見えざる敵     同日 一二五〇時

『目標を捕捉。左一〇〇度、距離一・二海里、深度九〇メートル。おおむね南南西の方角に向かいつつある模様』

「もう少し奥にいたら、見つけられなかったわね」

 ようやく届いた情報を耳にしたあと、ホレイシアはそう小さく呟いた。

 敵艦の位置は〈リヴィングストン〉の左舷側、その斜め後方であった。おそらくソナーの探知圏外に出て姿をくらまし、こちらがダミーに惑わされている間に船団のほうへ前進するつもりだったのだろう。発見できたのは幸運であった。

 ホレイシアは航海長に尋ねた。

「ジェシー、本艦の針路は?」

「方位二七〇です」

 シモンズ大尉の返答に、彼女は頷いた。船団本隊と逆向きに進む敵に対して、〈リヴィングストン〉はその針路とほぼ直角の――船団のほうへ進むコースをとっていることになる。

 間もなく、ソナー室から目標が右舷に変針しているとの情報が届いた。ホレイシアがしばらく様子を見ていると、スピーカーを通じて続報がもたらされる。

『目標は右舷へ変針、方位二八九へ進みつつある模様。速力七ノット』

「こちらとほぼ同じ針路ね」ホレイシアはそう言うと、見張員に尋ねた。

「船団本隊との距離はどのくらいかしら?」

「船団本隊はおおよそ三海里になります」

「かなり近いわね」

 ホレイシアはそう呟くと顔をうつむかせ、わずかに考え込んでからリチャードに言った。

「仕掛けるわ。撃沈できるかどうかはともかく、相手の針路上に割り込んで船団から遠ざけましょう」

「了解です。なら、まずは接近する必要がありますね」

「その通りよ」

 ホレイシアは副長の言葉へ頷き、海図台の前に立つシモンズ大尉に命じた。

「取り舵いっぱい、針路を方位一七九へ」

「針路一七九、了解しました」

 シモンズ大尉は命令を復唱すると、航海士に針路の変更を指示した。命令は最終的に操舵室へ伝わっていき、操舵手が舵輪を左に回しはじめる。〈リヴィングストン〉はその船体を旋回方向とは逆の右側に傾斜させ、波風を一身に受けながら舳先を指示されたほうにむけていった。正面に見えていた船団本隊の位置が、見る見るうちに右側へ変わっていく。

『目標、見失いました』

 変針を開始してすぐにソナー室がそう知らせてきたが、ホレイシアとリチャードは動じなかった。艦がその向きを変えたため、ソナーの指向する方角が目標の位置からずれてしまっただけだからである。自動追尾機能のような便利なシステムは搭載されていないため、これはどうしよもない。

 ソナー室から再び情報が届いたのはそれから一分後、変針が完了して間もなくのことである。

『目標は左三〇度、一海里にあり。針路は方位二八九のまま』

 だがそれから二分も経たないうちに、敵の動きには変化が生じた。

『目標、左舷へ変針。現在針路一三三』

「忙しいことね」

 ホレイシアはうめくように呟くと、シモンズ大尉へ言った。

「ジェシー、少し離れて様子を見るわ。面舵、針路二〇三」

「分かりました」

 ホレイシアの命令により、〈リヴィングストン〉はその船首の向きをわずかに右へ逸らしていった。敵を再発見してから六分ほどしか経っていないが、早くも変針は二度目である。船団本隊の姿は後方に移っていた。

 ホレイシアは隊内電話の受話器を手に取り、対潜長であるフレデリカ・パークス大尉に連絡した。敵の動きが予測できないため、先ほどのような操艦の移譲は行わないと伝えている。攻撃のタイミングも彼女自身が判断するので、それまで準備しつつ待機するようにとも併せて命じていた。

 後方から爆発音がわずかに聞こえたのは、彼女が受話器を戻した時である。

「〈ローレンス〉より入電。〈レスリー〉が敵潜水艦への攻撃を開始したとのことです」

 電話員の知らせを聞いたリチャードは、さっと視線を下げて腕時計を見る。新手の接近が報じられてから、間もなく二〇分が経過しようとしていた。船団本隊の守りを固めるためにも、いま目の前にいる敵を手早く片付けなければならない。

