爆雷戦、用意    同日 一二三三時

 目標発見の知らせは、艦橋要員たちの間にも無言のざわめきをもたらした。影響を受けていないのは例によって、ホレイシアとリチャードだけである。

 座席に腰かけるホレイシアは、報告を聞いてもただ頷くだけであった。その後は何事もなかったかのように、顔面に浴びた波しぶきをコートの裾で拭いだす。それが終わるころに、電話員のひとり続報をもたらすべく声をあげた。

「ソナー室より、目標は方位二六〇へ進みつつあり。速力五ノット」

「了解」

 ホレイシアはそう答えると、正面の海原を見据えた。その瞬間、揺れ動く艦上に霧状のしぶきが降り注ぎ、水気をぬぐったばかりの彼女の顔がたちまち濡れていく。

 ホレイシアは命じた。「副長、爆雷戦用意」

「ヨーソロー。爆雷戦、よーい!」

 リチャードは上官の命令を、艦橋全体に響きわたるような大声で復唱する。それを見たシモンズ大尉が、総員配置のときと同様に警報機のボタンを押した。けたたましいベルの音が艦内で鳴りだし、シモンズ大尉が「爆雷戦用意」と乗組員たちにアナウンスした。

 警報が鳴り続けた時間は短く、せいぜい二〇秒ほどである。それが終わるとスピーカーから、探信音と目標の位置を伝えるコックス兵曹の声が断続的に流れるようになった。

「対潜長より、爆雷戦用意よし。調定深度は九〇メートル」

 警報が鳴りやんで一〇秒もしないうちに、電話員がそう知らせてきた。調定深度とは爆雷が起爆するよう設定した水深のことだ。

「手際がいいわね」部下の手早さに感心しつつホレイシアは言った。「現時刻を以て操艦指揮を対潜長へ一任、爆雷攻撃のタイミングもまかせます」

「……対潜長了解。ただちに取り舵四度、針路〇五八とします。攻撃開始まで約四分」

 電話員のひとりはわずかな間をおいて、ソナー室にいるパークス大尉からの返答を艦長に知らせた。羅針盤の前に立つ航海士からも、操舵室から針路を変更する旨の連絡が伝声管で伝えられたことが知らされる。〈リヴィングストン〉はわずかに船体を傾かせ、針路を左に寄せていった。

 対潜長にこれだけの裁量権が与えられたのは、戦闘時における意思決定と行動をスムーズにするためだ。標的である潜水艦は運動性能が高いため、いちいち艦長にお伺いを立てて動いていると取り逃がしてしまう。腕に止まった蚊を潰すときに、わざわざ周りの人に「叩いていいか」と聞くようなものだ。

「分かったわ」

 ホレイシアは満足げに答えると、ちらりと後ろを向いて副長に言った。

「どうやら、フレデリカはうまくやっているようね」

「パークス大尉は訓練の際にも、要領のいい所をたびたび見せていました」リチャードは続けた。「それに、大尉の下にはコックス兵曹がついております。おそらく彼女をサポートしてくれているでしょう。自分も、彼には何度も助けられました」

「貴方たちが来てくれたことに、改めて感謝しなくちゃいけないわね」

「ありがとうございます、艦長」

 リチャードは嬉しそうに会釈をしたが、内心の思いは複雑であった。戦闘は始まったばかりであり、〈リヴィングストン〉は目標を追跡しているのみで攻撃はこれからだ。まだ結果が出ていない段階で褒められても、素直に喜べるものではない。

 リチャードがそんなことを考えているうちに、艦は針路変更を終えて目標へとまっすぐ進んでいった。

 付け加えていえば、敵潜水艦の挙動も気がかりであった。こちらが刻一刻と接近しているにも関わらず、相手は反応をみせずにただ船団のほうへと前進している。何かしらの企みがあるのではとリチャードはいぶかしんでいるが、上官のほうは特段気に留めてはいないようだ。

(もしかすると)

 この人は内心で渦巻く不安を紛らわせるため、無意識に物事の明るい面だけを見ているのかもしれない。端的に言えば、現実逃避にはしっているのだ。艦長にとって初めての実戦であり、そういう気持ちになるのは理解できるが決してよろしい行為ではない。指揮官とはあらゆる事象を客観的に分析し、部隊を勝利に導く責任があるのだ。

 どうしたものかと、リチャードは考えを巡らせた。上官に忠告して現実を直視させるべきだろうが、その現実で精神的に追い詰められるようなことになれば元も子もない。それに目上の人間にあれこれ苦言を呈するのは、部下が見ているので憚られる。かといって、そのまま放置して彼女の判断力に問題が出るというのも看過できるものではない。

