第七章
第七章
優「塩野奈美子さん、こんにちは。」
奈美子「先生、今日は。今日もお世話様で。」
と、丁寧に座令する。少しばかり腰が曲がっている。
優「そんなご丁寧にしなくてもいいですから、友達の家に来たつもりで、どうぞ。」
奈美子「友達なんかいないよ、先生。」
突然、悲しそうな顔になる奈美子。
優「あ、ごめんなさい。」
奈美子「いや、謝るほどもないんだけどね。」
優「まあどうぞおかけください。今日はいい天気ですね。」
奈美子「先生もテレビをもっていないんだね。私も持ってないよ、最近の若い人の番組は、面白くないもの。なんか、ばかばかしく見える。夜も、面白くないものをずっと見てても仕方ないから、こうしてチクチクしているのが本当に楽しいよ。」
優「どうもありがとうございます。」
奈美子「音楽もくだらないのばっかり。昔はやってた、美しい言葉の音楽は消え去ってしまった。まあ、誰かの声がないのも、寂しいから、ずっとテレビをかけてるけどさ、奇麗でもない女優の汚い発音を聞いていても楽しくない。若いころは、保育士だったから、一生懸命徹夜して壁の飾りや、子供の指導書をずっと書いていたのに。それなのに、ある日突然、何にもできなくなっちゃってさ。やる気が起きないんだ。私、どうしたんだろうって思ったときは時すでにおそかった。」
優「そうだったんですか。それで、どうなりました?」
奈美子「もう、ただの人以下の転落。薬漬けになって、悔しいったらありゃしない。だって、他の子は一生懸命働いてるのにさ、私は、親の世話にならなきゃいけない。でも、働く気も起らないもの。毎日毎日が、万力で挟まれたようにつらい。それだけなの。だからもう、生きていても仕方ないって思って、首を吊った。気が付いたら病院のベッドの上さ。もう怒り心頭になっちゃってさ、親へ何回罵声を浴びせたかな。私を生んだ責任を取れって。そしたら、鉄格子の部屋に入れられちゃった。そこから出るのに、半年かかった。親はその間に、離婚してさ、母親は出て行って消息不明になり、父は酒に走って死んじゃった。だから私は、親二人を殺した親不孝な娘になるわけよ。だから、もう、世間には出ていきたくなくて、もう病院にずっといたいなんて言っちゃってさ。だけど、病院は、長居してはいけないところだから、このマンションと代理で契約して、私は、何回かかえって来てるんだけど、やっぱりつらいわけ。生きていると。そして、また何かあると自殺未遂して、大家さんに運んでもらって、病院との往復との繰り返し。だから、恋愛も結婚もできなくて、遂に70超えちゃったよ。今でも、なんとなくだけど、自殺したいなって思うのよ。なんか、私、なんのために生きてきたのだろうって、答えはもう、見えてるんじゃないかと思うのよね。病院側は、何でもいいから働きなさいって、言うけどさ、私もう70だし、雇ってくれるところなんてどこにもないよ。だから、もう死んだほうがいいって思うんだ。」
優「そう思っても仕方ないと思います。僕に、自殺をやめろということはできませんもの。そんな境遇であったら、そうなるかもしれませんよ、僕だって。」
奈美子「わかってくれるの?」
優「まあ、似たような経験したことあるから。ちょっとしたことで、幸せって簡単に崩れてしまうものですからね。」
奈美子「本当だよね。そして、二度と取り戻すことはできないんだ。」
優「それはどうですかね。違うと思いますよ。」
奈美子「違うって何が?答えはすでに見えてるじゃないか。」
優「取り戻すことはできないけど、作ることはできるんじゃないですか?もし寂しいのなら、犬でも飼ってみたらどうでしょう。」
奈美子「犬?いや、エサ代が、、、。」
優「でも犬はあなたがいなければ生きていけなくなりますよ。犬にエサをくれるのも、散歩させるのも、みんなあなたがやるんです。でも、それは逆を言いますと、犬は、あなたのことを、いつまでも見てくれますよ。そして、いつかは旅立つでしょうけど、あなたの中に、生きていた足跡も残してくれるでしょう。」
奈美子「でも、犬屋さんでは高いよ。私、体力ないから、ラブラドールみたいな大きなものは飼えないし、小さなトイプードルやミニチュアダックスはすごく高いし、、、。」
優「保健所に行けば安く犬をもらえるようですよ。彼らはやがて処分されますから、その前に新しい飼い主をと、職員も必死なようですよ。」
奈美子「へえ、大体いくらくらいで?」
優「確か、二、三万だったと思います。」
奈美子「そんな安い値段で犬がもらえる?」
優「はい。」