 彼がそんなことを考えていると、またもソナー室からの情報に変化が生じた。

『目標、再び左舷へ変針中の模様』

「針路そのまま。もう少し、様子を見てみましょう」

 ホレイシアはシモンズ大尉にそう言うと、正面に目を向けて大海原をじっと見つめだした。

『目標は左三〇度、距離七四〇メートルにあり。方位一三四へ向かう』

 ソナー室から、敵の針路に関する情報がもたらされた。彼我の距離が半海里をきったため、用いる単位が海里からメートルに変更されている。情報は、敵艦が南東に針路をとった――つまり船団の進行方向と反対に進みはじめたことを伝えていた。

 リチャードは上官に尋ねた。

「艦長、どうされますか?」

 副長の問いかけに、ホレイシアは答えなかった。おそらく接近して攻撃するか、あるいはこのまま傍観して遠ざかるのを待つかと決めかねているのだろう。

 彼女は一分ほど考え込んだ後、それまで正面に向けていた視線をそらしてシモンズ大尉に尋ねた。

「ジェシー、目標と接触を図った場合の最短針路は?」

「少しお待ちください」シモンズ大尉は海図に目をやって答えた。「取り舵、針路〇九七で四分半です」

 航海長の返答を聞くと、ホレイシアは頷いた。

「ただちに変針してちょうだい」

「了解しました」

 シモンズ大尉はそう答えた後、ホレイシアは彼女が航海士に指示を出す様子を一瞥し、無言のまま正面に視線を向けた。〈リヴィングストン〉が針路の修正を終えてからも、彼女は大海原を見つめながらソナー室からの知らせを待つ。

 だが、コックス兵曹がもたらした知らせは彼女の期待を裏切るものであった。

『目標、見失いました。周囲に反応なし』

「……やられたわね」

 報告を聞いたホレイシアは、目じりをわずかに吊り上げながらそう小さく呟いた。後ろに控えるリチャードも、無言ではあるが溜息をついている。ソナーで見つけられないのならば、敵艦は探知圏外である艦の後方へ抜けていったに違いない。要するに取り逃がしたのだ。おそらく〈リヴィングストン〉が舵をきったその瞬間に、隙をついて反転したのであろう。

 ホレイシアは右手でまぶたを抑え、白い吐息をはきだしながら深呼吸すると新たな命令をくだした。

「捜索を一時中断するよう、ソナー室に伝えてちょうだい。反転して仕切り直すわ」彼女はそう言うと、シモンズ大尉のほうを見た。「ジェシー、取り舵いっぱい」

「分かりました。針路は……方位二七〇でよろしいですか?」

 航海長が尋ね返すと、ホレイシアはやや投げやりな口調で答えた。

「それでいいわ。定針後は前進半速(九ノット)」

「前進半速、了解です」

「頼むわね」

 シモンズ大尉からの問いに、ホレイシアは頷いた。速度を原速(一二ノット)から半速に落とすのは、誤って敵艦を追い越さないようにするためである。見失ってから間もないため、敵艦はまださほど離れていないはずだ。

 それから一〇秒ほどで舵が効きはじめ、〈リヴィングストン〉はこれまでとは正反対の方向にその舳先を慌ただしくむけていった。取り舵いっぱい――つまり舵を最大限にまわしているため、変針に伴う船体の傾斜も五〇度ほどとかなりきつい。乗組員たちは手近なものに掴まるなどして、転倒しないよう注意した。

 針路変更が終わり、傾斜が回復するまでに要した時間は二分ほどであった。無論、波風に揉まれて絶えず揺れているのは変わらない。進行方向を一八〇度転換したため、船団本隊を再び正面に見ることができた。

