第5話
安徳工機のような大会社では、一人の上司が面倒をみる部下の数が多く、またその部下ひとりひとりも仕事の裁量が大きいため、上司が部下の仕事を十分に把握していないことが多々ある。
最近は省人化でその傾向がより進み、上司と部下のコミュニケーションが希薄になってきているのも、また真だ。
そういった意味でも、全社員に義務付けられた人事考課は非常に重要な制度となっている。上司と部下の対話の内容は、部下の業績評価だけでなく、将来のキャリアプランや、プライベートの過ごし方にまで及ぶ。
本社近くにあるみなとみらいのカフェテリアは、赤レンガ倉庫や、コスモワールドの大観覧車、遠方に山手町の高岳が見渡せる好立地にあり、固い話をするには不向きであるように思われたが、生憎、空き会議室が見つからず、急遽、場所を変えた。
「ワシはこの手の洒落た雰囲気が苦手だがなぁ、同じ横浜でも、大黒の港湾食堂の方がリラックスできる」
左手には、ベイブリッジと繋がる大黒の埠頭が見える。
段積された無数のコンテナーや港湾倉庫が、雑踏とした港町の側面を垣間見せており、瀟洒としたみなとみらいの雰囲気が浮ついて感ぜられた。
「いやよ、あんな汚い場所」
白鳥はそういった港湾の輪郭から目を逸らすと、コーヒーに口を付けた。
安徳工機みなとみらい本社は、大型複合施設の上階にある二フロアを打ち抜いた広々としたオフィスであるが、社員数に比して若干の手狭であり、会議室の数が少なく、こうして外のカフェで打ち合わせを行う社員が多くいた。
実際、ジョーらのいる『カフェ・カッツォ』にも、白鳥と同じような世代の年若いサラリーマン客が目立つ。しかし、仕事と関係ない談笑ばかりが聞こえ、とても真面目に打合せなどしているように思えなかった。
「何を言う、大黒ならばここの半額で倍食えるぞ」
現場叩き上げのジョーにとっては、この手の近代的なオフィス街は肌に合わず、港湾作業員の集まる埠頭の方が居心地が良いと感じた。
二人は最も眺めの良い窓辺の席を陣取ると、他客に気を遣う素振りもなく、人事資料を広げながら人事考課をはじめた。
「―ところで、貴様は入社して何年になる?」
「何年って、そんなの人事だから分かっているでしょう」
白鳥は、遠回しに探りを入れるようなジョーの聞き方を嫌った。
ジョーの言葉を借りれば、人事は社員の尻穴の皺の数まで知っているくらいだから、白鳥が入社何年目であるか、ジョーが知らない訳がない。
「来年で四年目よ」
「然様、四年目じゃ、四年目ともなると、会社員としてのイロハが分かってくる頃合じゃろう」
「何が言いたいわけ?」
端から突慳貪に言う白鳥に対し、ジョーは終始、落ち着いた様相で対応した。
「貴様も知っているとおり、この会社の人事原則は、基本的に三年でローテーション、例外はない。特に若手は、なるべく多くの経験を積んでもらう目的で、部署を跨いだ異動も積極的に行うことになっている。貴様に関しては、既に横浜で三年働いたから、次は別の場所で働いてもらおうと考えている」
ジョーが暗に配置転換を仄めかすと、白鳥の表情は歪んだ。
転居を伴う異動は、如何なる社員でしても抵抗を示すものである。
白鳥のように、持家や家族のない身軽な若手社員であればまだしも、これが所帯持ちともなると、どうしてもフットワークが重くなる傾向にある。
ジョーは、束となった人事書類から、一枚を抜き取ると、白鳥の目前に置いた。
「これが貴様の新しい配属先だ」
白鳥が目を通すと、そこに書かれた覚えのない部署名に、白鳥は眉を顰めた。
「製造部第三鋳造課?」
そこには、部署名の他に、簡単な業務内容や勤務地、労働規定など、異動先の詳細が記されている。
しかし、その内容たるや、やはり白鳥の想像を裏切るものであった。
「岐阜? なんで私が岐阜勤務なの?」
「貴様、業務内容より先に勤務地を見るとは、やはり仕事を舐めてるな」
白鳥は、ジョーの突き付けた内示に対し、信じ難いといった反応を見せた。
「というか、なぜ私が工場勤務なのよ」
「馬鹿野郎、ここは製造業だから工場に行くのは当たり前だろう」
白鳥は狼狽した様子を見せながらも必死に反駁せてみせた。
白鳥にとって工場勤務とはブルーワーカーというイメージ以外になく、甲採用、つまり大卒採用の白鳥には適さないと思っていたのだ。
