36回目:根石和平<知られざる英雄>

 聖女と呼ばれる少女の瞳には巨大な魔物の姿が映し出されていた。五十メートルを超える巨体は、しかし、腹部から下が大地に埋もれた状態であり、その場から動くことはできそうにない。だが、それも時間の問題だ。


「封印が完全に解けてしまえば、もう誰にも、あれを止めることはできないかもしれない。けれど、きっと、あの方なら……」


 少女は両手を魔物へと向け、聖女のみが持つ聖なる力を使って、魔物の動きを抑えつけていた。もし、少女がいなければ、すでに魔物は封印から解放されていたことだろう。だが、数時間にも及ぶ力の行使は、少女の体力が限界に達するのに十分な時間だった。


 魔物の顔は静かに少女へと向けられ、単眼の視線が少女を捉え続けている。自身を縛り付ける力を発する少女を殺すことができる瞬間を、ただ待ち続けているのだ。


 そしてついに、その瞬間が訪れる。聖なる力が途切れた一瞬を見逃さなかった魔物の単眼が輝き、魔力を収束させた一条の光が少女へと放たれた。


「聖女様を御守りしろ!!」


 少女の周りに控えていた魔術士たちが幾重にも重なった魔術防壁を展開するが、魔物の放った攻撃は、薄く脆いガラスを割るように魔術防壁を粉砕し、少女へと襲いかかった。


「……っ!!」


 自身へと迫る死の気配に歯を食いしばりながらも、少女の目は決して閉じられることはなかった。少女は信じているのだ。彼を、この世界の救世主たる勇者の到着を。


 ――甲高い音が響き渡り、少女に迫った光が上空へと弾かれる。少女の目に映る彼の後ろ姿が、涙で歪む。


「……勇者様!」


 手に携えた純白の剣が柔らかく、そして、力強く輝いている。それは、女神の祝福によって創りだされた、すべての魔を滅することのできる聖なる剣。


「遅くなってすまない。だが、……あとは、まかせろ!」


「はい……!」


 少女の声に背中を押されるように、巨大な魔物に向かって地を駆ける。魔力を収束させた光が咆哮とともに次々と放たれるが、そのすべてが聖剣の一振りで消滅した。


 大地を力強く蹴り上げ、魔物を眼下に見下ろせる程に高く、跳躍する。続けて、聖剣を振りかぶり、魔物の単眼へと振り下ろした。魔物の全身が震え、絶叫が周囲に轟く。


「――今です、勇者様っ!!」


 大地に跪き、少女は胸の前で両手を重ね合わせると、静かに目を閉じて祈りを捧げ始めた。少女の全身が淡い光で覆われ、また同時に、魔物に聖剣を突き立てた勇者の体も、少女と同じ光で包まれる。


「――おぉぉぉっ!!」


 聖剣の力と聖女の祈りが、魔物の全身を貫く。あふれ出る眩い光が世界を覆い尽くした。


 しばらくして光は収まり、静寂が訪れる。声を発する者はなく、動く者もいなかった。誰もが固唾を呑んで見守っていた。


 透き通った高い音が響き渡る。それは何かが――聖剣の刀身が折れた音だった。そう、もはや聖剣は必要ない。聖剣は、その役目を全うしたのだ。


 魔物の全身が音もなく崩れ始めた。今、世界に平和が訪れたのだ。そして同時に、私が女神の祝福を授けた異世界転生者が命を落とした瞬間でもあった。


 根石ねいし和平かずひら――彼は異世界転生直後に目の前にあった剣を抜いてしまった。その剣が、魔物を封じるための結界の一部であることを知らずに。結果、和平かずひらは結界に取り込まれて魔物の一部となったのである。


 だが、和平かずひらのやったことは、結果的には世界を救う一助となったはずだ。魔物に取り込まれた女神の祝福が、内側から魔物の力を抑え込んでいたのだから。


 誰にも知られることのない一人の英雄が、確かに、ここにいた。


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