「艦長、針路二七〇で定針。前進半速としました」

「ありがとう」

 シモンズ大尉の声にそう答えると、ホレイシアは捜索の再開を命じた。間もなくソナー室から聴音開始の連絡がはいり、艦橋要員たちは聞き耳をたてて目標発見の知らせを待つ。

 だが、その瞬間はなかなか訪れない。

 一分、二分と時間だけが過ぎていくが、吉報をもたらすはずの放送用スピーカーは沈黙を保つばかりであった。将兵たちの表情が、時と共にだんだんと暗くなっていく。

 リチャードはそんな部下たちの様子を横目で眺めていると、ふと思い立って目の前の座席に腰かける上官のほうを見た。だがホレイシアは彼に背を向けているため、その顔色を窺うことは出来なかった。

「見つけました!」

 突如として響き渡った声に、みながハッとしたのはその時であった。


 興奮気味な声で発せられた知らせは、雑音まじりのスピーカーから聞こえたものではなかった。声の主は艦橋左舷に配置されている二人の見張員――その片方である。

 報告があまりに簡潔すぎたことに気付いたのだろう。周囲の視線が集まる中で、見張員は最初よりもやや落ち着いた口調で詳細を伝えた。

「潜望鏡らしきものを視認しました。二時方向、距離は一海里未満です。既に海中へ没した模様」

「確かなのね?」

 一報を聞くとすぐに立ち上がっていたホレイシアは、足早に見張員へ近づくと彼女に尋ねた。

「間違いないです。海面から、少なくとも三メートルは伸びていました」

 艦長からの問いかけに、見張員は自信ありげに答えた。敵艦は短時間のあいだに何度も変針したため、航法ミスを犯していないか確認すべく潜望鏡で周囲の状況を確認のだろう。

「よくやったわ、ありがとう」

 ホレイシアはそう言うと、振り返って座席に戻りながらシモンズ大尉に命じた。その瞳には光が宿っている。

「針路を右に寄せるわ。面舵三〇度、針路三〇〇」

「面舵三〇度、針路三〇〇。了解しました」

 シモンズ大尉が頷いたのを確認すると、ホレイシアは座席に腰かけて今度は電話員に指示を出した。

「ソナー室へ二時方向、方位三三〇付近を重点的に捜索するよう伝えてちょうだい」

「分かりました」

 〈リヴィングストン〉はその間に、少しずつ右舷側に針路をずらしていった。変針が完了すると、すぐさま捜索が再開される。事前に方位をしていたこともあり、聴音ではなく探針音が発振されてスピーカーからその音が流れてきた。その成果は、捜索開始から一分もせずにあらわれる。

『目標を捉えました。本艦から右三三度、半海里、深度は六〇メートル』

「針路そのまま、前進原速」

「前進原速とします」

 増速がはじまったことを確認すると、ホレイシアは艦内電話の受話器に手を伸ばした。ソナー室のパークス大尉へ、攻撃命令を出すまで待機するよう伝えている。

 しばらくすると、スピーカーから続報が流れてきた。

『目標は方位三〇六へ進みつつあり、速力七ノット』

 コックス兵曹の声が聞こえると、ホレイシアは再び立ち上がった。すぐ傍にある海図台へ歩み寄り、そこに記された航路情報を食い入るように見つめる。船団本隊に随伴している〈ローレンス〉から新手を発見したとの情報が入った時も、ただ頷くだけであった。隣に立つシモンズ大尉は、ソナー室から情報が届くたびにそれを海図上に書き込んでいる。

