第8話
「―ここが貴様の配属先や」
組立工場から、さらに十五分ほど北方に歩いた場所に、鋳造工場はある。広大な敷地に、変わり映えのない景色。延々と連なる灰鼠色の建屋は、それぞれが何を生産している工場なのか、白鳥には皆目、知る由もなかったが、その中で今後、勤務することを思うと、突き付けられた厳しい現実に、やはり背筋が硬直した。
鋳造建屋に入ると、先ほど見た組立工場とは一変、薄暗く、天井まで伸びた溶炉や大型重機が、不気味な重低音を奏でている。
「後はここの現場監督者に一任する」
ジョーは、詰所の奥手にいた男を呼ぶと、白鳥に面通しした。
男は振り返ると、舐めるような視線で、上から下まで白鳥を見詰めながら、
「綺麗な作業着やな、化粧までして。二日もせんうちに、全身、真っ黒になるから、覚悟せいや」
と、先手を噛ました。
二人のやり取りを見たジョーは、
「がっはっは、辛くても辞めるなよ」
と高らかに笑うと、颯爽とその場を去った。
鋳造課係長の門前一郎は、深く皺の寄った浅黒い顔、膝元が黒く汚れた作業服と、傍から見れば、とても取付き難い容姿をしていたが、今後、この男が白鳥の直属の上司となる。
「俺は門前だ、今後お前の面倒を見るようにと、城山から話は聞いとる、これからお前に仕事や勤務体系の説明をする、本社と違って現場は厳しいから、心して聞けよ」
門前は、何十年も更新していないような古いファイルを棚から取り出すと、気怠そうに白鳥の目前にやった。
「まずは基本的な勤務の説明やが、工場は生産状況に応じて不定期に勤務時間が変わる。今は生産が少ないから、夕継ぎといって、早番は朝六時半から十五時まで、遅番は十六時から翌日の夜中一時までのシフトとなる。しかし四月からは生産負荷が高まるため、昼勤、夜勤の、完全二交代勤務となる」
夜十時から翌二時までは美容の時間などといって意識的に睡眠をとっていた白鳥にとって、受け入れ難い勤務体系であったが、今はそのような状況に反駁している雰囲気ではない。
「工場は労務管理が厳しいため、限られた人員で動いている。休み時間や、始業前、終業後にも働かないと、とてもじゃないが間に合わない。実際、早朝勤務の際は、定時は十五時だが、実際に退社するのは十九時がよいところ、監督者ともなれば、二十一時にならないと帰れない。一方で、深夜勤務は十六時から夜中の一時までが基準時間だが、夜勤番でかつ土曜出勤の日は悲惨で、日曜の夜中一時まで働き、翌日月曜は朝六時に出社となる。これでもまだマシな方で、新製品の立ち上げ時や、トラブルの際は、これよりキツくなる」
門前から具体的な勤務実態の説明を受けると、不安は現実のものと変わっていく。
詰所の外では型を打つ金音が絶えず不気味に響き、白鳥の不安を助長した。
「鋳造工場では、溶炉から中子といわれる型にアルミ鋳鉄を流し込み、冷却して成型する。中に不純物が混じったり、温度が適温でなかったり、流し込む速度が遅かったりすると、完成品の強度や形状に影響する。また鋳鉄工場では、六百度を超える溶炉が絶えず稼働しているため常に熱気が舞い、さらにステンレスゴーグルや分厚い革手袋、長袖長スボンといった保護具を身に付けるため、他の工程と比べて熱中症の危険性が高い。鋳造工程は、数ある工程の中でも最も過酷なため、A級危険手当が付与される。深夜手当と危険手当、残業代、休日出勤手当を込みすると、そうだな、おそらく今の倍以上は稼げるだろうな」
安徳工機の大卒四年目の平均基本給は二十五万程度のため、単純に五十万円近い月給を稼げることになるが、今は待遇に現を抜かしている余裕はない。
門前がひと通り事務的な説明を終えると、二人は保護具を着用し、現場へと向かった。
門前の言う通り、溶炉近くは汗が噴き出るほどの暑さで、未だ三月というのに、スポット冷房がフル稼働していた。
「これから、お前に作業手順を教える。鋳造工程は、安全上、ほとんどの工程が自働設備で動いているが、鋳型や中子の交換、部品や工具の運搬作業は、人の手で行っている。ただでさえ動き難い恰好をしていて、重量物を運ぶため、見た目以上に体力を消耗するぞ」
白鳥は、工場建屋内を見渡したが、そこにいる作業員は皆、青色の作業服とヘルメット、保護眼鏡を着用しているため、顔はおろか、性別すらも識別することは出来ない。
限られた経費の下でギリギリの人員で運営しているため、作業員ひとりひとりの行動を絶対的に合理化させる努力を怠らない。
メーカー各社は、徹底的な作業管理と経営工学の手法をもとに、日々、改善に努めているが、それは安徳工機も例外ではないのである。
設備の配置、歩行数、部品や工具を扱う両手の動き、そして極め付けは、用便休憩までもが管理される。
工程確認を終えた二人は、再び詰所に戻ると、休憩時間なのか、そこには多くの作業員がおり、白鳥を珍しいものでも見るような視線で迎えた。
「言い忘れていたが、ここには女性作業員が一人もいない。A級危険手当がつく工程で、人事も女性の配属を渋っているだけに、若い女性、しかも大卒社員を寄越すなど、思い切った決断をしたものだ」
今後、同僚となる作業員の中には、二十代から五十代まで、幅広い年齢層がいた。
その内の一人、仏頂面を続ける初老の男性に、門前はなにやら告げ口した。
「やっさん、四月から大卒の面倒を見てくれ」
胸元にでかでかと『矢島』と書かれた前掛けを着た男は、皆から「やっさん」の愛称で親しまれているようだ。
矢島は、「なんで俺が大卒の面倒役なんだよ」と剣幕を荒げたが、「わりいな、ベテランは指導役に回ってくれよ」と門前は頭を下げた。
白鳥は、そんな二人のやり取りを黙って見ながら、矢島の手元を見て、ふと、あることに気が付いた。
「珍しいもの見るような目で見つめるなよ、見世物じゃねえぞ」
矢島は、左手の親指と人差し指が無く、ペットボトルを持つ手が、どことなく覚束なかったのだ。
矢島は金切り声を上げた後に、指を失った経緯を説明した。
「昔、圧造課にいた頃、指がプレス機で潰されたんだ、利き手でないから良かったものの、障害者等級を受け、今は自働工程でしか働けんのだよ、まあ、指導役であれば、指がなくても出来るから、俺が適任なのかね」
矢島は自虐的に笑ったが、白鳥にはとても笑っていられる状況ではなかった。これが会社のために身を捧げた男の姿なのだ。
自分のように、温室で、悠々とネイルアートなどしている間に、矢島は指を失った。矢島には、爪どころか、指がないのである。
矢島は、第二関節まで無くなった指で煙草を掴むと、白鳥に見せつけ、
「見ろよ、これが働くという事だ」
と、紫煙混じりに嘆いた。
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