第9話
四月一日の水曜日は、明け方から湿気た日和南風が吹き荒れていた。
先日、咲き揃ったばかりの桜の花弁も、風で枝先が靡き、今にも?げそうな様相だ。
「がはは、珍しいな、女じゃねえか、いい尻してんな、おい」
白鳥が寮を出ようとすると、朝っぱらからロビーで酒を飲む作業員らの姿があったが、夜勤者にとっては、朝七時頃が晩酌時間であるため、なんら珍しい光景ではない。
泥酔した男達が飛ばす低俗な野次に耳を貸すことなく、足早に白鳥は寮を出た。
白鳥の住む白鷺寮から工場までは徒歩で十分ほどの距離である。
プレス機に指先を潰された矢島の存在など、配属前に、嫌というほど現場の厳しさを叩き込まれた白鳥は、謙遜して三十分前には出社すると、そのまま配属教育が行われる作業道場へと誘われた。
作業道場には、実際の工程を模した簡易設備や、作業手順書、また黒板や机といった授業設備が整っており、ここで現場作業員の昇進試験なども実施される。
道場には既に、増産対応で臨時採用された多くの派遣従業員の姿があった。
今後、この男らとともに、作業研修を受けることになる。
「工場の中は、安全第一。通路を歩くときは、指差確認を怠らないこと。ヘルメット、安全靴などの保護具を正しく着用すること―」
安全教育担当の亀山は、慣れた様子で説明をはじめた。
工場では、生産状況に応じて、年がら年中、派遣社員を採用しているため、この手の教育は毎月、行われている。
亀山は、道場の壁面に貼られた、
「止める、呼ぶ、待つ」
「整理整頓」
「始業前点検ヨシ」
「安全用具着用ヨシ」
といったスローガンをひとつひとつ詠み上げると、新人作業員に復唱させた。
配属前教育は、およそ三時間程度の簡単な内容であったが、途中、作業中の事故事例と称して怪我をした作業員の写真が映し出されると、白鳥の頭にはやはり矢島の指先が頭に蘇り、苦虫を潰した顔をした。
「―最後に大事なことがひとつ、作業中に何か問題が起こったときは、各工程に備え付けられたマイクで工程責任者を呼ぶこと。絶対に身勝手な判断をしないこと、以上だ」
午前の教育を終えると、一行は各々の工程に分かれ、工程別の研修を受けることになる。工程別研修では、より専門的な内容で、自工程の安全や作業について学ぶ。
「今日付で、新たにアルミ鋳造に配属されるのは君ら二人だけみたいだな」
白鳥と同時に鋳造工程へと配属になった派遣作業員は、茶色く染めた長髪の襟足が、汚らしく帽子の後から飛び出ていたが、目尻には皺が寄り、年はそこそこいっているとみた。
「先に注意しておくが、女子作業員は髪を後に束ねるよう、安全規則に謳われている。誤って設備に髪が巻き込まれた場合、大怪我の恐れがあるからな」
亀山は注意を促すと、
「まあ、ワシに関してはその心配はないがな」
と、禿げ上がった頭を撫でた。
亀山はおどけてみせたが、どうやら、緊張した面持ちの新人を和ませる目的があったらしい。
やはり教育担当たるもの、新規配属者の心の不安を取り除く術には長けている。
「それと、付け爪も止めた方がいいかもな。皮手袋をすると、爪が邪魔になるだろう」
亀山は、白鳥の手元を見ながら言った。
白鳥は、普段からお洒落のために付け爪をしていた。専用の接着剤で固定しているため、二週間程度は外れることはない。
「ええ、申し訳ありません、でも外れないです」
「その辺に剥離剤があっただろう、たぶん人体には影響ないから、剥がしてやろう」
亀山はそういうと、工具棚から工業用剥離剤を取り出し、それを思い切りに白鳥の爪に噴出すると、鮮やかな藤色の付け爪は、瞬く間に剥がれ落ちた。
「まあ、ここは工場だから、化粧や染髪に関してはとやかく指導されることはないが、なにしろ鋳造工場は暑いから、汗で化粧が取れるかもな」
無残に床に落ちた付け爪。それは、今から二週間ほど前に表参道のネイルサロンで五千円もかけて施したものであった。
床に落ちた爪を見て、白鳥はなんとも言い様のない気分に陥ったが、一方で亀山は雑把に爪を拾い上げ、工程雑芥と書かれたゴミ箱に投げ捨てた。
「ところで、鋳造工程に女性というのも珍しいな。君は名前を何と言うのだ」
白鳥は、一瞬、喉まで出かかったアンジョリーナという名前を飲み込み、
「白鳥香織です」
と応えた。
白鳥は、日本的な名前を厭い、本社時代までは自分のことをミドルネームで呼ばせていたが、工場でアンジョリーナの名はそぐわない。
「ほう、君が大卒の子か」
「え、ええ」
どうやら亀山は、白鳥の情報を事前に掴んでいるようだ。
「ここは、君のような華やかな場所で育った子がくる場所ではないと思うのだが、人事の方針であるのならば、仕方があるまい…」
溜息混じりに亀山は、どこか含みのある言い方をした。
安徳工機は世界中に拠点展開しているが、鉄鋼素材を外部の鉄鋼メーカーから供給する拠点も多く、鋳造工場自体少ない。
そのため、他の工場と違って輸出需要が多く、操業度は常に百三十パーセントを越え、残業や休出は勿論、完全二日週休でなく、月休が五日程度となることもザラであった。
代休を取らせる人員の余裕もなく、まさに誰もが厭う激務工程であるのだ。
「あ、そうだ、一つ言い忘れていたことがある」
亀山は、なにやら思い付き様に、
「実は、鋳造工場は自動化が進み従業員数が少ないため、トイレが建屋内にないのだよ、特に女性トイレは長らく故障しているため、悪いが、当面は隣の溶接工場のトイレを使ってほしい」
と説明した。
「分かりました、ちなみに、溶接工場はここから近いのですか」
白鳥の質問に対し、構内図を指さしながら、
「建屋自体は隣だが、君の工程からは少しあるね、まあ、二百メートル程度かな」
と亀山。
「二百メートル、ですか…」
二百メートルといえば、仮に全速力で走ったとしても、三十秒は優にかかる。便意を催したら走って隣の建屋に向かわなければならないことを思うと、胃腸の弱い白鳥には、また新たな不安要素が追加された形となった。
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