『目標は右七〇度、距離四五〇メートルにあり』

 ホレイシアが海図を凝視する間にも、敵艦の位置情報は絶えずもたらされた。彼女は顔を上げ、シモンズ大尉のほうを見る。

「ジェシー、更に寄せるわ。面舵四〇度、針路三四〇」

「了解です」

 〈リヴィングストン〉はまたも舵をきり、敵艦が所在するであろう方角へと徐々に近づいていった。そしてソナー室からの一方が艦橋に響く。

『目標は右一七度、距離四〇〇メートルにあり。速力七ノットのまま』

 報告を聞いたホレイシアはただ頷き、視線は相変わらず海図のほうへ向けられている。ただし、ソナー室がこの時もたらした情報はこれだけではなかった。

『目標は右二〇度、方位三二六へ変針しつつある模様』

「艦長……」

 放送を耳にして不安に駆られたのだろう。シモンズ大尉がホレイシアに話しかけてきた。

「また、逃げられてしまうのでしょうか?」

「大丈夫よ」ホレイシアは航海長のほうを見て断言した。「二度目はない。きっと、いえ絶対、ここで片付けてみせるわ」

 彼女は自信に満ちた声でそう言うと、様子見のため現針路をしばらく維持するようシモンズ大尉に命じた。

 それから〈リヴィングストン〉は敵艦に対し、左舷後方から斜めに接近していった。それから一分が過ぎた頃には、彼我の距離は一五〇メートル――船舶にとって至近といっていいほどにまで縮まっている。速度差を考慮したとしても、接触までの時間はさほど残されていない。

 だが、敵はまだ諦めてはいないようだ。

『目標、左舷方向へ急速に変針しつつあり』

「同じ手は喰らわないわ」

 ホレイシアはそう呟くと、シモンズ大尉に言った。

「こちらが誘いに乗ったように見せかけるわ。いったん左舷に舵をきって、しばらくしたら元の針路に戻してちょうだい」

「分かりました、やってみます」

 シモンズ大尉が頷いた後、ホレイシアは笑みを浮かべて命じた。

「行くわよ、取り舵一〇度」

「取り舵一〇度、了解」

 〈リヴィングストン〉がその舳先をわずかに左へ逸らす間に、ホレイシアは海図台から離れて座席に戻っていった。腰を下ろした後は、電話員にも指示をだしていく。

「ソナー室に、もう一度変針するからそのあと左舷前方を捜索するよう伝えて。攻撃の指示は、さっき言ったように私が直接だすわ」

「了解です」

 電話員が了承するのと入れ替わりに、シモンズ大尉が報告する。「定針しました。現在針路三三〇です」

「ありがとう」

 ホレイシアはシモンズ大尉にそう答えると、ひと呼吸おいて再び命じた。

「……面舵一〇度」

「面舵一〇度、了解しました」

 〈リヴィングストン〉が針路を元に戻すのに、さほど長い時間はかからなかった。間もなくソナー室からも、指定方向を捜索する旨が伝わってくる。目標発見の知らせも、かなり早く届けられた。

『目標は左六〇度、距離三〇〇メートル、深度七〇メートルにあり。さらに潜航中の模様』

「対潜長に伝達。爆雷は調定深度九〇メートル」

「対潜長、了解しました」

「ジェシー、取り舵いっぱい、針路を左舷四五度へ。仕掛けるわよ」

「取り舵いっぱーい!」

 〈リヴィングストン〉は航海長の号令一下、大きく船体を傾けながら敵艦のほうへ向かっていった。間もなく爆雷の調整が完了したとの連絡が入り、ホレイシアは自ら受話器を持って攻撃に備えてソナーを停止するよう命令する。

 変針を終えて艦が直進しはじめた後も、ホレイシアは受話器を手にしたままであった。しばらく正面の海を見つめ、そしてついに号令をかける。

「攻撃開始! 攻撃開始!」

 命令は対潜長であるパークス大尉を通して爆雷班に届くため、実際に攻撃が始まるまでに僅かなタイムラグがあった。一〇秒ほどして投射機からと思しき、コルク栓を抜くような小さな爆発音が艦尾から聞こえてくる。

 爆雷が起爆を開始したのは、それから約三〇秒後のことであった。


 最初の時と同様に、攻撃を終えた〈リヴィングストン〉はしばらくして舵をきった。

「艦長、回頭終わりました」

 シモンズ大尉がそう報告すると、ホレイシアは戦果確認のため減速するよう彼女に伝えた。併せてソナーの再始動も命じ、減速を終えるとすぐさま捜索が開始される。見張員たちをはじめ乗組員も、洋上になんらかの兆候がないか目を皿にして探し回った。

