第12話
いつもより目覚めの良い朝であった。
朝勤務のときは、煩い目覚まし時計の音に眠気眼をこすり起床するのだが、この日は六時きっかりに目が覚め、しっかりと朝食を口にして、たっぷりと糞便を足した後、八時からの始業前点検を行うため出社した。
寮を出ると、眩いばかりの春の陽光が、燦々と白鳥を包み込む。
これは、紛れもなく自分を祝福する幸福の光であると、白鳥は信じて止まなかった。
大便失禁という悪夢のような出来事から一夜明け、一方で、仮に便を漏らしても、溶炉に投げ込んでしまえば万事解決するという逃げ道を発見した白鳥に、怖いものはない。
工場では、前夜勤者が死相を浮かべながら寮へと帰宅する姿が散見されたが、白鳥は鼻歌を謡いながら、スキップして出社した。
「おはようございます」
本社に居た頃と同様、軽やかに挨拶をした白鳥。
今の白鳥にとって、岐阜の鋳鉄工場は、みなとみらいの豪奢なオフィスよりも、ずっと輝いて見えた。
しかし、出社した白鳥の目に映った工場の光景が、いつもと異なって見えたのは、決して心理的な要因だけに依るものでなかった。
有事以外は決して顔を見せない課長級以上の管理職が、見慣れない作業着姿で現場に総出していたのである。
物々しい雰囲気に、なにか事故や不具合でもあったのか、と白鳥は勘ぐったが、それが白鳥の持場となっている溶炉周辺に集中しているのが分かると、さらに不安が高まった。
「あ、白鳥! 貴様、見つけたぞ!」
門前は、出社したばかりの白鳥を捕まえると、まるで指名手配犯を見つけたかのように声を荒げた。
同時に、周囲にいた数十人の管理職級が、一斉に白鳥をジロリと睨み付けたのだ。
「な、なんでしょうか」
何か悪い事をしてしまったか。
白鳥は、身に覚えもない様子で次の言葉を待つと、
「貴様、溶炉に糞便を投げ入れただろう」
と、門前は思い掛けない言葉を口にしたのである。
「え…、な、何のことでしょうか」
「誤魔化すなよ」
門前が、さらに剣幕を荒げて詰め寄ると、
「何故、分かったのですか」
と、白鳥はすぐに自白したのであった。
白鳥が、失禁した糞塊を溶炉に投げ込んだ事実を打ち明けると、その場にいた上役面々は、溜息混じりに、一斉に両手を上げたのである。
「分かるわい、鋳鉄の成分比率がおかしなことになって、設備が緊急停止したのだ」
門前の説明を聞いた瞬間、白鳥はとんでもないことをしてしまったと実感した。
「も、申し訳ございません…」
必死に謝罪する白鳥。
罪悪感よりも羞恥心が勝るのは言うまでもない。
「僅かな塵や埃、工程雑芥が溶炉に紛れ込むことは稀にあるが、今回は違う。得体も知れない成分が混入し、異常をきたし溶炉が止まった」
白鳥は、過去にも作業者が溶炉に飛び込んで自殺し、後に鋳鉄のリン比率が多くなって判明した…、という都市伝説的な逸話を耳にしたことはあったが、まさか糞便程度で溶炉が止まるとは、夢にも思わなかった。
「大便を溶炉に投げ込むなど、前代未聞だ」
門前は呆れ顔で叱責すると、さらに詰め寄って言った。
「最低でも三日間はラインを止めることになる、どう落とし前つけるんだ、貴様」
「み、三日も?」
「ああ、三日だ」
「しかし、人間の糞便など、高温の溶炉に入れたら、忽ち蒸発してしまうのではないですか?」
「甘い、不純物が入ると鋳鉄の強度が弱くなるんだ。一度、溶炉を空にして糞便成分を完全に取り除き、清掃した後に、さらに溶炉の温度を上げて鋳鉄を入れるまでに、最低でも三日はかかる」
機械に疎い白鳥は、鉄の剛性が僅かな不純物で弱くなるという知識など持ち寄せてはおらず、安易に糞便を投げ入れたのである。
「この鋳鉄は自動車部品に使われるんだぞ。しかも顧客は品質に口煩い増田自動車だ。リコールにでもなったらどう責任とるんだ。だいたい、貴様の糞便が混じった製品など、誰が買うのだ」
増田自動車は、国内最大手の自動車メーカーである。
昨今の増加するリコール問題により、増田自動車は、下請メーカーに対しても、厳しい品質基準を強いることで知られていた。
「ああ、なんてことをしてしまったのか…」
