第4話
岐阜県内には、安徳工機の事業の根幹となる製造工場の他に、販社、設備メーカー、資材業者など、種々の関連会社が存在する。
岐阜発祥の安徳工機は同地域を企業城下町として抱えているため、岐阜で石を投げれば安徳工機社員に当たると言われるほど、グループ会社の関係者が犇めき合っている。
岐阜県西部、山県市に本店を置く『安徳工機・マテリアル・サービス』も、そんな安徳工機の下請けメーカーのひとつであり、主に工場設備の保守、点検を行っている。
工場で使用される設備は、本社の生産技術部が統括して一次請メーカーに発注し、開発、導入した後、量産以降の保全は二次請業者が行っている。まさにマテリアル・サービスがそれに当たる。
安徳工機・マテリアル・サービスには、安徳工機の資本が入っており、管理職の多くが本店からの出向者であるが、出向先としては部品メーカーよりも、さらに格が低い。
四十八歳の萩尾達夫は、未だ役定となる年齢ではないが、ある事情の下に、マテリアル・サービスに出向となっていた。
若くして下請業者に出向というケースは、何か特別な問題を含んだ社員である可能性が高い。
「―萩尾課長、萩尾課長」
萩尾は、自分を呼ぶ声に反応し、悲壮した面を上げた。
青いツナギの作業着が哀愁を漂わせる。
傍から見れば、どこにでもいる工員のようであった。
「どうした?」
「お客様がお見えです」
今どき珍しい桜色の制服を着た女子社員が萩尾デスクに向かい、気怠そうに言うと、
「客? 来客の予定はないはずだが」
と、不審そうに萩尾は応えた。
萩尾が販売部にいた頃は、販社や広告会社など、人の出入が多かったが、鋳鉄溶炉の保守、点検作業を専門に行うマテリアル・サービスでは、客といえば本店技術部の関係者以外にない。
「分かった、悪いが、応接に通してくれないか」
萩尾は、釈然としない様子でデスクを後にすると、一階にある応接室へと急いだ。
岐阜県山県市は、北方に日本アルプスの丘陵を臨む長閑な田園地域にあり、安徳工機の製造拠点として国内最大規模を誇る第三工場の近郊に位置している。
そのため、ここ山県市周辺には、安徳工機・マテリアル・サービスをはじめ、多くの下請業者が林立していた。
萩尾は、応接室の扉を開けると、思い掛けない人物の姿に、驚愕の表情を見せた。
「おう、見ないうちに窶れたな」
そこにいたのは、紛れもない、人事部のジョーこと城山丈一郎である。
神出鬼没で知られるジョーであるが、まさかこんな片田舎の二次請け業者に何の用だと思いながらも、萩尾は姿勢を改めた。
ジョーは、先ほど客入りを伝えた女性社員からお茶を受け取ると、渋い顔でこう言った。
「しけた茶だな! 茶菓子も出んのかい、さすがは二次請けや」
歯に衣を着せぬジョーの話し方に、女性社員は顔を顰めた。
「本社には、まだ若くて可愛いらしい女子社員もいるが、ここはババアばっかりやのう! なあ萩尾!」
ジョーは、萩尾に同意を求めたが、お局社員の殺気を感じ、必死に否定してみせた。
社員数二万人、主要連結子会社二十社、さらにその下に数え切れないほどの関連企業を抱える安徳工機グループにおいて、出向や転籍というのは付き物である。
萩尾自身も数ある出向管理職の一人であるが、出向の背景は若干、他の社員と違っていた。
「部下にハラスメントを働いて二階級降格となった気分はどうだ、がっはっは!」
昨年度までみなとみらい本社の販売部に在籍していた萩尾。
通常、販売部の出向先は、販社や市場調査機関など、同業界であることが多いが、余程、大きな問題を冒した社員については、その限りでない。
部下に執拗に業務改善を迫った萩尾は、その後の密告により、労働監督局にハラスメント行為を指摘され、止む無くマテリアル・サービスに懲罰出向を命じられたのである。
人事として、妙な噂を立てないためにも、敢えて販売部と全く接点のない業界に飛ばした訳である。何よりハラスメントを行った上司を受け入れる会社は少ない。
「ここなら販売部の知合いがいない分、ハラスメント上司のレッテルを貼られる恐れもないだろう、横浜と違って岐阜は空気もいいし、初老の貴様にとっては、残りのサラリーマン人生を有意義に送る良い環境じゃないか、がっはっは!」
冗談めいて言うジョーであるが、
「あれは誤解です! 私は決して執拗に指導を迫った訳ではありません」
と、萩尾は必死に反論してみせた。