「私は販売部にいたいのよ、特にグローバルな仕事がしたいから、私は市場調査室に移りたいの」
「市場調査? 貴様のような尻の青い社員は務まらんよ」
白鳥は予てより、販売部の中でも精鋭が集まる市場調査室への異動を希望していた。
市場調査室とは、世界中の経済動向を研究し、安徳工機の主力製品である産業機械を、どこで生産し、どこで販売するかを、戦略的に検討する課である。
経営の根幹を司る重要な部署であるため、在籍するのは殆どが管理職等級であり、経験も知識もない入社三年目の白鳥が異動を希望するには、些か無謀であると思われたが、自己顕示欲の強い白鳥は、そういった注目度の高い部署に行くことが、一種のステータスであると考えていた。
ジョーは、「お前に市場調査室は早い」と、断固否定した後で、
「岐阜も世界の一部じゃないか。寧ろ本店工場があるだけに、安徳工機にとって岐阜は世界の中心だぞ」
と、ほくそ笑んでみせた。
「ふざけないで下さい。こんなの不当人事よ、私は販売部で経験を積んでいきたいの、製造部なんて考えられないわ」
「不当人事だ?」
二人の声量が徐々に大きくなるに連れて、周囲の客は二人の激論をチラと見た。
未だ二十代の若い女性と、任侠の世界を彷彿とさせる強面の男が啀み合っているのだから、とても穏やかな状況ではない。
「私はこんな不本意な辞令は受け取れません、不当な人事異動を押し付けるのは、立派なハラスメント行為です。労働組合、ないしは労働監督局に、今日の出来事を洗い浚い訴えます」
白鳥はそう言うと、なにやら鞄からボイスレコーダーを取り出した。
ジョーの発言を逐一、記録して、監督署に届け出ようという魂胆であろうが、対するジョーは、その手の徴発に乗るはずもなく、強硬な態度を貫いた。
「たわけたことを抜かしよって。物を売る販売担当が貴様のような高飛車な態度で勤まるか、このボケカス」
ジョーは声を荒げると、臨戦態勢とばかりに身を乗り出した。
「ボケカスって、何なの。発言に気を付けて下さい」
白鳥は、ジョーの圧力に、一瞬、たじろぎそうになりながらも、組合や監督局などといった言葉の武器をチラつかせて、必死に抵抗してみせた。
幼少のときから、気に入らない教師がいればすぐに教育委員会にタレ込むなど、白鳥は権威、権力に委ねる術を遣う傾向がある。
しかし、これまで甘やかされた世界に生きてきた白鳥でしても、ジョーの凄味の前では、物怖じしてしまうのであった。
「もう三年も販売部にいただろ。人事は三年間でローテーションだ、例外はない」
「だからと言って、販売部から工場に異動なんて、あまりにも乱暴だわ」
押し問答が続き、両者一歩も引かず状況の中でも、ジョーは毅然とした態度で、白鳥に対峙した。
「貴様が入社してからこの三年間で何か実績を残したのかね、偉そうな口だけ叩いて、販売実績は最下位じゃないか、大学で学んだ知識とやらを活かし切れてないんじゃないのか」
ああ言えばこう言う白鳥を前に、痺れを切らしたジョーは、相手を卑下するような言い方で突っ返した後、まるで証拠品を見せ付ける取調官の如く、テーブルの上に大量の書類を出した。
そこには、興信所や担当上司に調査させた白鳥に関する身辺情報が、所狭しと記載されていたのだった。
「貴様の過去三年間の業務実績、及び人事評価を調べさせてもらったぞ。担当課長らの評価によると、貴様は若手の癖に仕事を選ぶ帰来があるそうじゃないか。楽でやり甲斐のある仕事のみを行い、他の興味のない仕事に関しては、皆目、受け入れようとしない。責任は負いたくないが、一方で自己主張はしたい。雑用など有り得ない、上司からの指示に対して怪訝な顔を示し、仕事を受け入れようとしない、こんな態度で会社員が務まるか」
「誰がそんなことを言っているんでしょうか、不当な評価です」
「評価は上が下すのだ。不当もへったくれもない」
ジョーは、それまでの白鳥を扱い倦ねていた担当課長らと違って、臆することなく罵倒を続けた。
「それに、貴様の勤務態度にも大いに問題がある。気に入らない上司の悪口を言い、事あるごとにセクハラ、パワハラ等、女性の武器を駆使する。また他の社員を取り巻き、気のいらない上司を虐め出向に追いやるなど、勘違い甚だしい。また自分の過失や落ち度を指摘されると、ムキになって否定し、組織の秩序を乱す」
