に入れられて、身廻品も洋服も取り上げられ、囚人のような白装束を着せられた。どうやら、窓から投身したり、首を吊ったりするのを防ぐため、身廻品を奪ったらしい。僕は自殺する気概など皆目なかったのだけど、朝起きると無意識のうちに舌を噛んでいたり、手首に爪で引っ掻き傷を作ったりして自傷行為に及んでいた。頭では意識していなくても、体が死のうとしていたようだ」
酒が回るにつれて、金子の語り口調は凄惨さを極めた。
白鳥は、そんな金子の話し方を嫌ったが、尚も金子は、自らの過去を曝け出すように続けた。
「自分が鬱病と申告されるのが、どうしても嫌だった。精神病棟に入れられている自分の存在が認められなかった。今思えば、プライドが高かったんだと思う」
金子の説明によると、当時の入院生活は異様さを極め、二十四時間監視下に置かれながら、手足を束帯で縛られ、外界からの情報を遮断するために、テレビや新聞、雑誌は見せてもらえないし、唯一、支給される娯楽は、心身に影響を来さないであろう古い文庫本だけだった。
病室の中で暇を潰すためには読書以外にすることがなく、同じ本を数十回も繰り返し読んだため、当時呼んだ太宰治の人間失格は、今でも一字一句読み間違えることなく暗唱できるという。
「その後、三ヶ月くらい鉄格子の生活を続けて、漸く病院を出る日がきたときは、娑婆に出る囚人はこんな気持ちなんであろう、と暢気なことを思っていたが、病院を出て真っ先に連れて行かれたのは、自宅でなく、岐阜工場の応接部屋だった―」
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