自分は悪くない、濡れ衣を着せられただけなのである。
萩尾の薄くなった額からは、言い様もない哀愁が漂っていた。
「それはさておき、本題に入ろうとするか―」
ジョーは、咳払いをひとつ挟むと、声調を整えた。
「貴様は白鳥が入社したときの担当課長やろう、当時の白鳥について教えてくれないか」
白鳥の名前を聞いたとき、萩尾の表情が一瞬、苦悶に歪むのをジョーは見逃さなかった。
「ええ、白鳥は、入社した時から目立つ存在でした」
「目立つ? 具体的には?」
ジョーはさらに詮索して問うた。
「新入社員挨拶のとき、自分のことをミドルネームで呼ぶよう白鳥は言いました、白鳥が帰国子女であったことは事前に知っていたため、初めは単なるニックネームのような感覚であると思いましたが…」
萩尾が言葉に詰まると、
「西洋かぶれ、そう言いたい訳やな」
と、ジョーは代弁した。
「ええ、それだけでなく、彼女は事あるごとに外資企業を引き合いに出し、日本の会社は体質が古いとか、仕事の効率が悪いとか、無駄な報告が多いとか―、自分が仕事が出来ないことを棚に上げ、会社批判を続けました」
「新人のくせに文句を垂れるなど、言語道断や」
白鳥の素行の悪さを、ジョーは大袈裟に批判した。
「今は上司が偉ぶる時代ではありませんが、正直、仕事を覚える前に文句を言うのは、道理が外れていると感じました」
出向先で普段から肩身の狭い思いをしているのか、萩尾はすっかり意気消沈した様子で言葉を選んだ。
尚も、萩尾は無念に満ちた様相で、入社当時の説明を続けた。
「入社半年が経過したあるとき、私は白鳥を、あるプロジェクトチームに任命しました」
「プロジェクト? どういった類の?」
「ええ、商品価値を如何に高めるか、という一種のブレインストーミングです。具体的には、販売部として商品のブランド価値を如何に高めるか、実際に大手のコンサルタントを呼んで検討会を開いたのです、そうですね、二千万円程度の案件でした」
二千万円と聞いて、決して小さな額でないとジョーは感じたが、まずは萩尾の話を聞くに徹した。
「外部コンサルタントは優秀でした。やり手のコンサルタント会社だったので、仕事が早く、広告の打ち方や、商品イメージの改善など、種々のアイデアを出してきました。中には、おおっ、と思わせるアイデアもあったので、早速、白鳥に社内調整を依頼し、関係部署と、実行のために何をすべきか、打合せの場を持つよう提案したのです」
安徳工機・マテリアル・サービスは創設十年程の会社であるが、前身の溶炉保全工業を含めると、ほぼ安徳工機と同程度の社歴があり、ここ山県本社の応接室も、すっかりと年季を帯びていた。
陰気臭い社屋が萩尾の哀愁をより一層、ひき立てる。
出向管理職として、萩尾がこのまま定年までここでサラリーマン生活を送るのかと思うと、ジョーはいてもたってもいられなくなった。
萩尾は続けた。
「しかし、当の白鳥の動きが遅く、せっかく良いアイデアがあっても、社内調整に時間が取られるため意思決定が遅いなどと、事あるごとに異見をし始めたのです」
「まあ、古い会社やから、調整事が多いのは仕方あるまいな」
「ええ、しかし、私が頭にきたのは、文句を言うだけ言って、結局、白鳥が何も実行に移さなかったことです。私はその夜、彼女を呼び出して、業務態度について注意しました、問題提起をすることは良いが、実際に行動に移さなければ、単なる評論家に留まってしまう、それでは何も始まらない…と」
ジョーは、腕組みをしながら萩尾の話を聞きながら感じた。
萩尾は真面目一辺倒な男である。
真面目過ぎるがゆえに、白鳥のようなモンスター社員を上手く手扱えなかったのだろう。
保身を気にする管理職であれば、この手の問題のある部下には、責任のある仕事を一切振らず、仕事の指示も出さない。部下の機嫌を損ねないように三年間をやり過ごし、次の配置転換まで待つ。しかし萩尾には、そういった狡猾さがなかったのである。
安徳工機のような大企業で生き残るには、つまらない問題を起こさないこと、余計な事柄で目立たないこと、何事も無難にやり過ごすことに限る。
要領を得るか、もしくは萩尾のように真正面からぶつかるべきか。
どちらが得策であるのか。
少なくとも、白鳥のような問題社員の更生に挑んだ萩尾は、企業人として稚拙過ぎた。
ジョーは、そんな萩尾の運の恵まれなさを憐れんだ。