 最初に報告の声をあげたのは、艦橋右舷についている見張員であった。

「一時方向、二〇〇メートルに油らしきものが見えます」

 一報を耳にすると、リチャードは双眼鏡を構えた。ホレイシアも立ち上がってそれに続く。

 彼らの視界に入ったのは、洋上に浮かぶ緑色の液体であった。おおむね一〇メートル四方の範囲に広がって、海水に溶けることなく漂い続けている。

「軽油ですね、間違いありません」

 リチャードは双眼鏡を覗いたままの姿勢で、ホレイシアにそう言った。軽油は潜水艦の主機関である、ディーゼルエンジンの燃料だ。損傷によって裂け目の生じた船体から、漏れ出たのだろう。

 ホレイシアがそれを聞いて頷くと、ソナー室からも報告が届いた。

『本艦正面に異常音あり。敵艦の圧潰音と思われます』

 ホレイシアは受話器をとり、ソナー室に連絡した。

「艦長よ、コックス兵曹に代わってちょうだい」

 彼女はコックス兵曹と二言三言やりとりした後、しばらく無言で受話器に耳を傾けた。どうやら、ソナーが拾った音を聞いているらしい。

「ありがとう、もういいわ。……その必要はないわ、周囲の捜索を続けてちょうだい。以上よ」

 ホレイシアはそう言って通話を終えると、振り返ってリチャードのほうを見た。戦闘で一気に疲れが溜まったのか、その目は赤く充血している。

「他のみんなに、これは聞かせられないわね」

 ホレイシアは哀しげな表情で、微笑みながらそう小さく呟いた。

 ソナーが捉えたのは、沈みゆく敵艦が深深度の高い水圧によって押し潰される音であった。潜水艦の撃沈を示すもっとも明確な証拠だが、それ自体は耳にして気持ちのいいものではない。金属製の船体がミリシ、グシャリと鈍い音を響かせて、乗組員もろとも圧縮されているのだから当然だ。文字通り不協和音の塊である。

 ホレイシアはリチャードの反応を待つことなく、再び受話器を手に取った。今度は艦内放送の回線につなぐ。

「こちらは艦長よ」

 彼女はひと呼吸おいてから、艦内の部下たちに呼びかけた。先ほどとは打って変わり、その声と表情はひどく明るいものとなっている。

「たった今、敵艦撃沈を確認したとソナー室から連絡があったわ。全員が一致団結したからこそ得られた、私たちにとって初めての戦果よ。本当によくやったわ。まだ戦闘は続くけれど、これかもよろしく頼むわね」

 放送が流れると、艦内では喜びと安堵の声があちこちから発せられた。乗組員たちは肩の力を抜きながら、ある者は頬を緩ませて大きく息を吐き、またある者は近くにいる同僚たちと視線を交わしあっている。それは艦橋においても同様だ。

 リチャードが腕時計に目をやると、時刻は一三二七時となっていた。迎撃を決意したのは一二一五時のことだったから、撃沈まで一時間を要したことになる。

 ホレイシアは放送を終えると、立ち上がって艦橋要員たちに言った。

「さあ、まだ喜びに浸るのは早いわよ。見張員、〈レックス〉と〈ゲール〉の位置は?」

「二時方向、距離四海里に確認できます」

 ホレイシアとリチャードは正面の右舷寄りに目を向けると、船団のもとへ戻る二隻の姿が小さく見えた。

「両艦へ発信。『船団合流後は右翼側の警戒に当たるべし』」

 ホレイシアは通信室宛ての指示を電話員に伝えると、次にシモンズ大尉へ命じた。

「ジェシー、面舵。船団本隊と併走して」

「分かりました」

「副長、〈ローレンス〉に左翼側の状況を問い合わせてくれるかしら」

「すぐ連絡します」

 〈リヴィングストン〉が右側に舵をきるなかで、リチャードは海図台のほうに移動した。〈ローレンス〉ほかの四隻は二隻の敵潜水艦を相手取っており、苦戦している場合はすぐにでも救援に向かう必要があるだろう。それを判断するためにも、急いで情報を集めなければならない。

 だが、受話器を手にした直後に、彼は不本意な形で情勢を把握することとなった。

「一〇時方向、船団本隊に白色信号弾二発を確認!」

 見張員のひとりが声をあげると、いくつもの視線が報告のあった方角に集中した。

 乗組員たちが目をやった時、船団からは確かに信号弾がふたつ打ち上げられていた。前方に位置する船舶から放たれたらしいそれは、報告の通り真っ白な光で輝いている。それが示す事態に、将兵たちは驚愕した。

