第10話

配属二日目の朝、この日も早めに目が覚めた白鳥は、しっかりと朝食を摂り、用便を足すなどして朝のルーティンをこなすと、会社へと向かった。

寮から工場までは、距離にして七百メートル、徒歩十分の距離である。

本社勤務のときは、最寄の桜木町駅から本社までも同程度の距離であったが、ここには瀟洒としたショッピングモールもなければ、コンビニのひとつない。

夜勤時は営業している店を探すことも難しく、自ずと帰宅途中に買物に行く習慣も無くなり、同僚と居酒屋で一杯ということもない。

三十年程前であれば、今より従業員が多く、商店街の需要もあったらしいが、省人化と海外移管により、従業員数はピーク時の半分以下になった。かつて賑わった商店街にもシャッターが錆び付いている。唯一、目に入る建物といえば、モクモクと灰色の煙を上げる工場建家のみである。

岐阜工場では、作業者の多くがジャージーやパーカーなど、寝巻き同然の恰好で出社していた。

初日こそ服装に気を使っていた白鳥だが、他の作業者に倣って二日目からはジャージー姿で出社した。

横浜勤務のときは、毎日のファッションや化粧で時間を取られたものだが、岐阜の山間の工場で洒落た格好をしても、誰も見る者はいない。

男性従業員らは髭も剃らずに出社し、膝元を煤で汚したまま帰宅する。挙句の果てに、作業着姿でスーパーに買物に行くほどであり、世間体を気にする感覚が鈍った。

鋳造工場内では焦げたコークスが砂塵として舞い、体中の汗と纏わりついて、全身が黒く変色することを知ったため、白鳥は化粧も施さず、顔に簡単な乳液を塗るに留めた。

また、茶色く巻き上げた髪も、しっかりとゴムで縛り、服装もジャージーのため、その様相は、まるで囚人のようであったが、ここでは誰も外見を気にする者がいないことを知ると、白鳥自身も、いつしかお洒落を忘れた。


初日に安全教育と作業研修を受けた白鳥は、この日から実際に工程に入り、現場作業を行うことになっていた。

具体的な作業手順は矢島のOJTによる。

七時半に出社すると、早速、現場に出て、始業前点検、安全唱和、ラジオ体操、夜勤者から申し送りを受け、八時からの実作業に備える。

週に一度のQCサークルがあるときは、さらに三十分早く出社するが、あくまでQCは自己研鑽活動であるため、残業代に含まれない。

午前中は、八時から十二時まで作業をし、その間、一度だけ五分間の休憩があるが、大抵、設備点検や補助作業に追われ、休むことはできない。

昼食時間は、間接部署であれば、一時間の休憩が与えられていたが、生産ラインを一時間も停止させておくことは出来ず、現場の休憩は短く設定されていた。

昼食は、仕出し弁当は五分で食し、その後もやはり、設備点検、清掃、部品補充などのサブ作業に追われる。

十二時四十五分から午後の実作業が始まると、その後、五時まで、僅か一度の休憩を挟むだけで、延々と作業を続ける。

昼食後の作業は胃が重く体が動ない。また午後四時を過ぎると、疲労が蓄積して、体が途端に動かなくなる。

加えて、稼働率百三十パーセントを超える鋳造工場は、毎日二時間の追加残業が与えられるため、実作業が終わるのは午後七時を超える。

作業終了の構内アナウンスが鳴ったときは、その場に倒れ込む作業者もいるほどであった。

作業が終わると、作業後点検、清掃、夜勤者への申し送り、不具合の振り返りや、各種事務連絡等が行われるため、帰宅時間は午後八時を超える。そして八時になると、死相を浮かべた反対番夜勤者とすれ違う、という流れだ。夜勤のときは、このスケジュールがそっくりそのまま十二時間逆転する。

二者の間には、必要最低限の会話しか発生せず、反対番は、もう反対番の帰宅時間が遅くなっていると、何かトラブルや遅れがあるのでないかと不安に陥る。熟練工となると、出社時の反対番の表情を見るだけで、トラブルの有無を判別できるようになるという。

仕事を終え、昼勤の時は僅かな外灯に照らされた暗闇を、夜勤の時は燦燦と煌く陽光を浴びながら帰路につく。自宅に着く頃には、疲弊して下半身が覚束ず、立ち上がることすら憚れるため、風呂に入った後は、テレビもインターネットも見る余力がなく、死んだように布団に倒れ込むだけである。

この生活が、月曜日から金曜日、休日出勤の時は土曜日まで続く。

そしてこの生活を、十八歳から六十歳まで続ける強者もいる訳である。

ここは刑務所よりも過酷なのだ。


今年は四月一日が水曜日であったため、初週は三日勤務すると、休日に入ることになっていた。

配属三日目。

安全教育、作業観察、そして二日目から実作業に入った白鳥は、残り半日を凌げば休日という事実に気力を振り絞り、午前中の作業を終えると、昼食を摂り、午後に備えた。

この日の昼食も相変わらずの仕出し弁当であり、ご飯の上に僅かに醤油を浸した味海苔、そして海苔の上には、心なしかのおかずが乗っている。

メニューは日替わりであるが、ウィンナー、白身魚のフライ、胡瓜の漬物、沢庵、コロッケ、卵焼き、とバリエーションは限られており、一週間も経たず内にローテーションしてしまう。まるで留置場の食事だ。