ようやく事の重大さを理解した白鳥は、その場で崩れ落ちた。
―糞便混入発覚までの経緯はこうだ。
昨昼に白鳥が糞便を投入した対象の鋳鉄部品は、当日午後に冷却され、製品になったのは日付を超えた頃であった。
品質ナンバーワンを掲げる安徳工機では、各工程に厳しい品質指標を敷いており、ここ鋳造建屋でも、不良品は次工程に流さないことを原則とし、もし不良が見つかれば、すぐに原因解析をし、再発防止策を打つことに決まっている。
「お前の糞便で三日も工場が止まるんだぞ、反省しろ」
門前は、怒気を交えながら、説明を続けた。
夜中、異常な成分比率を示した仕掛品は、すぐに品質保証課が預かり、宿直の保全課や技術課を総動員して、原因解析を行った。
勿論、不良原因が人間の糞であるとは誰も想像できず、問題となる成分が何物であるのか、解析には五時間をも費やした。
夜中一時から始まった成分解析は明け方まで続き、それが糞便であると判明したのは、朝陽が東方に昇りつつある卯二つ時である。
「成分解析で、貴様がどれだけの量の糞をしたか、簡単に分かってしまうだよ」
緊急速報を受けた工場の管理課事務所には、管理職も含め、工場中の技術員が集まり、寝ずの成分解析を続けた。
それはまさに読んで字の如く、不夜城の攻防であった。
「物凄い量の糞便だ。犬や猫が紛れ込んだか」
「いや、これは人間の糞便だ、しかも一人分の」
「嘘だろう、本当に作業者一人の仕業なのか」
「ああ、間違いない。定点監視カメラに、はっきりと糞便を投げ込む様子が映し出されている」
「むむ、しかも作業者は若い女性じゃないか」
「相当溜め込んだな、まるで像のようだ」
「やや、葉物の取り過ぎのようだな、ダイエットでもしているのか」
「玉蜀黍や乳製品も含まれている。昨夜はピザでも食ったか」
次々と判明する成分解析結果を基に、白鳥の食生活までもが暴かれてしまう。
数十人を動員して緊急結成された解析チームは、続いて対応策に乗り出した。
「よし、原因ははっきりした。鋳鉄三十工程の女性作業者が、作業中に大便を漏らし、糞便を溶炉に投げ込んだことが、溶炉停止の主たる原因だ。すぐにその作業員を呼んでくれ」
「いや、対象の作業員は、今週は昼勤務ですので、今はおりませんよ、おそらく八時前には出社すると思われます」
「そうか、分かった。しかし、早速にでも溶炉の洗浄作業を行わなければならない。すぐに洗浄業者を手配してくれ。そうだな、洗浄業者はマテリアル・サービス、担当者はたしか萩尾という者だ、宿直の技術員は申し訳ないが、本日の業務は全て中止にして、溶炉洗浄を優先して手伝ってくれないか」
「了解いたしました」
技術課下請けの保全業者であるマテリアル・サービスに緊急連絡が入ったのは、午前六時を過ぎた頃であった。
緊急連絡で叩き起こされ駆け付けた萩尾は、まさか元部下の糞便を掃除させられるとは夢にも思っていなかったが、本社の指示は絶対であるため、すぐに溶炉から鋳鉄を排出すると、炉の底に泥積した大量の便を見て驚愕した。
白鳥の強固な糞便は六百度の鋳鉄でも蒸発し切らず、溶炉の底にびっしりと溜まっていたのである。
「まるで像の糞便だ…」
清掃作業者を総動員して擦っても、こびり付いた糞便は剥がれとれない。それどころか炉内にガスが充満し、中毒を引き起こすほどであった。
「とても人間の仕業と思えない…」
鋳造部品は、外部メーカーに卸す部品も多いため、迅速に生産を回復しないと、自社のみならず多大な損失を与えてしまう。ここは金に糸目を付けず、すぐに対策を講じるべきという鏑木技術部長の指示が功を奏した。
「とりあえず、工場内はガスが充満して危険だから、今日の作業はすべて中止だ」
炉内にはガスマスクを装備した特殊清掃作業員の姿が多く見えた。
便秘気味であったとはいえ、まさか自分の便がこれほどの殺傷能力を持つとは、白鳥自身も想像できなかた。
「話があるから、俺についてこい、今回の件は只事ではすまんぞ」
ひと通りの説明を終えた門前は、白鳥の手を引くと、事情聴取のため、ある場所へと護送した。