「じゃあ、どうしろって言うのよ、何なのよ、組織の秩序って」
「たわけ! 四の五の言うなボケカス! 要は貴様の精神の幼稚さがあかんのや!」
ジョーは、赤坂のフランス料理レストランで行ったのと同様に、人目を憚らずテーブルを強く叩きつけた。
途端、大きな物音とともに、周囲の客が一斉に二人の席に視線を向けた。
「自尊心を捨てよ! 色気を捨てよ! 客に頭を下げろ! 上位者に跪け! ええか、貴様は会社の駒なんじゃ、人じゃない、組織の一部や。貴様の人間性や自尊心など、会社からしたら糞喰らえだ。ワークライフバランスがなんや、多様性がなんや、そんなもんは嘘方便や!」
激昂するジョーを前に、終に白鳥は閉口した。
ここまで直接的な表現で白鳥を面罵したのは、白鳥が生まれてから現在に至るまで記憶になかった。
カフェテリアでは、いつしか二人の周辺に大きな人だかりができ、ジョーの説教を聞き入れる者が集まった。
「会社は利益団体や。利益のためには、個々の尊厳を犠牲にする必要がある、理屈は通じない。会社のために働き、やりたくない仕事もして、世界中を転勤し、家族やプライベートを捨て、如何なる理不尽な命令も受け入れる。いいか、死ねと言われれば死ぬのがサラリーマンの本望や」
野毛の居酒屋『虎次郎』で掛布から聞いた噂話を起点に、ジョーが白鳥の調査を続けて、約半年が経過した。
人事部長という肩書にいて、長らく若手社員との直接的な付き合いから離れていたが、時代が移り変わり、白鳥のように情報過多でプライドの高い若者が増えたことを知ると、ジョーは居ても立っても居られなくなった。
窓外には師走の乾燥した冷気が吹き荒れている。
澄んだ空気の先に広がる異国情緒な景色とは異なり、周辺の空気は凍り付いて見えた。
「君みたいな社員を何と言うか知ってるか」
一通り白鳥を批難する言葉を並べたジョーは、一旦、声調を和らげると、諭すように言った。
「地雷社員だよ」
「地雷、社員…」
「ああ、地雷社員。海外留学経験があり、語学力もあり、有名大学を卒業するなど、経歴は華やかであるが、しかし肝心の仕事はというと、出来損ないだ。貴様がこの三年間で残した実績は何じゃ、貴様の仕事の付加価値はなんだ。貴様は給与分の貢献をしているのか?」
ジョーは、消沈する白鳥の顔に視線を向けると、更に声調を落として言った。
「昨年から現場実習が復活したのを、貴様も知っておるじゃろう」
ジョーの発案により、およそ十年ぶりに再開した工場実習の存在を、白鳥は当然、知っていたが、一方で白鳥自身、現場実習の復活には強く反対していた。
全社員の先頭となって、「時代錯誤」、「ハラスメント」、などと体の良い言葉を並べて、現場実習を遂行する会社側を非難した。
「貴様は一定期間、現場に入って、その高飛車過ぎる自尊心を砕き割ってこい」
白い湯気を上げる珈琲の反対側に、すっかりと意気消沈して俯く白鳥の姿が映る。
白鳥が漸く人の話を聞く態度になったのを確認すると、ジョーは自らの若い時代の経験を、遠い目をしながら語り始めた。
「大卒の貴様と違って、現場叩き上げであったワシは、新入社員の頃、岐阜工場の圧造課に配属された。当時は今と違って設備も古かったし、人が作業をせんとあかん工程が山ほどあった。ワシが配属された工程は、自動車用部品に使われる二十キロの鉄板を、作業員が人力で運ぶんやが、体が馴れんうちはキツくてな、ばね指になったり、疲労で膝も立たれんくらいに震えた。それでも会社は人件費を下げるために、無碍に作業員一人当たりの持ち回りを増やし、最初は一分間に鉄板十枚をプレス機に入れるのが、そのうち五十秒毎に変わり、挙句の果てに、部品剛性を高めるため鉄板の厚みも増えた。その度に指の筋肉が疲労して、日常的に腱鞘炎に苦しんだ」
ジョーの手元は、お世辞でも綺麗とは言えない。
血管が浮き出て皺が多く、寧ろ年齢より老いを感じさせる。
しかし、年輪のように深く染み付いた皺こそが、会社員としての貢献の証であると、ジョーは力説した。