こんなものを毎日、口にしていれば、その内、気が狂ってしまうと最初は思ったが、重労働で疲弊した体は、胃に入れば何でも受け付ける。

白鳥は、そんな仕出し弁当を五分で一気喰いすると、休憩する暇もなく、設備のメンテナンスを施した。

『午後の作業開始まで残り五分です。作業者は準備を始めて下さい』

作業開始を知らせるチャイムが鳴った。

この日、鋳造工程は病欠者がいたため、矢島指導員は殆ど白鳥の工程には付かず、白鳥は一人で作業を回していた。

午後の作業が開始し、胃が重く、頭に血が上らない。

眠気すら感じる昼食直後の作業。

作業開始から十五分が経過した頃合であろうか、突如、白鳥は腹部に妙な違和感を覚えた。

「まずい、こんなときに…」

一度、腹鳴りがしたと思うと、大腸に強い張りを感じた。

白鳥は便意を催したのだ。

作業をする手が止まる。代替作業者を頼もうと思ったが、生憎、指導役の矢島は、持場を離れたままだ。

白鳥は思った。

最初の二日間は緊張で便意が止まったが、残り半日で休日という楽観した気持ちが、腹部の緊張を解いたのであろう。

白鳥は、自身の胃腸の弱さを恨んだ。

今、持場を離れれば、ラインは止まる。そして代替作業者を呼ばない限り、用便には行けない。

本社勤務の頃と違って、行きたいときに気軽に用便に行けない苦しみを感じながら、白鳥は、だましだまし、痛む腹を抑え作業を続けたが、便意の波は徐々に強くなり、終には代替作業者を要求する決断をした。

白鳥は、工程横にあるマイクに近付くと、

「三十番工程、白鳥ですが、用便願います…」

と言った。

事前の研修にて、何かトラブルが起きれば監督者を呼ぶこと、便意を催したら「用便願います」と叫ぶこと、と教わっていたため、気恥ずかしい思いをしながらも、これ以上は限界と思い、白鳥は意を決したのである。

各工程に設置された緊急時用マイクは、工場中の無線やスピーカーに繋がっているため、「用便願います」という白鳥の声が工場中に伝播した。

用便の意志を露わにした白鳥は、しばし応答を待ったが、いつまで経っても反応がなく、もう一度マイクに近付くと、今度は声を振り絞って、

「用便願います!」

と叫んだ。

すると、なにやら背後から人の気配がし、振り返ると、

「何さっきからモゴモゴ言っているんだ? 聞こえないぞ」

と、意地の悪い声が聞こえた。門前である。

「よ、用便願います」

「用便?」

人事部のジョーこと、城山丈一郎を生き映したような意地汚い笑みを浮かべながら、門前は、腹痛に苦悶する白鳥の様子を楽しむように、わざとらしく大袈裟に声を上げて言った。

「おおい! やっさん、白鳥が用便だ! 代理の作業者はおらんかね」

途端、周辺にいる作業員から、ドッと卑しい笑いが起きた。

余りの醜態に、白鳥は顔を赤らめ身を縮めた。

尚も門前は不敵な笑みを浮かべながら、白鳥にこう詰め寄った。

「大か、小か?」

「何でそんなこと言わなければならないのですか!」

「馬鹿野郎、工場はギリギリの人員でやっているのだ。大便三分、小便三十秒と決まっている。用便は休み中に行け」

このとき白鳥は咄嗟に「理不尽である」と感じた。

休憩時間中でさえも、設備点検や清掃、部品補充などのサブ作業で、実質的にトイレに行く暇も与えない監督者が、休み時間中に用便に行けなどと、不本意である。

白鳥は、便意と怒りに苛まれながら、苦悶の表情を浮かべていると、

「さっさと行け! 立ち話してる時間も無駄だ、残業させるぞ」

と門前が言ったのを合図に、隣建屋にある女子便所へと走った。

迫り来る腹痛に耐えながら、必死に走り続ける白鳥。

走って、走って、走り抜いた。

白鳥のいる三十工程から女子便所までは二百メートル、一度、鋳造建屋を出て、隣の溶接建屋へと入り、女子便所に向かう必要がある。しかも大便器は僅か二台、果たして空きはあるか。

「間に合った!」

白鳥は、きっかり三分間に設定されたタイマーを片手に、無事、便所に入ると、思い切りにいきんで一瞬で大便を噴出し、持場へと戻った。

「申し訳ございません、戻って参りました」

「社会人になったら用便のコントロールも出来ないと困るぞ、毎回、毎回、便所に行っていたら、作業員が何人いても足りないからな」

門前はそう云い捨てると、颯爽とその場を去って行った。

再び作業を始める白鳥だが、暫くの間、下腹部に不快な倦怠感が残った。

胃腸の弱い白鳥にとって、最大の悪夢であった。

今回はなんとか難を乗り切ったが、それからというもの、気恥ずかしさから、作業中に腹が痛くとも、なかなか言い出せなくなった。

便意を催した際は、ギリギリまで我慢をして、休憩時間に猛ダッシュでトイレに駆け込む。

最大限、便意を我慢することが社会人としての基本姿勢であるとすればそれまでだが、どんなに強靭な精神をもってしても、便意だけはコントロール出来まい。

その日からというもの、白鳥は便意を散らすあらゆる方策を試すようになった。工場配属前にジョーから教わり聞いたように、止瀉剤を通常の服用量の五倍も飲んだり、終には昼飯も抜くようになり、蒼白い形相をしながら、用便の不安に耐える日々を続けた。

しかし、用便という人間の生理現象は回避できるものでなく、その後の白鳥の人生を狂わす大事件を起こすことになる。

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