第7話

三月最終週、配属前説明のために岐阜へと向かった白鳥は、陰鬱な面持ちで岐阜駅を降りた。

新幹線から東海道本線に乗り換える途中、ホームからは金華山を臨む岐阜城の天守閣が確認できたが、現実逃避のためか、白鳥はそれら眺望から目を逸らした。

東海道本線から大垣駅で樽見線に乗り継ぎ、そこから三十分ほど北上した場所にある本巣駅で白鳥は降りる。駅の掲示板に貼付けられた時刻表を眺めると、停車は一時間に僅か一本であり、ここが本当に都心から離れた場所であると、白鳥は実感した。

本巣駅のロータリーには、一台だけ停車しているタクシーと、既に廃線した貨物鉄道跡地が哀愁を漂わせており、しばし変わり映えのない景色が続く。

岐阜や大垣は市街地らしい風景が広がっていたが、樽見線に乗車すると僅か五分も経たずうちに、周囲の景色は長閑な田園風景へと変化し、またその先には日本アルプスの丘陵が、岐阜の街並を見下ろしている。

本巣は、最寄り駅といっても、安徳工機第三工場までは社用バスで三十分以上かかる。通勤バスには既に社員と見られる乗客が数名おり、皆、死相を浮かべ、まさに奴隷船の様相を醸し出している。

白鳥もまた、そんな奴隷船に乗り込むと、暫し外の景色を眺めた。

三月も残り十日となり、社内では異動や昇進を言い渡された従業員が、業務引継を行ったり、余った有給休暇を消化するなど、どこか気の抜けた雰囲気が漂っていたが、ひとり白鳥は、緊張と不安の糸を張り詰めさせながら、慣れない岐阜の土地を訪れた。

新年度から白鳥の勤務先となる岐阜第三工場は、種々の産機、重機を製造する組立工場にはじまり、圧造、鋳鍛、溶接、さらには実験施設も兼ね備え、国内で最大規模の敷地を誇っている。

六千人を超える従業員が勤務しており、広大な工業地帯の一角を形成している。国内でも有数の企業城下町である。

バスは、路幅の狭い農道を抜けると、灰鼠色の建屋が林立する工業団地へと入った。

エントランスを潜ると、切削油や焦げたコークスの匂いが鼻を突き、無人搬送車やフォークリフトが通過する度にバスが停車すると、やはりここが製造現場であることを感じさせた。こうして白鳥が転勤の準備をしている間も、岐阜工場は、昼勤、夜勤と、二十四時間休まることを知らない。

エントランスから順々にバス停を巡り、乗降する従業員の様子を暫し見つめながら、漸く『事務本館前』へと辿り着くと、築四十年の寂れた事務棟に入り、ジョーと待ち合わせの約束をした応接へと向かった。

「おう、白鳥、遅かったじゃないか」

ジョーは、白鳥を見掛けると、いつになく陽気に声をかけた。

本社にいるときも、安徳工機の社名の入った作業ブルゾンを身に纏っているジョーであるが、この日もいつもと変わりない作業着姿のジョーを見ると、やはり現場叩き上げの気質が表面に露われているのが分かった。

「これから、今後、貴様の働く鋳造工場へと案内する。その前に、貴様に見せたい物があるから、俺に着いて来い」

そう云ってジョーは「安全第一」の文字の記されたヘルメットと、爪先に鉄板の施された安全靴を白鳥に渡すと、着用するように命じた。

白鳥が渋々、保護具を身に付けると、

「まだヘルメット姿が似合っていないが、直に慣れる。最初は皆、違和感を抱くもんだ。特に甲採用の社員はな」

とジョー。

安徳工機には、大きく甲採用、乙採用と呼ばれる二通りの採用枠があり、前者は大卒、後者は高卒社員の入社枠となる。

甲採用は、研究開発、生産技術、実験、人事、総務、そして白鳥のいた販売など、より高度な専門性を期待されて採用されるのに対し、乙採用は基本的に全員、現場採用となり、配属先も工場となる。

表面的には全社員平等を扱う人事だが、両者には常に見えない壁があり、昇進速度も待遇も、甲採用の方が恵まれていた。

しかしながら、甲採用の中でも、生産技術に配属された社員に限っては、勤務地が工場となるため、現場特有の風習を強いられることになる。

甲採用も乙採用も、実際に入社してしまえば両者に外見的な区別はなく、現場監督者に面罵されることもあれば、急な設備停止や天候不良といった突発業務に七転八倒されることもある。