(このフネに乗っているのは実戦未経験の新人ばかりだが、副長としての俺も立場はさして変わらんな)

 どうすべきか悩んでいる自分に、リチャードは心の中で苦笑した。実戦経験はふんだんに積んではいるものの、彼が副長の任についたのはこの〈リヴィングストン〉がはじめてだ。知識の有無はともかく、実務経験は皆無なのである。

 とりあえず、敵の動きについてはひと言いっておこう。

 リチャードがそう結論づけたのは、攻撃まで残り二分半ほどの時であった。艦内放送のスピーカーが事態の急変を告げたのは、ほぼそれと同時である。

『目標、針路を変更。こちらに向かいつつあり』

 ソナー室からもたらされた突然の知らせに、艦橋にいる者はみな驚いた。ホレイシアですら、後ろを振り向いてスピーカーのほうをまじまじと見つめている。

 しばらくして、再びソナー室から報告が届いた。

『目標は速力七ノットで接近、現在深度一〇〇メートル、なお潜航中。接触までおよそ一分半』

(くそっ、そうきたか)

 リチャードは小さくうめき声を上げた。

 敵艦はおそらく、〈リヴィングストン〉にチキンゲームを挑んできたのだろう。急な変針でこちらが慌てている隙をついて可能な限りの速力で進み、攻撃される前にすり抜けていくのだ。さらに深くもぐったのは、爆雷の起爆深度を再調整する手間を強要するためである。

 羅針艦橋は瞬く間に騒然となった。多くの将兵が恐怖で顔をひきつらせ、不安を口々に呟き始めている。ホレイシアは黙りこくったままであるが、その他の士官たちは兵たちと同様で、落ち着きなく周囲を見回していた。

「静かに!」

 部下の様子に耐えきれなくなったのか、唐突にホレイシアが一喝した。彼女の表情もわずかに暗くなっているが、少なくともその口調から恐怖や不安といったものは感じられない。彼女は立ち上がり、将兵たちに対して言い放った。

「今さらここで慌てふためいても意味はないわ、出来ることをやるだけよ。それぞれの職務を果たしなさい」

 艦橋要員たちがたちまち黙りこんだのを確認すると、ホレイシアは再び席に着いた。その直後に電話員のひとりが声をあげた。

「対潜長より、調定深度を一二〇メートルに変更す。攻撃実施は一分後」

「了解、ありがとう」

 ホレイシアは固い表情のまま頷くと、リチャードに尋ねた。

「副長、大丈夫かしら?」

「この状況ではなんともいえません」上官の問いに、リチャードは正直に答えた。

 残り時間が急に半分となり、さらに爆雷の再調整も行う必要がある状況で攻撃が間に合うかは微妙なところである。乗組員の練度が決して高くないことも、判断を難しくする要因となっていた。

「今のところは、対潜科の面々を信じるしかありません。先ほど艦長が、航海長に対して言ったことと同じです」

「……確かにそうね。変なことを聞いちゃってごめんなさい」

「お気持ちは理解できます。気になさらないでください」

 済まなさそうに言う上官に、リチャードはそう答えた。

 実際に、彼も不安に駆られているのは確かだった。無事に攻撃できるか分からないし、仮にできても敵艦へダメージを与えられるのかという問題もある。そして、この段階になると自分に出来ることは何もない。実際に攻撃にむけての作業を行うのは部下の役目だし、ここで何かしらの指示を出しても彼女たちを混乱させるだけだ。

(まあ、俺も部下たちを信じてやらんとな)

 リチャードが内心でそう呟いたとき、敵艦との接触までに残された時間は二〇秒ほどであった。


 ここで、視点を別の場所に移してみる。

 〈リヴィングストン〉の艦尾に配属されている爆雷班は事前の指示に従い、敵潜水艦へ一撃を加えるべく準備を整え待機していた。既に班員たちは所定の配置につき、後は対潜長からの号令が届くのを待つばかり。初めての実戦で戦果をあげようと、彼女たちは張り切っていた。

 それだけに、目標がこちらに針路を転じたという知らせは大きな衝撃を与えた。これまで獲物として見ていた敵潜水艦の行動にみな驚き、反撃されるのではと恐怖するものも少なくない。

 しかし、だからといって逃げ出したり、あるいは任務の遂行に躊躇いを覚えたりするような者は皆無であった。

「調定深度を一二〇メートルに変更。いいわね、一二〇メートルよ!」

 対潜長から新しい命令を受け取ると、爆雷班長は大声で部下たちに指示を出した。彼女の声には焦りが感じられる。攻撃まで二分ちかい余裕があったのが突如として一分ほどに短縮され、しかも爆雷の再調整まで行わねばならないのだから当然であろう。