「冷房のない圧造工場は、岐阜の寒冷地でも夏場は四十度近くになり、熱中症で倒れる者が耐えなかった。今と違って健康飲料など充実していなかった時代だから、熱中症対策としてタッパーに塩塊を入れて、それを二度に分けて休憩時間中に麦茶で流し込むのだ。最初見たときは、あれだけの塩分を一度に摂取したら胃に穴が空いて死ぬのではと思ったが、実際に作業をしてみると、その分、汗が出るので、むしろ塩気が足りないほどであった。貴様のように、冷暖房完備の本社でぬくぬくと温室栽培されている社員では想像もつかんであろう」
近所にスーパーマーケットすら存在しない岐阜工場では、会社と寮の往復で一日が終わり、またQCや地元のボランティア活動、そして現場特有の体育会気質の職場では飲み会が強制参加で、例え休日であっても、一人の時間が取れることはない。
個を重んじる昨今の社会情勢で育ったひ弱な若者にとって、工場勤務は些か辛い面も多い。その分、社会人としての礎を身に付ける良い機会でもある。
強制収容所と揶揄される安徳工機岐阜工場の生活は、ストレスと疲労で、血の小便が出るのも時間の問題だ。
尚もジョーは続けた。
「本社と違って、工場では、一人でも休んだら生産ラインが止まるというプレッシャーが常に付き纏うし、休み時間も一日に二度しか与えられんし、その休み時間中も設備点検や整理整頓作業に追われるため、実質休みはゼロや。何らかの原因でラインが停止すれば、残業や夜勤で取り戻すし、挽回し切れなかった分は休日も出勤する。狭い工場の中では人間関係が仕事に物を言わし、誰がトチッたなんて噂が立てば、定年まで馬鹿阿保の烙印を押される。先輩の言うことは絶対だ、個が尊重される風潮は皆目ない。工場では作業員は機械の一部であり、人間ではないのだ」
話の流れから、自身の異動が決定事項になりつつあることを思うと、先ほどまでの白鳥の威勢は、すっかりと陰を顰めた。
横浜のような都市圏ならまだしも、まさか岐阜に移り住み、しかもその場所が血反吐を吐くほどの激務で知られる生産工場であることを思うと、来年度からの生活に不安を感ぜずに居られなかった。
すっかりと肩を落とした白鳥を前に、尚もジョーは、昔語りを続けた。
現場生え抜きで部長級まで伸し上がったジョーである。
現在、本社で勤務する管理職の中で、ジョー以上にモノづくりの現場を知る者はいない。
それだけにジョーの経験談は、現実味を持って白鳥に降り注ぐのであった。
続いてジョーは思い付き様に語調を改めると、視線を店内へと移しながら話題を変えた。
「ほんで、製造現場において、一番辛いのは便所や。工場では、作業中は勿論、休憩中も設備点検に追われるため、トイレに行く時間がない。昼食は糞まずい仕出し弁当を五分で一気食いし、すぐに現場に出て点検作業。ライン稼働中にトイレに行きたくなったら、代替作業者が来るまで我慢。また便所から遠い持場の作業者は悲惨で、数百メートル先の便所まで肛門を抑えながら走り、帰りも走って持場へ戻る。そのため作業中に失禁する者が絶えず、緊急ライン停止ボタンを押して、急遽、清掃作業が始まるのや。運悪く設備や製品上に便を漏らしたら悲惨で、ラインに撒き散らされた糞便を皆で拭き取り、順序生産を狂わせぬよう新たな製品を作り、ラインに戻す必要がある」
昼食ともなれば横浜近郊で千円を下らないランチを摂る白鳥にとって、二百五十円の海苔弁を延々と食べ続ける生活は想像に難かった。
次第にジョーの話す内容が工場での用便事情に達すると、白鳥は眉を顰めた。
カフェで糞便談話など瀟洒にならない。
それでもジョーは、こればかりは伝えておきたいと、それまで以上に具に説明を続けたのである。
「ある日、テスト工程に配属となった気弱な新人がいた。テスト工程は、全ての組立工程が終わり、最終品質チェックをする重要な工程であるから、ここで失敗をすれば、それまでの工程で積み重ねた全ての作業が水の泡となるため、最も緊張が伴う。しかしその新人はというと、色白細身で見るからに胃腸が弱く、配属後、僅か一ヶ月間に三度も失禁し、せっかく完成を迎えた製品を無駄にした。あまりにも大量の糞便を漏らすので、同じ工程の作業員仲間からは『脱糞野郎』と不名誉な烙印を押され、工場中にその名は知れ渡った。彼は結局、その後、現場からは程遠い調達や部品管理といった事務仕事に回されたが、彼の名は伝説となり、岐阜工場のエントランスに石碑が立ったほどだ」