 白色信号弾二発は、発射したフネが雷撃されたことを示す合図であった。NA一七船団は、ついに『海の狼』が放った魚雷という牙をその身に受けたのだ。

 突然のことに艦橋要員がみな呆然とする中で、リチャードはひとり冷静さを保って〈ローレンス〉と連絡をとった。一分ほどのやりとりの末に、彼は受話器を置いてホレイシアに報告する。その間に針路の修正は完了していた。

「敵艦二隻の最初に発見したほうは、〈レスリー〉と〈ガーリー〉が左翼側で押さえつけています。こちらは問題ありません」リチャードは続けた。「問題は二隻目です。こちらは〈ローレンス〉が迎撃に当たりましたが、爆雷攻撃を回避して船団へ肉薄し、急遽支援に向かった〈ゴート〉の警戒線もすり抜けて雷撃を敢行しました。その後も前進を続けており、どうやら船団の内部に潜り込むつもりのようです」

「……そう、分かったわ」

 ホレイシアは頷いたが、それ以上は何も言わなかった。いや、言えなかった、というべきかもしれない。この状況はそれだけの衝撃を、彼女に与えたのだ。

 ホレイシアはしばらく無言のまま船団のほうを見つめた後、我に返ってシモンズ大尉に命じた。

「状況を確認するわ、最大戦速で船団に近づいてちょうだい」

 全速で移動する〈リヴィングストン〉の艦橋から、ホレイシアとリチャードは船団の様子を眺めた。船団本隊とは最後尾ですら二海里、つまり三キロ以上離れているが、それでも混乱している状況を双眼鏡なしで見て取ることができる。

 既に船団内部へ敵艦が侵入しているため、これまで懸命に維持されてきた陣形は崩壊しはじめていた。船団指揮船から悲鳴のような指令が発信され、船長たちは雷撃を回避すべくてんでバラバラの方角へと舵をきっている。寸法も性能も異なる四〇隻のフネが右往左往するその光景は、まさに狼の来襲によってパニックに陥る羊の群れそのものだ。

 船団へと近づくに従って、混乱の様相はよりはっきりと確認できるようになっていった。ホレイシアは船団右翼の中ほど、そこから一海里離れた地点についた時点で減速を命じる。そしてリチャードと共に双眼鏡を構え、船団本隊の前方に視線を巡らせた。

 視界にまず入ってきたのは、商船の間をすり抜けながら走る駆逐艦〈ローレンス〉の姿であった。傍にはコルベットの〈ゴート〉もおり、敵艦を共同で捜索している。だが逃げ惑う商船のスクリュー音がソナーの性能を発揮できない状況を生んでおり、また無造作に走り回る船舶を避けなければならないため発見は困難だろう。

 両艦から少し離れた位置には雷撃を受けたフネ――四〇〇〇トンクラスの貨物船であった――も確認することが出来る。故障のためか機関が停止して洋上を漂っており、浸水によって船体の大部分が既に水中に没していた。周囲には救命ボートらしきものが三、四艘ほど浮かんでいる。

「救助船の位置は確認できるかしら」

 ホレイシアがそう尋ねると、見張員の報告がしばらくして聞こえてきた。

「七時方向に見えます。被雷したフネのほうへ向かっているようです」

 ホレイシアは安堵して思わず頬を緩ませたが、それはほんの一瞬だけであった。船団のほうで二つの水柱が立て続けに上がるのを見て、彼女はたちまち表情を硬くする。被雷したのは貨物船とタンカーのようだ。

 貨物船のほうは左舷の船首部に魚雷が命中し、爆発によって生じた破孔から続々と海水が入り込んでいった。浸水の勢いが強いのか、水柱が消えたころには早くも頭から沈み始めている。一方で浮力に余裕があるのか、タンカーは船体中央に被雷したもののしばらくは何事もなかったかのように進んでいった。

