第3話
「―白鳥、もう帰るのか」
夕方六時、販売部第二商品販売グループ課長の横本慎一は、帰り支度をする白鳥を呼び止めると、怪訝な顔で言った。
「仕事がまだ終わっとらんだろう、明日の部長報告資料、どうなっているんだ」
「資料は出来合いのものを使うから、問題ありません」
白鳥は金切り声を上げると、周囲にいた社員は、一斉にその方向へ視線をやった。
「出来合いの資料を使うのはいいが、数字が去年の販売実績だろう、ちゃんと最新のものに更新しないと、部長は数字に厳しい方なのは知っているだろう」
横本は言葉を選びながらも、白鳥を説得した。
このような白鳥と横本の押し問答は、決して珍しい光景ではない。
年上の上司に対しても、はっきりと自分の意見を主張する、それが白鳥のやり方だ。
「今夜、大事な友達とディナーがあるの。遠方に住んでいて、なかなか会えない子だから、遅れることは出来ないのよ。それにちゃんと事前に言いましたよね? だいたい、前の部長は数字に煩くなかったのに、上司が変わる度に資料を作り替えるなんて、本当、馬鹿げているわ」
「君の言うことは承知だが、数字を変えるくらい五分も掛らんじゃないか。ディナーはいいけど、お前、ちゃんと仕事は計画性を持ってやらないと…」
横本は必死に訴えてみせたが、最後の一押しが出来ず、白鳥はそのままオフィスを飛び出してしまった。
周囲の目もあるため、曲りなりに忠告した横本だが、どうしても白鳥には強く言うことが出来ない。
白鳥の姿が見えなくなると、何事もなかったように静まり返る販売部オフィス。
しかし、一方で、横本の顔には陰が残った。
売れ筋の汎用重機を扱う販売部第二グループは、多くの仕事を抱え、実際、横本はこの日も夜遅くまで会議を抱えている。僅か五分というが、横本にとっては五分の余裕すらないのである。
昨今は残業規制も厳しくなり、この時間から部下に新たな仕事を振るなど、横本にはとても出来なかった。それに、他の部下達も、先の白鳥との押し問答を目の当たりにしているため、尻拭いをさせられるのではないかと、誰一人目を合わせてはくれない。
「世知辛いのう、今は上司が威張れない時代やからなぁ」
ふと、横本の背後で聞き覚えのある声がした。
ドスの効いた特徴的な低い声。
紛れもない、人事部のジョーである。
「ぶ、部長、どうしてここに?」
「ちょっと近くに用があったもんでな。特に意味はない」
ジョーは、フロア後方で身支度を整え、颯爽と走り去る白鳥の姿を目で追った。
午後六時、フロア内には未だ多くの社員が残って仕事を続けている。
「あれが白鳥とやらか」
「え、ええ…、白鳥をご存知なのですか」
横本は驚き様に云ったが、対するジョーは、
「何を言う、ワシは人事部長だぞ。社員ひとりひとりの名前と顔くらい知っておるわ」
と、然も当たり前のように返した。
みなとみらいの大規模複合ビルの二フロアを打ち抜いた本社には、およそ六百名近い社員が在籍している。
多くは事務や管理部門であり、実作業は岐阜の本店工場で行っているため、現場のような緊張感はここにはない。しかし本社にいる社員も、三年でローテーションという掟に例外はない。岐阜と横浜、さらには海外を転々とする生活を続けている。
ジョーは、なにやら狼狽した様子をみせる横本を見て、次のように問うてみた。
「言うことを聞かない部下に、どうやって怒ったらいいか分からんという顔をしておるな」
「い、いえ…」
横本は図星を突かれたように背筋をビクつかせながらも、
「まあ、そんな所です」
と溜息混じりに言った。
横本は、忙しない様子で書類を掻き集めると、明日の資料の準備をはじめた。
本来ならばとっくに済んでいるはずの仕事であるが、言うまでもない、白鳥に任せたはずの資料が全くの手付かずで、これから夜通しで横本が対応しなければならないのだ。
ジョーは、そんな揺動とした横本の様相を、哀愁に満ちた視線で眺めた。
国内の建設不況の中で、販売部に課せられたノルマは厳しい。
また、それを受ける部下の狭間に立たされながら、難しい立ち位置にやられた横本は、まるでボロ雑巾のように酷使されていた。
せめて部下に恵まれていれば―。
蒼白い顔を浮かべる横本を見て、ジョーは並々ならぬ思いに至った。
本社フロアには役員以下、多くの管理職が在籍するため、オフィスにはこうして夜遅くまで恍惚と灯りが灯されている
それが秀麗な横浜の夜景の一部になっているのだから、これ以上に皮肉なことはない。
ジョーは、そんなアイロニックな光景を目の当たりに、謀を巡らせながら、
「ああいったプライドの高い社員は、若いうちの鼻を折っといた方がいいな、俺にいい考えがある」
こう呟き、颯爽と姿を消した。
―赤坂の高級レストラン『ビストロ・メルド』は、煉瓦造りの外壁が淡い橙色の照明に照らされ、落ち着いた雰囲気を漂わせていた。
店内の装飾は、南仏の古い邸宅を模していて、エントランスホール、階段の踊り場や手摺、回廊の絵画、また椅子やテーブル、調味料器具に至るまで、至れり尽くせりの拘りが見えた。
白鳥は、早々に会社を出ると、一旦、自宅マンションへと立ち寄り、余所行きの服装を身に纏うと、赤坂へと急いだ。
地下鉄を降り、赤坂通りを檜町方面に向かった先に、外国人向けのホテルやバーが林立した界隈が目に入るが、その更に奥まった路地に、ビストロ・メルドはあった。