安徳工機本店工場の入口には、創業者の名を付した豪奢な石碑があるが、その横にひっそりと、巻糞の形を模した黄金色の石碑があり、『脱糞野郎』の名前が刻々と掘られている。
脱糞野郎は既に定年を迎え会社を去ったが、その名は失禁の逸話とともに永遠に岐阜の地に残り続けた。
「工場では、糞便対策として市販の下痢止めを通常の五倍も服用し、無理に便秘状態に陥った者、成人用おむつや下着を二重に履く者も現れた。中でも最も多かったのは、昼飯を抜いて便意を喪失する方法であったが、結局、夏場は貧血などで倒れ、功を奏さなかった」
先ほどまで晴間の見えた横浜の景色であるが、いつしか窓冊子にはシトシトと雨が落ち始めていた。
ちょうど昼食時間が終わり、一台しか大便器のないカフェのトイレには長蛇の列ができている。
その多くは顔面を蒼白とさせており、如何に便意を散らそうと思慮を巡らせている様が目立った。
ジョーはそんな失禁予備軍を鼻で笑いながらも、さらに続けた。
「さらに工場では、従業員数に比して極端に便所が少なく、百人の組立工程に大便器が二台と、昼休み中は長蛇の列ができ、また便意を催した者が我慢できずに開かずの扉を殴る蹴るして破壊するため、大便所は、かつて中国などで見られたような扉のない状態となった。もともと男世界の製造工場では、男性用便所の入口が、一枚の背の低い壁に隔たれるのみで、外からは丸出しになった尻穴からブリブリと便が溢れる様子が確認できた。昼時ともなると工場中に糞便の匂いが充満し、切削油の匂いと相まって、不快を極めた」
先ほどまで列を為していた三十代中頃程度のサラリーマンが、我慢できずにスーツの尻元を抑えると、「まずい、ちょっと頭が出た」と叫びながら何処かへ走り去ってしまった。
ジョーはその様子を見て、手を叩いて笑った。
「男性便所同様、女性便所の方も様相は酷く、男女雇用機会均等以降、現場にも数多くの女性労働者が流入されたが、女子便所の整備が遅れ、扉のない便所に若い女性作業員が跨っているのを、興奮した男性社員が覗きに入ったり、携帯電話で盗撮したり、挙句の果てには夜間労働者による強姦未遂事件にも発展した。事件は未遂に終わったが、仕事をしないことで名高い労働組合もさすがに状況を見兼ね、早急に工場の女子便所の改善を求めた。これによって女性用トイレは改装され、強姦被害を防ぐため鍵付きとなる徹底具合で、シャワー洗浄機は勿論、化粧台も完備されるなど、いつしか完全女性優遇となった。これは、男女平等を訴える社外のフェミニスト団体、本社のダイバーシティ推進部によるもので、いつしか鍵付きの女性便所は、難攻不落の旅順要塞と呼ばれるようになった」
それまでの激昂した様子から一変、神妙な顔付きで糞便談話を続けるジョーの様子を見て、それまで二人の席を囲っていた他の客も、感嘆して涙腺を腫らせた。
人間誰しも、糞便の失敗の経験はある。
過酷な製造現場での用便事情を聞いて、自らの体験と重ね合わせながら状況を汲んだのであろう。
「そういえばお前、妙な趣味を持っていたな」
ジョーは急に声調を変えると、ふと思い付き様に問うた。
「趣味?」
「ああ、なんや、SMとかいう奴で見させてもらったで」
ジョーは、SNSと言うべき所を、つい自分の性癖が言葉となって出てしまった。
「なにやら、休日はヨガ教室に通って、水曜日は時短勤務でジム通い、週に一度はジュースクレンジングなどを行っているらしいじゃないか」
白鳥は、なぜそんなことを知っているのか、と声を荒げたい気持ちに駆られたが、尻穴の皺の数まで知られている白鳥にとって、それ以上の反論の言葉はなかった。
「激務の工場では、力仕事が中心だから、労働者は皆、白米どんぶり三杯食っとるんや。夏場は大量の汗が流れるから、ジュースクレンジングなどせんでも、嫌でもデトックスが出来るぞ、がっはっは」
「お、男と女は違います!」
「おおう、都合の良いときだけ男女平等か、笑わせるな」
白鳥は口を紡いだ。
もはやジョーの前では、何を言っても通用しない。
「ふん、いずれにしろ、貴様の岐阜行きは決定事項だから、今から身辺整理をしておけよ」
ジョーはそう言い捨てると、未だに長蛇の列を為す大便トイレの横を通り抜け、そのまま姿を消して行った。
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