 班長の言葉を聞いた班員たちも、波しぶきが降り注ぐなかで素早く作業を開始した。残された時間はすでに五〇秒である。

 爆雷投射機には二名、そして投下軌条に一名の操作員が割り当てられている。彼女たちは各々の担当機材に横倒しで装填された爆雷に取りつくと、その円底の一方から飛び出た小さな突起に親指大の金具をはめ込んだ。突起は信管――つまり起爆装置の先端部である。

 操作員たちは金具がカチリと音を立てるまで押し込み、信管にしっかりと固定されたことを確かめた。その後はコルク抜きの要領で金具をゆっくりと回し、起爆深度の設定を九〇メートルから一二〇メートルに変えていく。それが終わると右手をあげて、班長に作業が終了したことを知らせた。全員が挙手したことを班長が確認するまでに、おおよそ二〇秒の時間が必要であった。

「各員配置について。発射用意!」

 班長が再び声をあげると、捜査員たちは元の場所に戻ってしゃがみこんだ。投下軌条の担当者は安全装置を解除して投下レバーに片手を添え、投射機についた水兵の片方は発射スイッチにつながるロープを手にして攻撃命令にそなえる。

 この時点で、残り時間は一五秒であった。タイミングとしてはギリギリと言っていいだろう。

「一〇秒前」

 ソナー室から連絡を受けた班付きの電話員がそう告げると、班長は右手を握りしめて高く掲げた。班員たちは緊張した面持ちで、その拳に視線を巡らせる。間もなく電話員がカウントを開始した。

「……五、四、三、二、一、ゼロ!」

 班長は握りこぶしを大きく開き、振り下ろしつつ号令をかけた。

「一番、てぇっ!」

 爆雷を放ったのは艦の最後尾にある二基の投下軌条と、四基のうち艦尾側の両舷に置かれた二基の投射機であった。まず投下軌条のレバーが下ろされ、左右のそれぞれから一発の爆雷がゴロゴロと音を立てて海中へと落ちていく。

 それが完全に没する直前に、投射機も発射を開始した。操作員がロープを力いっぱい引くことでスイッチが作動し、内蔵された火薬が爆発する。紙風船が破裂するような音が鳴り、周囲に白煙がたちこめるのと同時にドラム缶状の物体が宙を舞った。ふたつの爆雷は舷側から五〇メートルほど離れた海上へ、放物線を描きつつ飛んでいった。

「二番、てぇっ!」

 班長が再びあげた手を下ろすと、続いて攻撃の第二段階が実施される。投下軌条からもう一発ずつと、今度は艦首側の投射機から再び両舷にむけて爆雷が放たれた。これで合計八発の爆雷が、〈リヴィングストン〉の航路上に一定の間隔をあけて投げ入れられたことになる。班員たちはしばらく海上に目を向けて、起爆の瞬間を待った。

 現行の爆雷は水中抵抗を考慮したデザインになっておらず、そのため非常にゆっくりとしたペースで海の底へ沈んでいく。最初の爆発は投下から一分以上経ってからであり、その頃になると〈リヴィングストン〉は投下地点から四〇〇メートルほど離れた位置にいた。

 海中で発生することもあって、爆発音は意外に小さなものであった。だが低音で周囲に響き渡る音は腹の底を震わせるような衝撃を聞くものに感じさせる。同時にかき回された海水がある面で白い泡を湧き立たせ、ほとんど認識できないほどのわずかな時間をおいて直径一〇メートルほどの水柱が轟音と共に噴き上がってきた。

 班員たちは次々に立ち上り、徐々に消えていく水柱を食い入るような表情で凝視した。初の実戦で放った最初の一撃が、目標にどれだけの損害を与えたか彼女らは気にかけているのだ。

 

 爆発音は無論、リチャードたちがいる羅針艦橋にも届いている。爆発音がやみ、後方に見えていた水柱がすべて消えてから、すぐ電話員が知らせてきた。

「対潜長より。攻撃終了、これより再装填を実施する」

「操艦指揮を航海長へ。攻撃地点にむけて変針し、捜索を再度実施します」

 電話員の報告にホレイシアはそう答え、続いて傍にいるシモンズ大尉へ言った。

「ジェシー、面舵。すぐ元の場所に戻ってちょうだい」

「了解しました」

 応答したシモンズ大尉は目の前に広げられた海図を眺めつつ、羅針盤の前にたつ航海士に指示を出し始めた。しばらくすると、〈リヴィングストン〉は船体を傾けて変針を開始する。