奈美子「でも、先生どうしてそんなこと知っているんですか。」
優「ああ、若いころ、取引していたんです。」
奈美子「取引って何を?」
優「まあ、それは若いころの話ですから、あまり関係ありません。とにかく、生きがいがなくつらかったら、何かペットを飼うことをお勧めします。たぶん、自殺を繰り返したのは、きっと、自分が必要とされたことがなかったからでしょうか。」
奈美子「そうか、、、。犬かあ。考えてみれば、私、肉親は誰もいないし、部屋にいてもほとんど声を出す相手もいないもんね。そうなると犬を飼うってのはいいのかもしれない。先生、そうするよ。このレッスンが終わったら私、保健所行ってみる。ダックスはいるかな。」
優「ああ、ダックス、好きなんですか?」
奈美子「まあね。かわいいし、足が短いから、そんなに歩いてもスピードは出ないだろうし、散歩もそれだから楽だろうしね。トイプードルは、あんまり好きじゃなくて、飼うとしたらダックスがいいな。」
優「わかりました。ダックスは人気のある犬ですから、きっと、手放す人も多いはずでしょうし、必ずいるんじゃないですか。」
奈美子「そうだね。なんだかワクワクしてきたよ。」
優「よかったです。じゃあ、今日は、その新しい家族にプレゼントをしましょう。今日のレッスンは、犬用の首輪です。」
奈美子「ありがとう!」
優「じゃあ、道具を出してください。」
奈美子は持ってきた道具を出す。優は、材料置き場から、一枚の革を出してくる。
優「ダックスの首は、そんなに太くありませんから、45センチくらいでいいと思います。」
奈美子「わかりました。」
と、鋏で革を切る。
優「じゃあ、周りを手縫いで縫って、かがりましょうか。こんな風に縫ってみてください。」
切った革の周りを糸で丁寧にかがっていく。
奈美子もそれをまねて縫う。
優「じゃあ、金具を付けてみましょうか。こんな風に、金具に通してください。」
奈美子「はい。」
優「そう。じゃあ反対側も。」
奈美子「はい。」
優「はい、これで出来上がりです。」
奈美子「意外に簡単にできるんだね。リードも作れる?散歩させるには、リードが必要になるからね。」
優「いいですよ。じゃあ、120センチくらいあれば足りるかな。」
と、もう一本革を切る。
奈美子「これもまず、かがるよね。」
と、縁取りを丁寧にかがっていく。
優「覚えるの早いですね。」
奈美子「そう。保育士だったから、そういうことだけは得意なの。」
優「なるほど。手先が器用ですね。」
奈美子「まあ、それだけが、とりえのようなものかな。病院で作業療法していた時もそういわれた。」
優「そうなんですか。その技術はあるわけですから、それを忘れないでほしいな。かがりができたら、また専用の金具を付けて。」
奈美子「はい。」
優「そうです、そうです、そんな風につければいい。意外に犬のリードと首輪って簡単に作れますよ。そんなに時間もかからないので、何本か作って、日ごとに変えれば、喜ぶんじゃないですか。新しい家族が。」
奈美子「そうね。じゃあ、早速行ってみようかな。」
優「はい、新しい家族を、満面に笑顔で迎えてあげてください。」
奈美子「じゃあ、先生、これ、レッスン代です。ちゃんと中に入ってますので、ご確認を。」
と、優に封筒を手渡す。
優「はい、確かに入ってますね。じゃあ、領収書書きます。」
と、丁寧な字で領収書を書いて、奈美子に手渡す。
奈美子「じゃあ、新しい家族と、新しい幸せに会いに行ってきます!」
優「はい、そして、新しい自分にもね。」
奈美子「はい!先生、ありがとう!」
優は、玄関まで送っていく。
奈美子「じゃあ、失礼します。」
と、作品をしっかり持ち、一礼して靴を履き、外へ出ていく。そして道路に出て、公衆電話を探す。近くの公園の中で見つかった。
奈美子「えーと、タクシーはこれか。」
と、急いで100円玉を入れて、電話台に貼られていた、タクシー会社に電話する。
奈美子「こんにちは、一台お願いしたいのですが。」
声「はい、分かりました。」
タクシーの中。
運転手「どちらまで?」
奈美子「ああ、保健所まで。」
運転手「保健所で何をするんです?」
奈美子「ええ、私の新しい家族を探しに。犬を飼いたいんです。」
運転手「それなら、保健所ではなく、NPOに頼んだほうがよろしいでしょう。保健所ですと、役所手続きとか、いろいろ面倒なことがありますからね。」
奈美子「どこにあるんですか、そのNPOは。」
運転手「はい、ここからだと10分くらいかな。」
奈美子「じゃあ、そこへ乗せて行って。」