 しかしそれから一分後、タンカーは前触れもなしに大爆発を起こした。突然の轟音と目がくらむような閃光に、〈リヴィングストン〉の艦橋要員たちは思わず体をすくませる。リチャードはその数少ない例外だったが、それでも眩しさから顔を手で覆わざるを得なかった。

 爆発音が収まった後に彼が視線を向けたとき、タンカーは波間を漂う太陽と化していた。積荷である石油を燃料にして真っ黒な煤と煙を噴き出しながら、オレンジ色の炎に包まれている。洋上に漏れ出た油にも続々と引火しているため、タンカーとその周囲は文字通り火の海となっていた。

 その様子を女性乗組員たちは、ぼんやりとした表情で見つめていた。

「お前たち!」

 リチャードは放心状態に陥った部下たちを一喝した。

「戦闘はまだ続いている、ボーっとしている暇なんて無いぞ」

 彼女たちは口々に謝罪の言葉を口にして、あるいは無言のまま姿勢を正す。部下たちと同じく燃え盛るタンカーに魅入られていたホレイシアは、疲れ切った顔で「すまないわね」と彼に小さく言った。


 左舷見張員の悲鳴に近い声が響き渡ったのは、その時である。

「八時方向に雷跡らしきもの、急速接近中!」

「えっ?」

 突然の知らせにキョトンとしている上官をよそに、リチャードはすかさず駆け出した。見張員のもとに辿り着くと、胸元の双眼鏡を手にして艦の後方に向ける。ホレイシアも、遅れてそれに続いた。

 リチャードは荒れ狂う海をしばらく凝視し、はげしく上下する波の間に一筋の白線――魚雷の航跡がこちらに向かって伸びているのを確認した。商船のどれかを狙って放たれた流れ弾かなにかだろう。目視した限りでは、〈リヴィングストン〉から半海里ほどしか離れていない。

 魚雷の走行スピードは最低でも三五ノット前後で、大雑把にいえば一時間あたり三〇海里以上の距離を進むことができる。こちらに辿り着くのは、遅くてもせいぜい一分後だろう。隣に立つホレイシアも、その事実に気付いたのか目を見開いている。

 リチャードは意を決すると、振り返って大声で言った。

「回避するぞ。面舵いっぱい、右舷機逆進全速!」

 艦長ではなく副長が指示を出したため、その場の将兵たちは戸惑いを見せた。それを目にしたリチャードは再び叫ぶ。

「航海長、急げ!」

「は、はい」

 シモンズ大尉は飛び上がるように応じると、航海士に指示をだした。

「面舵いっぱい、右舷機逆進全速」

「ヨーソロー。面舵いっぱい、右舷機逆進ぜんそーく!」

 航海士が伝声管を通じて命令を伝えると、操舵室では操舵手がすぐさま舵輪をまわした。同時に速度指示器も操作して、機関室にも所定の指示を伝達する。

 針路変更は、あまりにも急激なものとなった。舵をきるだけでなく。機関も左右二基のうち右舷の一基を逆回転させて転舵の補助としたためである。自動車レースにおけるドリフト走行のごとく、洋上を横滑りしながら〈リヴィングストン〉は進んでいく。

「……っ。雷跡を見逃さないでちょうだい」

 ようやく判断力を取り戻したホレイシアがそう言ったが、さして必要な指示ではなかった。艦橋要員たちの視線は、既に海上に伸びる白線のほうへ向けられている。自らの喉元に突き付けられた刃を、彼女たちは恐怖に駆られた瞳でじっと見つめていた。

「雷跡は左舷四時方向、距離六〇〇メートル」

「あて舵一〇、両舷機前進全速」

 リチャードは見張員の報告を耳にするや、航海長へそう命じた。それまで左舷側に傾いていた船体が、今度は逆に右舷のほうへ傾斜の向きを変化させる。バランスの急変に対応できず、水兵が何人か転倒した。

 五秒ほど経ってからリチャードは「舵中央」と指示し、艦の針路を固定した。副長の操艦指揮により、〈リヴィングストン〉は迫りくる雷跡に対してほぼ平行な針路をとることになった。これで魚雷に面しているのは艦尾の限られた部分のみとなり、命中する確率はかなり小さくなる。だが、まったくのゼロになったわけではない。