 二分ほどして、シモンズ大尉が報告の声をあげた。「艦長、変針おわりました」

「御苦労さま」

 ホレイシアは労いの声をかけると今度は後ろを向き、対潜長へソナーを始動させるよう電話員に伝えさせた。

 わずかな間をおいて、ソナー室から報告が届く。水中は雑音がひどく、探知結果を確定させるのに時間がかかるとのことであった。爆発による衝撃で、周囲の海水がかき回されたのがその原因である。

「戦果確認だけで、随分と手間がかかるわね」

 ホレイシアが正面を向いて溜息をつきながら呟くと、リチャードがなだめるような口調で言った。

「対潜戦闘というのはそういうものです。何しろ、相手の姿が見えませんから」

「さしずめ、目隠しをしたまま鬼ごっこをするようなものかしら」

「その通りです。しかも、目隠しされているのは鬼役だけではありません」

 副長の言葉にたいし、ホレイシアはニコリと笑って応えた。

「つまり私たちは耳を頼りに、手さぐりで敵と戦っているわけね。はたから見たら、おそらく地味なことこの上ないわよ」

「そうかも知れませんね」リチャードは苦笑しつつ言った。

 確かに、潜水艦との戦いは見た目の華やかさに欠けていた。潜航した目標を探して洋上を走り回り、しかもソナーの性能からそのスピードは遅い。轟音と盛大な水柱をたてる爆雷攻撃は多少派手だが、既に見たごとく、そこに至るまでの手順には時間がかかる。よって連発は不可能だ。砲撃の応酬と華麗な回避運動が目につく水上艦同士の戦闘と比べた場合、見世物としてはどうしても見劣りしてしまう。

「とはいえ、我々は見物客じゃありません。この戦闘の当事者です」リチャードは続けた。「であるからには、全力でこの戦いに挑んで勝利する必要があります」

「分かっているわ、冗談よ」

 ホレイシアは笑いながらそう言ったが、表情はわずかにひきつっているように見えた。戦闘の先行きに不安を感じているに違いない。

 艦内放送をつたって、ソナー室から報告が届いたのはその時であった。

『ソナー室より。本艦正面にモーター音、数はひとつ』

「さすがに、一撃じゃ無理だったようね」

 ホレイシアは溜息をつき、他の将兵たちも落胆の表情を見せる。さほど間をおかず、に艦内放送のスピーカーから再びソナーの発する探信音が流れ出した。

「爆雷の調定深度は?」

 彼女がそう尋ねると、通話先とのやり取りを経て同じ電話員が答えた。

「引き続き一二〇メートルとのことです」

「分かったわ」

 ソナー室とのやり取りが終わるのと入れ替わりに、今度は別の――通信室とのやり取りを担当している電話員が知らせてきた。

「〈ローレンス〉より入電。『船団左翼前方に新たな敵影を一隻確認。これより迎撃す』 以上です」

「艦長、こちらにあまり時間をかけると……」

「分かってる。本隊を手薄なままにしたくないし、この場は手早く切り上げるわ」

 ホレイシアは副長の忠告に頷くと、そのまま直進するようシモンズ大尉に命じた。

 その様子を見ていたリチャードは、ふと正面に目を向けた。

〈リヴィングストン〉がその向きを反転させたため、視線のはるか先にNA一七船団の船舶群が存在するのをリチャードは確認できた。距離はおおよそ、五海里半といったところだろう。こちらから見て手前側に、船団本隊の周囲に残った護衛四隻のうち二隻――駆逐艦の〈ローレンス〉とコルベットの〈ゴート〉が見える。おそらく敵艦のいる反対側に移動するためか、〈ローレンス〉は速度を上げて船団の前方に出ようとしていた。

 どちらか一隻を応援に呼ぶべきか。リチャードは一瞬そんなことを考えたが、すぐに頭の中で否定した。船団本隊の護衛指揮をまかせているから〈ローレンス〉は外せないし、船団の護りを考えれば〈ゴート〉のほうも残すべきだろう。敵艦が他にいてもおかしくはないのだ。

 そこまで思考を巡らせると、リチャードは不意に腕時計へ目を向けた。

 時計の針は、一二四〇時を指し示していた。最初の敵艦を発見して、既に一時間半が過ぎている。そして次の相手があらわれ、〈リヴィングストン〉がその迎撃のために行動を開始してから三〇分ほど経っていた。


