14回目:佐ノ原悠夏<生命の水>

 大海原が一面に広がっていた。いや、正確に言えば、それは海ではない。高度9000メートルから彼女――佐ノ原さのはら悠夏はるかが望む景色は、どこまでも続く雲海だった。


 大空に浮かぶ12の大陸、それがこの世界のすべてであり、雲の下に陸地は存在しない。その世界における、高度7800メートルに浮かぶ第六番目の大陸はフリューゲルという名で呼ばれ、そこにそびえ立つ大陸で最も高い塔の頂上で、悠夏はるかは今までに見たこともない壮大で幻想的な光景に見入っていた。


 彼女は普通の女子高生だった。ある日の放課後、青信号で横断歩道を渡っていた小さな女の子が信号無視の四輪車にかれそうになっていたところを、偶然居合わせた悠夏はるかが、その身を犠牲にして救った。そして、そんな彼女の新しい人生が、私の異世界転生術によって始まったのだ。

 今の悠夏はるかの身体は女神の祝福によって守られ、高度9000メートルという、普通の人間であれば生存することすら難しい場所であっても平然としていられる。


「ハルカ様」


 名前を呼ばれて振り向くと、薄く緑がかった銀色の髪を風になびかせながら、白緑びゃくろくの肌を持つ女性が立っていた。悠夏はるかに向けられた双眸そうぼうは澄んだ翠色すいしょくで、長くとがった耳が特徴的である。彼女は、彼女が暮らすフリューゲル大陸と同じ名――風と翼の妖精フリューゲルと呼ばれる種族の一人だ。


 初めて見る風と翼の妖精フリューゲルの外見に、悠夏はるかは軽い衝撃を受けていた。そして、悠夏はるかが自分の置かれた状況を理解できずに戸惑っていると、その場にひざまずいた風と翼の妖精フリューゲルが言葉を続けてきた。


「私の名はエリュシアーテ。英雄召喚の儀によって、ハルカ様をこの地に呼び……」


「ちょ、ちょっと待って」


 悠夏はるかは混乱していた。そして、何やら小声でぶつぶつと呟き始める。


「ええと……これは…………あれだから……うん…………そっか、異世界転生……?」


 どうやら状況を飲み込めたようだ。さらには、自身に流れる不思議な力を感じ取ったのであろう。試しに指先に小さな魔術の火をともしている。

 エリュシアーテは英雄召喚の儀と言っていたが、実際は、その儀式を利用して私がこの場所に悠夏はるかを異世界転生させた。まあ、そのあたりは、どうでもいいことだが……。


「あ、ごめんね。それで、なんだっけ?」


「……あ、はい。……ええとですね、今、私たちの世界は危機に見舞われています」


 悠夏はるかが先を促すと、そこからエリュシアーテの長い説明が始まった。


 つまり、この世界にある12の大陸は、各大陸に封印されている12匹の神の獣の力によって浮かんでいるが、その神獣が封印の眠りから目覚めようとしているのだ。もしそうなれば、大陸は浮遊力を失い、落下してしまう。それを防ぐために神獣を再封印してほしい、ということらしい。


「……私たちは神獣の力によって、この地で生きていくことができるのです。ですが、そのために利用され、自由を奪われているわけですから、おそらく、眠りから目覚めた神獣は怒り狂うでしょう」


「うん、状況は、……だいたいわかったかな。それで、その神獣っていうのは、どこにいるの?」


「第六の神獣、ユング・フラウは、ここにいます」


 そう言って足元を指差すエリュシアーテ。そして続ける。


「神獣はこの塔の真下、地中深くで眠りについているのです」


 塔は、英雄召喚の儀をり行うための祭壇でもあり、同時に、神獣を祭る聖域への入り口でもあった。早速二人は神獣の眠る封印のへと向かうため、塔の内側に大きく螺旋状に作られた階段を使って地下へと降りていった。


 それから半日程も歩いただろうか。悠夏はるかは一度足を止めて軽いため息をつくと、エリュシアーテに向き直って質問する。


「あとどれくらいで神獣のいる場所に着くの?」


 女神の祝福によって強化されている肉体は、さして疲労を感じているわけでもないが、代わり映えのしない景色が延々と続いている状況では、流石さすがに、精神的に疲れがたまってきたのだろう。

 悠夏はるかの言葉にエリュシアーテはキョトンとした表情で、こともなげに答える。


「三日程ですが、いかがなされました?」


「……」


 絶句する悠夏はるかだったが、なんとか平静をよそおい、言葉を返した。


「ええと、ちょっと喉が渇いたから、何か飲みたい、かな?」


 その言葉を聞いたエリュシアーテは、首をかしげて不思議そうな表情を浮かべている。


「喉が渇いた……ですか?……ええと、それは、どのような状態なのでしょうか」


 私は唖然あぜんとした。見れば、悠夏はるかも口を開いたまま唖然あぜんとしているようだ。私はまさかと思い、風と翼の妖精フリューゲルについて情報を検索してみると、案の定、彼女たちは水分補給や食事を必要としない種族であることがわかった。正確にいえば、彼女たちは風を――大気中に含まれる特殊な成分を摂取することで生命を維持しているのだ。


 それに対して、女神の祝福を受けているとはいえ悠夏はるかは普通の人間だ。そしてここは、高度7800メートルの空に浮かぶ大陸である。水を飲まずに彼女が生きていられる時間は、もって数日だろう。

 しかし、悠夏はるかは何かを思いついたようだ。


「あ、もしかしたら、魔法を使えば水を調達できるんじゃないかな?……うん、私ったら冴えてる!」


 悠夏はるかは会心の笑顔を浮かべた後、両手を前に掲げて意識を集中する。そしてゆっくりと、わずかな量の水を呼び出した。しかしその直後、爆発が起きた。小さな閃光と轟音が悠夏はるかを襲う。