工場では、不具合や事故があった場合、再発防止のために、原因の深堀と対策を事細かに追及する。
これが十分でないと、次回、同様の事故を引き起こす懸念がある。
白鳥は、門前らに身柄を拘束されると、それまで一度も足を踏み入れたことのない解析棟に連行された。
解析棟大講堂には、白鳥を中心に、工場長、技術部長、その下、工程責任者や管理職が、ズラりと並んだ。
岐阜本店工場の工場長といえば、部下数千人を抱え、役員にも直属する雲上人である。これほどの役職を前にするのは、長い会社員生活の中でも、一度あるかないかの経験である。
「早速だが、君、名前は?」
八時から始まった緊急調査会では、まるで尋問のような形式で、白鳥は詰め寄られた。
技術部長の鏑木を中心とした調査団の前に立たされた白鳥は、今にも顔から火を噴出しそうな辱めの中で、淡々と問いに応えた。
「し、白鳥香織です…」
「白鳥香織? そんな名前は社員リストに存在せんぞ。ちゃんと本名で」
鏑木は声を荒げると、
「白鳥、アンジョリーナ、香織です…」
蚊の鳴くような幺細い声で白鳥は応えた。
すると鏑木は堪らず、破顔して笑った。
「ぶっ、そんな薄っぺらい醤油顔で何がアンジョリーナだ、噴飯もんや」
あまりの醜態に反論する余地もない。
二十代も後半に差し掛かった西洋かぶれした女性が、糞便を撒き散らし、さらに溶炉に投げ込んだというのだから、面罵されても仕方がないのである。
詰問を続ける鏑木の目は、罪人を詮索するような、卑しい目をしていた。
東大の冶金科を卒業し、安徳工機に入社した後、技術畑を一直線に歩んだ鏑木。
大会社の組織節理に滅法詳しく老獪でいて、責任を擦り付け他を蹴落とす術に長け、四十歳という若さで部長まで登り詰めた。
誰が何と言おうと、作業中に大便を漏らし、また漏らした大便を溶炉に投げ込んだのは白鳥本人である。鏑木の鋭い視線は、相手に言い訳をする隙を与えない。
「―鏑木部長、ここは、穏便にいきましょう」
鏑木の詰問を前に、すっかり怖気づいた様子の白鳥へ助けの手を差し伸べたのは、品質保証部の前山であった。
「まずは相手の真意を引き出さないと、詰問して萎縮させてしまっては元も子もありません、ここは私に任せて下さい」
前山は、鏑木の詰め寄るような話し方を嫌い、言葉を挟んだ。前山は言葉を選びながら、事の真相を明らかにするため、説明を付加した。
「我々、安徳工機製造部では、半日以上のライン停止をドカ停と呼んでいる。完全自動化の鋳鉄工場で、ドカ停は年に一度あるかないかだ、糞便で溶炉を止めるのは…、おそらく、記録が残っている中で、初の出来事だから、しっかりと対策せんといけないんだ」
前山は、白鳥が作業中に糞便を漏らし、またそれを溶炉に投げ込み隠そうとした動機と経緯を探るため、穏やかな口調で質問をはじめた。
「どうだい、少しばかり、協力してくれないかね?」
赤子をあやすような口取りで前山が言うと、白鳥は小さく頷いた。
前山と白鳥のやり取りを、隣に同席した速記団が、一言一句余すことなく、記録していく。その様子はやはり、尋問というべきか、裁判というべきか、形容し難い厳かな雰囲気が漂った。
「まずは君のプロフィールから聞きたい。入社年と、ここでの業務歴は?」
「入社四年目で、最初の三年間は販売部におりまして、こちらに転勤したのは、この四月です」
「なるほど、製造部としては実質、新人と同じか―」
タカ派の鏑木とは異なり、比較的、温和な面容の前山は声調を和らげながら続けた。
「ミスを冒したのは君の責任だが、初めての製造現場でミスを冒すのは仕方がない」
製造業は常に合理的な検知で仕事を進める。決して感情論に立ってはいけない。
一作業者のミスを個人の責任に転嫁したところで、抜本的な解決策には繋がらないことを、前山は長年の経験から熟知している。
問題の本質を突き止め、誰が、どのように作業をしても、二次的な被害を起こさない恒久的対策が必要である。
そのため、安徳工機では、ドカ停のような大規模事故があった場合、原因を深堀し、再発防止策を打っている。