運転手「わかりました。」
と、本来の目的地とは反対方向へ走っていく。
しばらく走ると、「犬、里親さん大募集」という貼り紙のしてある、小さな家にやってくる。
運転手「ここです。」
奈美子「わかりました。帰りはまた電話しますから。」
運転手「わかりました。じゃあ、こちらにお電話ください。」
奈美子「はい。」
タクシーは一旦帰っていく。
奈美子は迷わずに、呼び鈴を押す。
と、中年の女性職員が出てくる。
職員「こんにちは、何かご用ですか?」
奈美子「ええ、犬を飼いたいんです。」
職員「はい、そのような優しい方を心待ちにしている子たちがたくさんいます。どうぞお入りください。」
奈美子「はい。」
と、言われたとり、建物の中に入ってみる。中は、あちらこちらで犬の鳴き声がする。
職員「希望する犬種とかあります?」
奈美子「ええ、ダックスフンドが、、、。」
職員「ああ、今うちで預かっている、ダックスは、10匹いますけど。」
奈美子「えっ、そんなに?」
職員「ええ、人気がありすぎるんでしょうね。それにかわいいし。そうやって衝動買いで飼ってしまって、後になって捨てられることが多いそうですよ。」
奈美子「そうなんですか?」
職員「はい。まったくね。繁殖家が廃業するとか、ダックスも楽に生きられる時代ではないのかもしれませんね。じゃあこちらのお部屋にダックスが、10匹いますから、相性の良さそうな子を一匹選んで下さい。」
と、部屋のドアを開ける。小さな檻が10個並んでいて、確かにダックスフンドが一匹ずつ入っている。確かにかわいらしいし、よく吠え、健康的なのだが、奈美子は少し尻込みしてしまう。
一番奥にある檻に入っている、クリーム色の大きな丸い目をした、小さなダックスフンドが目に付く。
奈美子「この子かわいい。」
職員「この子ですか?この子はちょっと障害がありまして、あんまり長くお散歩ができないのですが、でも、その分人懐こくて、特にほかの犬にも攻撃しませんし、オスにしては珍しい子ですよ。」
奈美子「雄?」
職員「ええ。それにしてはおとなしいです。」
奈美子「かわいい、、、。」
職員「出してみますか?」
奈美子「は、はい。」
職員は檻の戸を開けて、ダックスを出す。
職員「ちょっと、後ろの足引きずりますが、他の部分では健康ですよ。狂犬病の予防もちゃんとしてありますし、ご飯もしっかり食べます。まあ、それを言ってもこういう子は、なかなか引き取り手が見つからないのが実情でしてね。きっと、生まれた時に足を損傷したのだと、獣医さんも言っていました。よろしければ、抱いてみますか?」
奈美子「はい。」
職員は奈美子に犬を手渡す。
職員「ほら、あなたのこと、ずっと見てる。きっと、好きなんじゃないですかね。」
奈美子が思わず、彼に目配せすると、彼は、彼女のしわだらけの顔をぺろりとなめた。
奈美子「まあ、かわいい、、、。」
思わず涙が出てしまう奈美子。
職員「あら、苦手ですか?」
奈美子「いえ、うれしいんです。初めて、自分以外の人に、自分を好きになってもらったような気がして、、、。」
職員「それはありがとうございます。ほかの子がどんどんもらわれていくのに、この子だけ、障害があるといっては、断られてしまうのです。」
奈美子「そうなんですか。私もその気持ちはわからないわけでもないので、この子を家族に迎えたいです。」
職員「わかりました。幸いまだ、若いので、すぐにお宅になじむと思いますよ。まだ名前もついていないみたいで、なんと呼んでも振り向かないのです。名付け親になっていただけますか?」
奈美子「えっ、どうしよう、そこまで考えていませんでした。私、子供持ったことないから、名前なんてわかりませんよ。」
職員「難しく考えなくてもいいんですよ。あなたが一番愛情をもって呼んであげられる名前を付けてあげてください。」
奈美子「雄犬ですから、新ではどうでしょう?新しい家族なので、新しいで、新。」
職員「新君ね。今日から君の名前は新君だよ。じゃあ、こちらにいらしてください。新君の里親になっていただくために、アンケートと、契約書をお願いしております。」
奈美子「わかりました。」
職員「新君も一緒にね。」
施設の外。新を抱きながら、玄関を出ていく奈美子。
奈美子「これからずっとうちの子よ。仲良くしようね。」
と、新しい家族の頭を優しく撫でてやる。彼の首には、作ったばかりの首輪がついていた。奈美子は、職員に呼んでもらったタクシーで、マンションに戻っていった。
公園。
杉三と蘭が、買い物帰りに通りかかると、おばあさんがダックスフンドを散歩させているのが見える。
