第10話
「今日はそら耳が酷い……」
要は身を起こして台所に、米子を探しに行ったが米子は居なかった。
旧家の邸宅だから、広い台所は独立型になっている。
要は台所を出ると、あの海棠の襖絵をまた見たくなって、あの部屋に向かった。
「あの方はやはり
またまたそら耳が聞こえる。
誰も居ない筈の部屋から……。
要は障子越しに聞き耳を立てた。
そら耳なのに可笑しいが、はっきりしっかり聞こえるのが、要のそら耳だ。
それで、意外と怪我をしなくて済んでいたりもする、それはとてもありがたいそら耳なのだ。
忘れもしないのが小学校の卒業前だった、買い物の帰りに相変わらずボーと歩いていると、後ろではっきりそれは凄くはっきり
「要」
と呼ばれて振り返った。
振り返ったその後ろを車が走り去った。
横断歩道の手前だったが、信号が変わる前に車が走って行ったのだが、歩道のギリギリの所で、あのまま一歩前で立っていたら危なかった。
そんな事はいっぱいあるが、とにかく気にしないから、誰かに護られているとか、ありがたや……なんて事すら考えない、それは幸せな性格だ。
「どなた?」
「???」
「誰か居るの?」
要は困惑した。
さすがに今までそら耳に、疑問形で問われた事がない。
いや……あったかもしれない。
あったとしたら、どうしていたろうか?
……そう言えば、小学校の時に〝そら耳〟が流行った時に〝答えてはいけない〟と同級生が騒いでいたのが、脳裏の片隅に残っているので、返事をした事がない。
……そうだそうだ……
要はそう思い出して、障子を開けないで立ち去ろうとした。
「あなた?」
中の女性は、先程とは声音を変えて言った。
そして障子を開けようとして、手を止めた様に見えた。
「あの方の所にお行きになりたいなら、どうかそうなさってくださいませ。貴方がどうしても欲しいと仰る称号の為でしたら、
女性はそう言って、部屋の奥に行って泣いているようだった。
要は慌てて障子を開けた。
海棠の花が悲しげに、ひらひらと散っている……。
だけどそこには誰も居ない……誰も居ないが、四枚の襖絵の前の青畳にポツリポツリとシミた跡がある。
要は膝を折ってそのシミに指を持って行くと、シミは微かに濡れていた。
指に残る微かだが濡れた感触は、さすがの要をも切なくした。
応接間に戻って来ると、ソファーに腰掛けてジッと指を見つめ続けた。
「要君、要君……」
要は先生の声で我に返った……否、寝ていたのか……?
座ったまま要は目を閉じていた。
「あーすみません……考え事をしていたら、寝ちゃったのかなぁ?」
そう言いながら指を見る。
不思議なくらいはっきりしっかりと、濡れた畳の感覚が残っている。
「今日はもう帰っていいよ」
「えっ?」
「僕はこれから海堂君に、教えて……違う違う……艶子さんが愛していた様に、話しを進めるからね……だから、君は帰りたまえ。それを言うのに君を起こしたんだ。ほら、夢中になっちゃうと忘れちゃうからさぁ……ここは遅くなったら、意外と危険だから泊まってもらう様になるよぉ?」
「えっ?泊まりですか?」
「うんうん」
先生はそれはそれで嬉しそうに頷く。
「……では、お言葉に甘えて帰らせて頂きます」
要が早速身支度をして立ち上がった。
「また明日ねぇ」
先生は年の割に可愛く、手を振って言った。
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