ラインを止めたことに対する反省は必要であるが、それは白鳥ひとりの問題でなく、白鳥に無理難題を押し付けた工程責任者、及び会社側の責任でもあるのだ。
「今から行う『なぜなぜ分析』は、原因を深堀するためのツールと思って欲しい―」
前山はそう言うと、ひとつ簡単な事例を出して、白鳥に原因の洗い出し方を説いた。
「例えば、組立工程において、作業者が部品を付け間違えた、とする。この場合、ミスをした作業者を問い詰めるのは、早合点である。作業者が、なぜ問題を引き起こしたのか、理由を聞いて深堀していく」
白鳥は、解せないといった様子で眉を顰めたが、まずは前山の説明を聞くに徹した。
「作業者がミスを冒した。なぜか? 煩雑な工程レイアウトになっていなかったか、ポカ除けは正常に機能していたか、順序生産が複雑になっていなかったか、その他、照明、騒音、作業難易度、またその日の作業者の健康状態に問題はなかったか―」
前山は落ち着いた口調で説明を続けた。
前山の説明は理路整然としており、原因の深堀をする意味や重要性を、白鳥は徐々に理解していった。
「なぜか、作業者は睡眠不足で意識が朦朧としていた」
「なぜか、前日の夜、深夜まで残業しており、帰宅が遅かった」
「なぜか、月末の生産調整により、大量に仕事を抱えていたため仕事が捌き切れず、残業対応を回避できなかった」
「なぜか、仕事の割り振りが上手くいかず、一人の熟練作業者に多くの仕事が偏る傾向があった」
「なぜか、熟練作業者でなければ出来ない作業が多い」
「なぜか、教育体制や人員配置が行き届いていない…」
前山は、原因を細かくバラし、深堀することによって、埋没する真の原因を突き詰める術を説いた。
前山の説明によって、白鳥の中で、複数の事象が、一本の線で結ばれる様子が、手に取るように理解できた。
「この例で考えると、真の原因は、作業者側にあるのでなく、一人の作業者に仕事を与え過ぎたマネジメント側にあると推測できる。上司が十分に業務負荷を把握していたか、教育や人員配置は適切に行われていたか―、この場合、仕事の負荷を下げる恒久対策として、人を投入するなり、業務のバランス化をすることなどが考えられる。このように、真の原因を深堀することで、正しい対策を講じることが出来るのだ」
前山は、過去に組立工程で起きた事例をもとに説明すると、
「だからこそ、糞便を漏らしたことを恥ずかしいと思わずに、その理由を正直に話してほしい」
と、付け加えた。
「今回の事象は、『糞便を漏らした』ことと、『漏らした糞便を溶炉に投げ入れて隠そうとした』ことにある。君が糞便を漏らし、かつ漏らした糞便を隠した動機を探ることで、第二、第三の君を作らずに済むのだ」
白鳥は、なにやら狐に抓まれた思いに駆られたが、これだけの数の役員層を前にして、これ以上、言い訳をして逃れることも出来ないと感じたため、観念して、事の真相を打ち明けるよう、腹を決めた。
要因解析一
『糞便を漏らした』
「なぜか、作業中、限界まで大便を我慢した」
「なぜか、代替作業者を呼ぶことが心理的に憚れた」
「なぜか、以前、便意を申し出た際、周囲の作業者に嘲笑われた経験があり、また男性ばかりの世界のため、女性である白鳥が、大声で便意を申し出ることが恥ずかしかった」
付属要因一
『通常では考えつかないほどの大量の糞便が出た』
「なぜか、便秘気味で、糞便が溜りに溜まっていた」
「なぜか、(糞便を我慢するため)止瀉剤を通常の五倍服用していた」
「なぜか、作業中に便意を催すことを恐れたため」
「なぜか、便意を申し出ることが恥ずかしかった、―以下同文」
原因解析二
『溶炉に糞便を投げ込んた』
「なぜか、漏らした糞便を隠そうとした」
「なぜか、糞便を漏らしたという事実が恥ずかしく、問題を揉み消そうとした」
「なぜか、便意を申し出ることが恥ずかしかった、―以下同文」
白鳥は、前山調査官から投げ掛けられる質問に対し、嘘偽りなく回答した。速記官の記す原因解析表は、いつしか文字で埋め尽くされて真っ黒になるほどであったが、そういったやり取りの中で、ある一つの解が明らかになるのであった。