杉三「あれ、あの人、優さんのお弟子さんのおばあさんじゃないか?」
蘭「ああ、本当だ。」
二人、おばあさんのもとへ近づく。
杉三「こんにちは!奈美子さんですよね。」
奈美子「まあ、杉ちゃん。どうしたの?こんなところで。」
蘭「僕たち、いつも買い物に行くとき、この公園を通っていくのです。」
杉三「犬を飼い始めたんですか?」
奈美子「そう。あの優先生のアドバイスよ。」
杉三「へえ、優さんがそんなことを言ったのか。」
蘭「でもいいんじゃないですか?犬がいてくれると、外へ出るきっかけもできるし。」
杉三「ペットショップに行ったの?」
奈美子「いいえ、この子は、NPOでもらってきたのです。」
蘭「ああ、今そういうNPOありますよね。あの、捨て犬を保護したり、飼えなくなった犬を預かって新しい人に格安で譲り渡すビジネス。」
奈美子「ええ。だから、新しい家族で、名前は新。新しいという字を書いてあらた。」
杉三「へえ、かわいいじゃないですか。新君か。よろしくね。」
蘭「でも、この子、障害があるみたいですね。右の後ろ足を引きずっている。まあ、幸い毛が長いから隠せますけど、ちょっと歩き方が痛々しく見えますよ。」
奈美子「ええ。でも、その分抱ける喜びもありますから、うれしいですよ。」
杉三「そうだね。障害も、悪いことばっかりじゃないよね。」
蘭「杉ちゃん、それは僕らも同じこと?」
杉三「それは関係ない。新君のことだから。」
蘭「本当に杉ちゃんは明るいな。」
奈美子「でもね、私、気が付いたんですけど、」
蘭「何に気が付いたんですか?」
奈美子「ええ。私ね、今まで死にたいってずっと思ってきたんです。だって、父も母も、私のせいで、離婚して、いまだに母の安否はわかっていないし、父はもうこの世の人ではなくなってしまいましたし。ほかの親族も、そうなった私を、決して暖かく迎えようとはしませんでした。私は、もう、この家にはいられない。だって私が、精神病院に入ったせいで、多くの人が悲しい思いをしたんですもの。だから、その元凶を作った私が悪いんだって。でも、私、何回も自殺を図ったけど、すべて助かっているんです。なんでだろう、なんで神様は私を許してくれないだろうと、何度も思いました。そんなこんなで、私、結局70まで生きてしまった。みんなが亡くなるのを全部見ることが、きっと私に課せられた罰だと思うんです。」
蘭「ああ、そうですね。確かに、長生きをした人で、そういう言い方をする方は、すくなくありません。グリーンマイルみたいなセリフですね。映画グリーンマイル。」
奈美子「でも、不思議なことに、こうして幸せをくれるものですね、神様は。私、この子が家に来てくれて、本当に毎日がかわりました。毎日毎日、決まった時間に散歩に行くこと、エサをあげて、毛を整えて、みんな必要なんだってすごく実感したんですよ。本当に、この子が来てくれてうれしい。私、大事なこと忘れてました。必要としてくれる人ってのは、本当に身近なところにいるものですね。一番身近な人に、一番身近なことをしてあげること。これが一番大切だったんじゃないかしら。私、今まで、保育士の仕事なくしたことばかり恨んでいましたが、そういうときこそ、一番身近にいてくれる人を大切にしないと。父も母ももういないけど、70になってこのことにやっと気が付いた馬鹿な娘を、許してくれるでしょうか?」
杉三「きっと、許してくれるよ。そのために、新君がいるじゃん。答えなんて、割と身近に転がっているものさ。だから、大丈夫、それに気が付けば。遅かったのは仕方ないとしても、それはもうくよくよしないでさ、今からの人生を、新君と一緒に楽しめばいいさ!」
奈美子「そうだね!杉ちゃん、ありがとう!」
杉三「いや、僕じゃなくて、優さんに礼を言うべきじゃないの?」
奈美子「そうか、先生に感謝しなきゃ。」
蘭「彼の首輪とリードはどこで購入したのですか?」
奈美子「優先生が、犬をほしいと相談した時に指導してくれたものです。」
蘭「ああ、なるほど。すてきですね。」
と、正午を告げる鐘が鳴る。
蘭「あ、もうお昼だ、帰らなきゃ。」
杉三「えっ、もうそんな時間?」
蘭「そうだよ。じゃあ、僕たちは帰りますので、またどこかでお会いしましょう。」
杉三「また会いに来てね!新君もね!」
二人、車いすをこいで、公園を移動していく。
奈美子は二人が見えなくなるまで、見送っている。
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