 リチャードはホレイシアを置いて左舷側に走り、そこから海面に目を向けた。雷跡は双眼鏡を用いなくとも見える距離にまで近づいており、彼は思わず息を止める。

 水中を疾走する魚雷はリチャードが見つめているなか、〈リヴィングストン〉の左舷一〇メートルほどの位置で艦を追い抜いた。そのまま走り去っていき、後には白い航跡が残されたのみである。

 航跡が荒波にのまれて消えていくのを確認したリチャードは、危機を乗り越えたことを実感して深い溜息をついた。しばらくして、艦橋がわずかに騒がしくなったことに気づく。

 その原因を求めて彼が視線を巡らせると、近くで配置についている信号員が両膝をついてうずくまっているのが見えた。電話員を務める女性水兵が、彼女の隣にいてなにやら背中をさすっている。

 信号員は俯いたまま、両肩を震わせて嗚咽を漏らしていた。足元には固形物混じりの、白い液体がぶちまけられている。雷跡が迫るなかで極度の緊張と恐怖に包まれ、それに耐えきれずに嘔吐したのであった。

「航海長、交代要員を手配して彼女を医務室に。あと、モップとバケツも用意してくれ」

 リチャードはシモンズ大尉にそう言うと、右舷側で呆然としているホレイシアのもとに歩いていった。

「艦長、勝手なことをしてしまって申し訳ありません」

「いえ、むしろ助かったわ。ありがとう」

 副長の謝罪に対し、ホレイシアは恥じ入るような表情でそう答えた。

「肝心な時に命令を出せないなんて、艦長失格ね」

 ホレイシアは自嘲気味に言い放った。壁にもたれかかった彼女の息は、ひどく荒いものとなっている。

「自分も、昔は似たようなものでしたよ」

 リチャードは小さな声で言った。「最初からベテランのように振る舞える人間は、中々いるものではありません。時間をかけて経験を積み、そこから様々なことを学んで成長していけばいいのです。今は、目の前の任務にまず集中してください」

「……確かにそうね、その通りだわ」

 ホレイシアはそう言ってほほ笑むと、壁から離れて座席のほうへと戻っていった。

「なら、経験を積むためにもぼんやりしていられないわ。〈レックス〉と〈ゲール〉は来ているかしら」

「右舷見張員、見えるか?」

 リチャードが尋ねると、放心していた見張員は慌てて双眼鏡を覗きこんだ。

「四時方向、二海里の位置に確認できます」

「どうされますか?」

 副長の質問にホレイシアは答えた。

「予定通り、船団右翼は彼女たちに任せるわ。私たちは本来の配置である船団前方に戻って、正面を警戒するわよ」

「〈ローレンス〉の援護はよろしいのですね?」

「残念だけど、頭数が増えてもかえって混乱するだけよ」ホレイシアは首を横に振って続けた。「むしろ、新手の来襲に備えて待機しておくべきじゃないかしら」

「自分も、それが現状では適当だと思います」

 副長がそう言うと、ホレイシアは頷いて座席に腰かけた。〈レックス〉へ指令を発するよう通信室に伝えさせると、続けて〈ローレンス〉の艦長と話をすべく隊内電話の受話器をとる。一三五〇時のことであった。


 船団内部に侵入した帝国軍の潜水艦は、〈ローレンス〉と〈ゴート〉の追跡もあってそれ以上の攻撃を行わなかった。それから三〇分ほどの間に左舷側の両艦とともに姿を消し、ホレイシアは第一〇一戦隊の各艦へ戦闘の終了を通達する。

 この攻撃によって被害を受けた三隻のフネは、最終的にすべて放棄された。二隻の貨物船は浸水を阻むことが叶わず、タンカーは火災の激しさから復旧作業の試みすらなされていない。救難船や他の船舶が乗組員を収容した後、船団は沈みゆくフネを置き去りにして進んでいく。

 NA一七船団と第一〇一護衛戦隊の受難の時は、まだ始まったばかりであった。

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