白鳥は、大学時代の級友で、現在はシンガポールに在住する朝霞玲子と待ち合わせると、目的のレストランへと入店した。
比較的、控えめな装いの朝霞に対し、白鳥は太い眉に紅を差し、自己顕示欲の塊のような、赤いシルク生地のドレスを身にまとった。
「玲子、久しぶりね、三年ぶりかしら」
白鳥は、学生時代と何ら変わらない様子の朝霞を見ると、嬉々とした様子で言った。
「アンジーこそ、ちっとも変わらなそうで、良かったわ」
白鳥は、学生時代から自分をミドルネームで呼ばせることで、一種の優越感を享受していたのである。
二人が席に着くことを確認すると、ホールスタッフはメニュー表を手渡した。白鳥は然も知った顔で食前酒を頼み、その他、前菜、メインディッシュ二品、デザートを注文した。
「今日ね、帰り際に上司に呼び止められちゃって。ディナーがあるから早く帰るって前々から言ってたのに、急に帰り際に、明日の会議資料はどうなった、って。本当、馬鹿な管理職がいると困るわよ」
朝霞は相槌を打つだけで、話すのは白鳥だけである。学生時代からこの構図は全く変わっていない。
こうして周囲に都合の良い友人を置いておくのも、白鳥の流儀である。
「上司は部下の負荷を管理するのが仕事なのに、帰り際に仕事を振るなんて、あんなのパワハラよ、だから奥さんに捨てられるのよ」
フロアスタッフがメインディッシュの『タスマニアサーモンのマリネ、グリビッシュソースを添えて』をテーブルに持ってくる頃には、白鳥の頬は酔いで漆に染まっていた。
白鳥が食中酒に赤ワインを注文すると、
「ああ、このワイン美味しい、飲みやすいわね」
と朝霞が調子を合わせた。
それを見た白鳥は、
「八十年代後半のローヌワインかしら」
と、まるで自らの知識を曝すように能書きを加えた。
「アンジーは本当、ワインに詳しいわね」
「コート・デュ・ローヌ・キュヴェ・アンティーク・ヴィエイユ・ヴィーニュ、戦前に植樹された古木の葡萄を使ったワインよ、フランスのローヌ地方で生産されていて、熟成されたどっしりとしたフルボディは、鴨肉とは相性がとてもいいの」
尚も白鳥は、自らの知識を誇示するかのように、説明の言葉を並べた。
閑かな店内では、甲高い白鳥の声がよく響く。隣客の視線がチラチラと集まった。
「でも安物よ、たぶん、五千円位で買えるんじゃない」
白鳥はラベルを見ると、煩雑にボトルを置いた。
酔いが回った白鳥は、その後も得意の饒舌を披露し続けた。
徐々に話題はワインから会社批判に転じ、白鳥は日頃の鬱憤をアルコールとともに吐き続けた。
「ああ、やだやだ。これだから日本の古い企業は駄目よね、精神論が蔓延っていて、自由が効かないというか、融通が効かない。残業することが美徳とされている。外資系企業だったら個が優先されるわ、会社のためにプライベートを犠牲にするなんて、本当、馬鹿らしい」
怪訝な表情を浮かべる周囲の客の存在など露知らず、終には店中に響き渡る大声で愚痴を露呈する白鳥。
すると、なにやら背後から、黒い影が近付く気配があった。
「たわけ!」
突如、バンっと、テーブルを叩く鈍い音が鳴った。何事かと思って振り向くと、こちらに向かってくる、見覚えのあるずんぐりむっくりとした体型が見えた。
紛れもない、人事部のジョーである。
ジョーは、白鳥の会話の一部始終を聞き怒りを露にすると、いてもたってもいられなくなり、終には白鳥に罵声を浴びせ始めたのだ。
「あんた、なんでここにいるのよ」
「ワシだって客じゃ、ワシがいて悪い理由があるか」
ジョーは、早々に会社を去った白鳥に尾行を付けると、こうして店まで後を追ってきたのだ。
社員ひとりひとりにGPSの着用を義務付け、完全な管理下に置こうとした男である。
白鳥の居場所など、すぐに突き止めてしまう。
「さっきから話を聞いていれば偉そうに」
瞬間湯沸かし器の如くジョーは顔を赤らめると、周囲の謹厳とした空気など諸共せず、面罵を続けた。
「なにが日本企業の体質は古いだボケカス、外資系企業たりとて仕事を優先するもんだ」
「あんたに何が分かるのよ」
対する白鳥も、ジョーの説教を黙って聞くような性質ではない。
「ふん、外資系企業で働いたこともないくせに」
「貴様もないだろうが」
互いに一歩も譲らず、押し問答が続く。
店の雰囲気には似つかわしくない作業ブルゾン姿のジョーと、西洋かぶれの白鳥。
店員や他の客は、一触即発の二人の様子を、固唾を飲んで見つめた。
「だいいち、貴様は碌に働かずして自己主張ばかり強いから、皆辟易してるんや、こんなことをしている間も、横本は貴様の仕事の穴埋めで、この時間まで残業してるんやで、なにが趣味はワインや、そんなもんに現を抜かしてる暇があったら、資料の一つでもまともに作ったらどうだ」
「なんでそんなこと知ってるのよ」
「人事は何でも知ってるんじゃ、貴様の尻穴の皺の数まで知っておるわい」
決して安い店ではない。客層もそれなりで、なにより、貴重な時間を台無しにされ、白鳥の方も憤怒していた。
「そんなに帰りたかったら帰れ! 明日の部長報告は中止だ! ワシから担当部長に話しておく」
ジョーはそう言い捨てると、怒りに足踏みをしながら、南仏の回廊へと姿を消していった。
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