「一通り説教の言葉を並べ、言いたいことを言った後に、なんと白鳥は、私との会話を記録したボイスレコーダーを取り出し、労働監督局にたれ込むと脅したのです」
萩尾は語調を強めると、奥歯を噛み締めながら、尚も続けた。
「確かに、相当、私は頭にきていたので、語調もキツかったでしょうし、何度か声を荒げる場面がありました。しかし、それは上司として真っ当な指導だと信じていました。でも、白鳥の胸には全く響いていないどころか、逆手に利用されてしまったのです。それ以来、私は彼女に声をかける時は細心の注意を払い、言葉を選ぶようになりました」
「同様の悩みを抱える管理職は多いからな、組合や世間の非難が強過ぎて、誰も身動きが取れんのや」
ジョーは、虎次郎での掛布とのやり取りを思い出した。
珍しく同調気味のジョーの言葉に、萩尾は目頭を熱くさせた。
「仕事を頼もうにも、パワハラと言われ兼ねないため、振れませんし、残業もさせることができません。それどころか、他の女性社員と取り巻きを作り、私の悪い噂を掻き立てる始末です。そうすると課内の雰囲気も悪くなって、男性社員に皺寄せが行きますでしょう、男性社員からの評判も落ちる。マネジメント能力がない、部下をまともに指導することが出来ないと烙印を押され続けました」
部下に難しい仕事を与えれば、パワハラである。
飲み会に誘えば、セクハラである。
情報過多の世の中で、部下側も、何かあればと会社を訴える術を兼ね備えている。
昨今の管理職に、心身の余裕はない。
「労働監督に呼び出されたのはその直後です。まるで警察の取調を受けるかのように、根掘り葉掘り聞かれました。指導の一環と説明しても、誰も認める訳がない」
七月。
灰鼠色に変色した空調からは黴のような臭いがした。
梅雨時の湿気た空気が、黴の匂いと相まって、不快さを極める。
萩尾は、出向までの経緯をひと通り話し終えると、少しは気が楽になったのか、姿勢を戻して閑談を続けた。
「僕の後任課長の横本は、僕と違って、もっと上手く立ち回れるでしょう、彼は僕と違って優秀ですし、人望も厚い」
「いや、彼も手を焼いているぞ」
「そ、そうなんですか…」
「ああ、白鳥に対して、人事として手を打たないことはない」
本社勤務の課長職が、突然、片田舎の下請けメーカーに来たのだから、妙な噂が立つのは当然であった。
若い女性社員へのハラスメントによる懲罰出向と周囲に知られた日には、萩尾に居場所はない
販売部から製造部へ移って、仕事の性質が違い過ぎるため、指示が出せない。
それでも、本社から来たのだから、仕事を知っていて当然と見做され、誰も仕事を教えてくれず、肩身が狭くなる一方である。
「本社に比べて子会社は予算も人員が限られ、思うように仕事が回せない。理想が先行して社内で孤立したり、本社からの無茶な要求の度に七転八倒し、また部下に仕事を依頼しようにも、思い通りに動いてくれない」
出向管理職特有の悩みを、萩尾は抱えていた。
設備の保守点検といっても、定期清掃や突発修理だけで、仕事に付加価値は存在しない。大会社の下請けは、裁量や業務範囲が限られており、常に親会社に耳を立てることに腐心する。
一日のうちで実務を行なっている時間は二割にも満たず、ほとんどが会議や社内調整に追われ、その割に神経ばかりが磨り減る。
それ故に、出向管理職という身分はストレスが溜まり、最近では疲れていても寝付けない夜が続く。不眠を解消するために、大量のアルコールを摂取する始末だ。
軽い統失の自覚はあるが、精神科に通うのは自尊心が許さず、またもし精神科に通院しようものなら、人事減点が入り、本当に一生子会社のままサラリーマン生活を送ることになり兼ねない。
「精神を病んだ出向管理職を、再び本社に戻すほど、人事は甘くないですから―」
萩尾の言葉はジョーの胸にも突き刺さった。
ここへきて基本給は二十五パーセントも落ち、家族にも見放され、現在は築三十年の社員寮に単身赴任生活を強いられている。
四十八歳の肉体に、畳六条の独身寮生活は、あまりにも酷過ぎた。
「白鳥の顔を思い出すと、本当に悔しい気持ちでいっぱいになります。ほんと、彼女に人生を狂わされましたよ」
そう云って萩尾は自虐的に笑った。
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