「―なるほど、つまり、君は用便を恥ずべき行為であると、そう感じている。特に男性ばかりの職場で、大声で便意を伝えることに対し、羞恥心があった。そう言いたい訳だな」
「ええ、まあ、そんな所です」
白鳥は、まるで人前で丸裸にされるような醜態を感じ、視線を落した。
「いや、恥ずかしがらんで全てを曝け出して欲しい。これが会社としての成長に繋がるのだ。他に理由はないのかね」
前山は、さらなる原因の深堀のため、消沈する白鳥に新たな質問を投げ掛けたが、自分の糞便がここまで大事になっていることを思うと、とても生きた心地がせず、次の言葉が出なかった。
その様子を見た前山は、より深くに潜在している真相を聞き出すべく、白鳥の悄然とした機嫌を取り戻すため、語調を和らげ諭すように言った。
「大丈夫、今、君の目前にいる連中も、見た目ばかりは役員面をしているが、社会人になってから数十年間で、糞便の一つや二つ、漏らした経験はある」
まるで乳飲み子に諭し掛けるような前山の聞き方に心を開いたのか、白鳥の目からは熱いものが零れた。品証畠二十年、岐阜工場の品証課員を束ねる前山の器量は、糞漏らしの白鳥の前でも、決して動揺することはない。
「例えば、朝からスケジュールが埋まって身動きが取れないときとか、海外出張で食あたりにあったとか、時差ボケで体調を崩したとか、仕事のストレスで胃腸を下したとか、色々な理由で、我々はうんこを漏らしている」
鏑木技術部長は、顰め面を貫きながらも、前山の説明に、二度、三度と首を縦に振って頷いた。
「サラリーマンをやっていて、一番辛い経験は何かと問われれば、それは如何に便意を散らすか、ということに尽きる。長年、サラリーマン生活を続けていれば、便所に行きたくても行けない瞬間は必ず訪れる。まだ小便であれば被害は少ないが、大便のときは甚大だ。みるみる顔が蒼褪めて、悪寒がし、冷や汗が垂れ出て、動悸、息切れ、不整脈を打ち、他のどんな大病よりも辛い思いをする」
白鳥は、昨昼の出来事を思い返した。
早朝の覚束無い作業時間帯で、突如、流れ出ようとする大便に対し、必死に下腹部の痛みを堪えたときの凄惨な感覚といえば、この世の終わりすら感じるほどであった。
その時ばかりは、神に縋り、仏に縋る人間の愚かさを、白鳥は呪った。
なぜ、神は人間を創造したとき、もっと強靭な肛門を用意しなかったのか。人間を一つの機械を見立てれば、肛門は明らかな欠陥製品であると、白鳥は思った。
「―そんな辛さから社員を解放させるためにも、今回の振り返りは必要なのだよ」
始めは恥ずかしさの余り失禁の経緯を話すことは憚れた白鳥だが、前山の説得もあり、二次被害者を防ぐためにも「失禁対策」を講じることが必須と悟り、凛として顔を上げた。
対策
事象一『糞便を漏らした』ことに対する方策
・休憩中に糞便を済ますこと
・軟便の場合、事前に監督者に健康状態を相談し、代替作業者を要請すること
・急激に便意を催した場合、速やかにマイクで便意を伝えること
付帯事象『糞便を漏らすのを防ぐために無理に便秘状態を作った』ことに対する方策
・大量の止瀉剤を飲まないこと
・止瀉剤は一時的には有効だが、後で溜りに溜まった糞便が流れ出る恐れがあるので、定期的に出した方が被害は少ない
・用法用量を守ること
付帯事象『一度に大量の糞便を放出した』ことに対する方策
・用便は、少なくとも三日に一度は行くこと
・食物繊維の豊富な食事を心がけ、暴飲暴食を避けること
事象二『漏らした糞便を溶炉に投げ込んだ』ことに対する方策
・万が一、糞便を漏らしても、それは人間の生理現象だから自然なことと思うこと
・恥ずかしいからといって糞便を隠さないこと
万一、糞便を漏らした場合
・漏らした糞便は、工程雑介とともに建家外部のゴミ箱に捨てること
・ただし、ウィルス性下痢症の疑いがある場合はそれに限らず、マスクや手袋をして適切に処理した後、飛散区域には消毒剤を散布すること
・漏らした本人は無理せず休むこと
・代替の下着を用意しておくこと、特に軟便の場合は吸水性ポリマーを呈した成人用オムツを準備すること