入社時の配属で、工場に配属されることは、即ちその後の会社員人生の暗闇を按じる。優秀な学生は、研究所や本社に配属され、そうでない学生は、工場の管理課や生産技術へと回される。本社から工場に異動になる例はあるが、逆はない。人事は三年でローテーションを謳う安徳工機だが、下克上を狙うのは至難の業である。

二人は、事務棟を出て、徒歩五分ほどの場所にある建屋へと向かった。

第二組立工場と記された標識を横目に建屋に入ると、耳を突くような機械音と、忙しなく走り回る作業員の姿が目に入った。

軽妙な足取りで建屋奥へと足を進めるジョーに続き、白鳥はその背中を追った。

組立ラインには、コンベアーに吊るされた仕掛品が連なり、作業員は、自分の持場まで仕掛品が流れてくると、部品を組み付け、さらに次の仕掛品がくると、部品を組み付け…を繰り返す。

一見、単調な作業に見えるが、これを一日中、繰り返すとなると、相当に体力を消耗する。

白鳥は一連の作業を刮目して見届けると、ふと自分を呼ぶジョーの声に気が付いた。

「白鳥、あれを見ろ」

入口から百メートルほど歩いた場所であろうか、ジョーの合図で白鳥は立ち止まると、ジョーが指差した十メートル程先に、白鳥と同年ほどの青年が、なにやら設備に手を加えている姿があった。

白鳥は、解せないといった様子で男を見つめていると、さらにジョーが説明を付加した。

「あれは、部品や工具を運搬する器具なんやが、四月に立ち上がるBB62の組立ラインで使われるのや」

「BB62?」

白鳥は、聞き慣れない単語に、首を傾げた。

「BB62は、ここ、第二組立工場で製造している汎用エンジン式フォークリフトの開発記号や。中国などへ輸出するフォークリフトは専ら岐阜で製造している。まあ、機械に疎い貴様には用途が分からんだろうが、うちとしては売れ筋のラインや」

安徳工機は、産業機械や重機の他に、産業用中型汎用車の製造も行っており、売上高の四割を占めるヒット商品となっていた。

「そうなんですか、私、商品の知識には弱いもので…」

高音を上げるインパクトレンチや、地響きを立てる大型設備の重低音に苛まれながら、白鳥はジョーの説明に集中した。

内心、自分には全く縁のない世界であると思いながらも、製造業に勤めているのに工場を知らないとは言語道断、というジョーの言葉が、徐々に白鳥の胸に響き始めた。

二人が見つめる中、青年は、こちらの気配に気付くことなく、無心に試行錯誤を繰り返しながら、メンテナンスを施し、最後の詰め作業に取り掛かっている。

具体的な機械の知識はないが、製造現場の要求を聞き、投資対効果を鑑みながら、構想を練り、実際に試作を作り上げるまでに、相当の労力があることは、白鳥にとっても想像に難くない。

黙々と作業を繰り返す青年。

二人は、そのままの状態で凡そ十五分間程度、青年の様子を伺っていると、次の瞬間、作業着姿の体格の良い男が近付き、なにやら青年に話しかけるのが見えた。

男は、身長百八十センチを優に越える立端があり、細身の青年からすると、見上げるほどであった。

のしのしと、ゆっくりとした足取りで青年に近付く大男。

そして次の瞬間、白鳥は凄惨な光景を目の当たりにするのである。

男は、二度、三度と、試作品の動作を見たかと思うと、急に剣幕を荒げ、こう言い放った。

「なんや、貴様、またこんなボロ装置作りやがって!」

その瞬間、青年の身が硬直した。

男の声は、騒音のする工場内でも、驚くほどよく通った。

「ほんま、若い技術課は使えん奴が多いのう。こんなガラクタ、誰が使うんや! もう一回出直して来い、このアホンダラ!」

男は青年を面罵すると、そのまま青年を残し、颯爽と去っていた。取り残された青年は、顔面を蒼白とさせながら、その場に立ち尽くした。

機械に何かしらの不備があって叱責されているのは理解できたが、あのように人前で強く叱責されて、穏やかな心情でいられる訳はない。白鳥は青年の心情を汲み取った。

「あれは、組立技術に配属された貴様の同期や」

「同期? しかし、覚えがないですね」

同期というが、青年と白鳥には面識がなかった。甲採用の同期入社は二百名を超えるため、一人ひとりの在籍について、白鳥は情報を伴わせていない。

「彼は入社三年間、新製品の立上の度に、ああやって様々な設備を導入して改善を試み、作業者に怒鳴られながら試行錯誤を重ねるうちに、人間的にも粗が取れ、技術的にも成長した。貴様より、彼の方が余程、会社に貢献しとる。本社のカフェテリアでコーヒーを飲んでる場合じゃないぞ」