 詳細な情報がもたらされたのは、それから更に二分後のことであった。

『目標を捕捉。左四度、距離一・二海里、深度一二〇メートル』

「見つけたわね」ホレイシアは呟いた。「副長、接触までの時間はどの程度かしら」

「そうですね……」

 上官の質問に、リチャードは素早く計算して答えた。

「一〇分ほどになると思います」

「分かったわ」

 ホレイシアはそう答えて頷くと、シモンズ大尉のほうに目を向けて言った。

「ジェシー、このまま直進。五分後経ったらフレデリカに任せるわ」

「了解しました」

「頼むわよ」

 ホレイシアは航海長の返答に頷き返すと、艦内電話の受話器を手に取った。ソナー室にいるパークス大尉と連絡をとっているらしい。

『目標は左五度、距離一海里にあり』

 彼女が話をしている間にも、敵艦の位置情報は絶え間なく送られてきた。将兵たちは寒さと波の揺れに耐えながら、任務をこなしつつその知らせを聞いている。

『目標は左五度、距離〇・九海里にあり』

 しばらくすると、受話器を戻したホレイシアがリチャードに言った。

「フレデリカにも伝えておいたわ。目標の左後方から接近するわよ」

「了解です」

 リチャードは濡れた顔を、スカーフで再び拭いながら頷いた。対潜攻撃の際は標的の針路にたいし、斜めあるいは直角に交差するように進んで爆雷を投下するのが理想とされている。標的の針路変更などに備えて、道を塞ぐように左右の広い範囲へばら撒くためだ。

『目標は左六度、距離〇・八海里にあり』

(ん?)

 ソナー室からの報告を耳にし続けていたリチャードは、ふと疑問に感じ腕時計に目をやる。最初に情報がもたらされてから、経過した時間は二分ほどであった。

(おかしい、早すぎるぞ)

 彼がそう思ったのも無理はなかった。接触まで一〇分かかると予想していたのが、わずか二分で三分の二ほどにまで距離が縮まっている。敵艦も移動しているはずであるため、これだけ早く接近することに成功するのは妙であった。

 リチャードはその原因についてひとつの仮説を立てたが、それを上官に告げる前に新たな報告が艦橋に響き渡った。

『目標の反応消失、見失いました。周囲を捜索します』

 ソナー室からの知らせを聞いた将兵たちは、スピーカーのほうに一瞬だけ視線を向けた。仕事の手を休める者はいなかったが、その表情には再び不安感がにじみ出ているようにリチャードは感じられる。彼の目の前にいるホレイシアも、報告を耳にした瞬間に肩をぴくりと震わせていたようだ。

「艦長、まず左舷側を捜索させてください」

「分かったわ」

 ホレイシアはそう答えて電話員に指示をだすと、悔しそうな表情でリチャードに尋ねる。「……もしかして、私たちが追っていたのはダミーだったのかしら?」

「その可能性が高い、と言わざるを得ませんね」リチャードは溜息をつきつつ応じた。

 ホレイシアが言ったダミーとは、潜水艦がソナー探知から逃れるべく使用している装備の通称だ。化学反応によって水中に泡の塊を発生させる物体で、音波を反射するためソナー手が潜水艦と誤認することが期待できる。〈リヴィングストン〉はこれによって見事に騙されたわけだ。

「けれど、モーター音は聴音で確認できていたわよね。それで何故ダミーのほうに引っかかったのかしら」

「聴音による方位測定は、かなり大雑把なものです。おそらく探知した時点では、目標とダミーの位置が近かったのでしょう。そして探信音を放ったときに、ダミーのほうを捉えてしまったわけです」

「つまり運が悪かった、ということ?」

「有り体に言えば、そうなります」

「まいったわね」

 今度はホレイシアのほうが溜息をつき、彼女は再び質問した。

「左舷を捜索する理由は? 右舷側に進む可能性はないのかしら?」

「そちらに向かうと、〈ローレンス〉の針路上に出てしまいます。追手がもう一隻増えるのを避けるためにも、目標は左に舵をきるでしょう」

「なるほどね」

 ホレイシアがそう言って頷いていると、通信室との連絡を担当する電話員が知らせてきた。

「〈レックス〉より入電。 『追撃中の敵艦を攻撃するも撃沈に至らず。現在位置不明につき捜索中』 以上です」

「見張員、〈レックス〉と〈ゲール〉は視認できるかしら?」

 ホレイシアがそう尋ねると、左舷側の見張員が双眼鏡を構えたままの姿勢で答えた。

「七時方向に〈レックス〉が見えます。距離はおおよそ八海里」

 部下の報告を聞いたホレイシアは頷き、電話員へ〈レックス〉に追撃を中止し、ただちに船団本隊と合流するよう伝えさせた。離れた場所で戦わせるよりも、いまは船団を援護させたほうがいいと判断したのであった。

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