・各工程責任者は男女兼用の下着を詰所にストックすること
以上の具体的対応策を、全国の生産工場に水平展開し、明日四月十五日より対策を実施すること。
岐阜第三工場長 御手洗伸晃
鋳造技術部部長 鏑木誠治
品質保証部部長 前山郁男
製造部部長 中谷喜一郎
製造部鋳鉄課課長 深山真一
製造部鋳鉄課係長 門前一郎
製造部鋳造課 白鳥アンジョリーナ香織(漏らした本人)
―印―
途中、小休止を挟みながら、八時間をかけて実施された白鳥への尋問により『作業中の脱糞行為、および脱糞した大便を溶炉に投げ込み問題を揉み消そうとしたことに対する対策書』は作成された。白鳥本人の他に、工場長、製造部長らの押印がなされ、岐阜工場はもちろん、即日、全社的に水平展開された。
尋問中も、緊張からか、幾度も白鳥は便意を催したが、その度に周囲の調査官は気を張り巡らしながら、その動向を伺った。
『作業中の脱糞行為、および脱糞した大便を溶炉に投げ込み問題を揉み消そうとしたことに対する対策書』は、工場長の御手洗から翌日の定期役員会にも持ち込まれ、初頭題目として、活発な議論を生んだのは言うまでもない。
急遽、みなとみらい本社に集められた役員一同は、神妙な顔付きで膝を付け合せた。
九条五郎右衛門代表取締役社長をはじめ、各部門の代表役員面々が、白鳥の糞便について、慎重な議論を続けた。
これだけの緊急を要す会議は、年度毎の決算報告や、自然災害、金融危機以外に見られない。
「糞便で設備を止めるという珍しいケースなだけに全社的に対策が必要だ、これは鋳造工程だけでなく、組立、加工、溶組など、すべての工程に水平展開する必要がある。また、便意は現場作業員だけでなく一般部門も共通事項のため、間接部門にも展開が必要だ」
用便行為が引き起こす問題というのは、万人共通の事象のため、それだけ本格的に取り組むべきという九条の方針で、生産部門だけでなく、人事総務、開発、デザイン、そして、かつて白鳥が在籍した販売部門にまで対策を急がせた。
「やや、これは由々しき事態」
「従業員に用便の余裕すら与えない管理体制が問題では」
「確かに、長丁場の会議や海外出張でも、急な便意は悩みの種だからな、いつでもどこでも用便が足せる仕組みが必要だ」
「従業員満足度を上げるためにも、今回の糞便問題は社として最優先課題とすべき」
「今後、糞便は恥ずかしい行為でないという意識改革が必要」
「我が部門でも成人用オムツを支給しようか」
「これは軽視出来ない重大事故」
「日本はむしろトイレ環境は悪くなく、諸外国の方が同様の恐れがある。糞便は人間誰しもが抱える万国共通の問題だ。すぐに海外にも水平展開すべきだ」
かくして白鳥の大便失禁事件は、翌日には世界中の事業所にも伝達されたのである。
「We take this "incontinence issue" very seriously. (我々は今回の失禁問題を非常に重大な事件であると捉えている)」
「由於中國的廁所臟了,應該提高! (中国のトイレは汚いから、改善せねばならない)」
「Cada pueblo tiene la experiencia de la incontinencia fecal. (誰だって糞便を漏らした経験はある)」
「En fait, maintenant que je suis sur le point de mouiller mon pantalon. (実際、今まさに私も漏らしそうだ)」
『作業中の脱糞行為、および脱糞した大便を溶炉に投げ込み問題を揉み消そうとしたことに対する対策書』は、北中米、南米、欧州、中国、インド、アフリカと、現地語に翻訳され、各地域の社内報のトップページで掲載されたのである。
かくして、白鳥アンジョリーナ香織は、売上高一兆円、従業員二万人を超える超大手企業において、その名前を知らない者がいないほど、一躍知られる存在となったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。