白鳥は、凄惨な光景を目の当たりにし、言葉を失っていた。

翌週から白鳥自身も製造部に配属されるのである。

今、目にした叱責の言葉は、他人事には聞こえなかった。

ジョーは、どうやら、白鳥に同期入社の仕事振りを見せつけることによって、白鳥に仕事とは何たるやを意識づける目的があったのだろうと、推察できた。

ジョーは、再び工場内を歩き出すと、建屋内にある詰所へと白鳥を誘った。

詰所は、仮設住宅のような簡素な造りで、内部には、古びたパイプ椅子と折畳机が、無造作に置かれている。

ジョーは、詰所前にあった自販機で缶コーヒーを二つ購入すると、一つを自分用に、もう一つを白鳥に手渡した。

八十円の缶コーヒーは見覚えのないメーカーであったが、「スターバックスよりも余程旨いやろう」と、ジョーは笑った。

二人は手前にあった適当な椅子に腰を掛けると、休憩がてら会話を続けた。白鳥の表情は尚も陰ったままである。

「貴様が入社一年目の頃、商品ブランドの改善と称して、二千万もの大金を叩いたが、見事にポシャった案件があったろう」

ジョーは白鳥の元上司、萩尾との会話を回想しながら言った。

今から約一年前、販売部では、ブランドイメージの向上のため、外部コンサルタントを取り入れ、市場戦略や商品イメージの改善などを計っていた。

しかし、産業機械メーカーは、どうしても地味なイメージを拭えず、また顧客も一般消費者でなく機械メーカーに限られるため、ブランド戦略は功を奏さず、失敗に終わった。

安徳工機という古い体質の企業で、外部の空気を取り入れるには、組織間にある確執を取り除く必要があり、それは見ず知らずのコンサルタント会社が出来るほど、簡単な問題ではない。

課題を浮き彫りにしたものの、結局、大手企業特有の障壁で、横の連携が取れず、二千万円の投資を丸々無駄にした販売部。

本社内では話題にすらならなかった失敗談であるが、ジョーは敢えて引き合いにし、神妙な顔付きで言った。

「彼が二千万の原価低減を生み出すのに、どれだけの苦労を積んでいると思ってるんや」

白鳥は、内心、二千万円程度と思っていたが、工場と本社では、金に対する価値観が全く異なることに気付かされるのである。

「0・1分の作業を改善するのに、どれだけの労力がかかっているか、想像したことはあるか。僅か一秒の改善のために、多くの生産技術が血の汗を流しながら仕事に勤しんでいる。製造業はプロダクトが優れてるから恩恵を得てるのであって、本社の人間がのうのうと数千万円の投資を無駄にするのは見るに堪えん。ワシが現場実習を復活させた背景はここにある」

三月といえば、山間の地域は未だ肌寒く、手にした缶コーヒーの温もりが全身に染み渡った。

しかし、そんな手の温もりも虚しく、白鳥の胸の内は冷え切ったままだ。

尚もジョーは続けた。

「部門が違うから関係ないとでも思ってるのやろう、違う、組織が大きいから隣部門の仕事が見えんようになってるが、ここはモノづくりの会社なんや、モノづくりは現場が基本、彼は地道に技術を身に付けたが、貴様はこの三年で何を身に付けたんや」

技術と聞き、白鳥は、はっと胸を打たれる思いに駆られた。

「作業着を着て働く社員達を見下していたんだろう。逆だ、貴様は温室の中にいて働く術を失っているのだ」

ジョーは、白鳥との出逢いをきっかけに、昨今の就職事情に本格的に向き合い始めていた。最近の若いもんは、理不尽さを受け入れようとしない。事あるごとに、精神論は時代遅れと言うが、しかし世の中は理想論では動かない。机上の空論は現場では通用せず、現実と理想のギャップを埋める努力をしない限り、仕事は進まない。

特に生産現場では、人、モノ、金が常に有機的に絡み合い、動かし難い人間を如何に説得し、その上に結果が結び付くのである。そしてその難しさを、白鳥のような将来のある若者こそが、身に染みて実感すべきなのである。

ジョーは、重たい腰を持ち上げると、

「さあ、白鳥、作業着に着替えろ」

と、鼠色の作業着を手渡した。

言われるがままに作業着に着替える白鳥。鏡に映る自分の姿は、さきほど工場内で見た作業員その者であった。

「髪の毛は後ろに縛って帽子に入れろ。工場では色気を捨てろ」

白鳥は、鏡に映る自分の姿を見て、現実を受け入れることが出来ず、そのまま暫くの間、生き人形のように硬直し続けた。

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