 悠夏はるか咄嗟とっさに両腕で身を守ると同時に、おそらくは無意識であろうが、防御の魔術を前面に展開した。そのおかげもあって、衝撃で尻餅をついてしまったものの、怪我はないようだ。一体何が起こったのか状況を理解できないでいる悠夏はるかは、何度も目をしばたたかせた。


「ハルカ様、今のは一体……?」


 エリュシアーテは突然の出来事に茫然ぼうぜんとしつつも悠夏はるかに説明を求めるが、返答に困った悠夏はるかは、ゆっくりと首を横に振るのみだ。


 おそらくは、この世界の大気には水と反応して爆発を起こす何かが含まれているのだろう。呼び出した水が少量だったから良かったものの、そうでなければ、彼女の旅はここで終わっていたかもしれない。

 悠夏はるかも同じ結論に至ったのだろう。おもむろに立ち上がると、来た道を引き返しはじめた。


 このままではまずい。神獣の再封印よりも先に、飲み水を確保する必要がある。この世界に水は存在しないのだろうが、水でなくても、その代わりになるものであればなんでもいい。


 地上に戻った悠夏はるかは、あたりに生育している植物やきのこのようなものを手当たり次第に調べまわった。魔術を使えば簡単に毒性を調べることが可能だが、そのどれもが悠夏はるかにとって口にはできないものばかりだった。


「水もなければ食べ物もない……」


 途方に暮れる悠夏はるかは、膝を折ってへたり込んでいる。


「……こういう時は、自分のおしっこを飲んで生き延びたって話を聞いたことがあるけど」


 できれば実行したくない最後の手段だ。しかし、今の状況で悠夏はるかに残された手は、それしかない。ないのだが、それを実行するにしても問題があった。


「まったく、おしっこ出る感じがしない」


 万事休すか。またもや私は世界を救うことができなかったのだ。私はそっと目を閉じると、すべてを諦めようとした。だが、すぐさま再び目を開く。最後に私の目に映った彼女の瞳が気にかかったのだ。

 そう、悠夏はるかは諦めてなどいなかった。その瞳には強い決意が宿っている。


 絶望の底から這い上がるかのように立ち上がった悠夏はるかは、すぐ傍で心配そうに彼女のことを見ているエリュシアーテに向き直った。真っ直ぐと射抜くような双眸そうぼうが、エリュシアーテへと突き刺さる。


「ハルカ様……?」


 そして、エリュシアーテの視界から悠夏はるかの姿が消えた。彼女の立っていた場所から風が吹き付ける。視線を下にずらせば、両の手のひらとひたいを地に付けた悠夏はるかがいた。土下座である。


「お願いです、エリュシアーテさん!あなたのおしっこを飲ませてください!!」


 ……。


 世界から音が消えた。いや、あまりの衝撃に私がそう感じていただけだろう。

 エリュシアーテも私と同じような衝撃を受けていたようだが、しばらくして悠夏はるかの言葉を理解したのだろう。軽蔑した視線が悠夏はるかに向けられた。


「……ハルカ様。あなたは、何を言っているのですか。申し訳ありませんが、今の発言は、あまりにも気持ちわ……」


「待って!……話を、聞いて」


 エリュシアーテの言葉をさえぎって事情を話し始める悠夏はるかは、手振り身振りを交えて必死に訴えた。話を聞いて困惑を深めるエリュシアーテだったが、やがて表情は諦めの顔に変わっていき、そして、深いため息をついた。


「……事情はわかりました。仕方がありません」


 そう言って、エリュシアーテは腰に身につけていた衣服を脱ぎ去ると、肩幅ほどに脚を広げてわずかに腰を突き出す格好を取る。目の前に座り込んだ悠夏はるかは、両手をわんのように重ね合わせて、その時を待った。


 風が優しく頬を撫でる。静かな時間が流れた。そして、水が流れ出る。


 素早く毒性を確認した悠夏はるかは、それが清らかであることに安堵あんどのため息をついた。若干の躊躇ためらいがあるものの、両手ですくい取ったそれを一口、軽く喉に含む。その瞬間、はっとした表情を浮かべた悠夏はるかは、勢いよくゴクゴクと喉を鳴らしながらそれをむさぼり始めた。


「すごく、美味しい……。フルーティで、ほのかな甘さと爽やかな清涼感があって、香りも好きかも」


 そんな感想を口にする悠夏はるかを、まるでゴミを見るような目でさげすむエリュシアーテの息は荒く、白緑びゃくろくの肌がほのかに朱に染まっていた。

 軽蔑の視線には気が付かない悠夏はるかは、ふと、さっきまで感じていた空腹感が収まっていることに気が付いた。喉の渇きをうるおし、さらに悠夏はるかにとって十分な栄養を摂取することができる。

 これは、まさしく、生命の水と呼ぶにふさわしい。


 この世界で悠夏はるかが生きていくためには、これからも生命の水を飲む他はないだろう。しかし彼女なら、きっと世界を……そこまで考えて、私の脳裏に嫌な光景が浮かんだ。もし、彼女が世界を救ったとしたら、その功績は女神たちの知るところとなり、そして、生命の水の件も……。

 私は、自身に不名誉なふたつ名を付けられる未来を想像して、げんなりとした。飲尿女神、おしっこで世界を救った女神様、……だめだ。耐えられない。


 私の平和を守るため、今回の異世界召喚はなかったことにしよう。こうして、世界に目をそむけた私は、次の英雄候補を探す作業に戻るのであった。


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