3-終 めでたし、めでたし
***
「ザナ、今日は私がお茶を淹れたんだ。それから、街でクッキーも買ってきた。お前、甘い物好きだったろう? 少し休憩しないか」
コシトフは玄関で靴を磨いていたザナに声をかけた。
相変わらず、ザナからは何の返事もない。
「そこは冷える。私はもう仕事に行くわけではないんだから、そんなにきれいに磨かなくても大丈夫だ。いつもありがとう。さぁさ、リビングへ」
少し困ったような表情を浮かべるザナの手を取って、リビングへ連れて行くと、ソファへ座らせ、淹れたばかりの紅茶と街で買ってきたクッキーを勧めた。
いつもの夫なら、絶対にお茶を淹れたりなんかしない。ましてや、「いつもありがとう」だなんて……。
ザナは少々不審に思ったが、芳しい紅茶の香りに背中を押され、一口飲んだ。キッチンに立つところなんて見たことがない夫が淹れた紅茶は正直、美味しいと言えるものではなかったが、何だか胸の辺りがじんわりと温かくなった。
ザナは久し振りにほんの少しだけ笑うと、夫にお礼をしようと口を開いた。コシトフはまた「離婚したい」という言葉が飛び出すのかと、少し身構えてから、ああ、そう言えば魔女の薬を飲んだのだった、ということを思い出した。
「あな
ザナの口から出てきた言葉はいつもの「離婚したい」ではなかった。しかし、何かがおかしい。コシトフは目を見開き、ザナに問いかける。
「ザナ……? すまんが、もう一度言ってくれないか?」
ザナは狼狽している夫の姿に虚を衝かれた。無理もない。もうずっと「離婚したい」としか言っていなかったのだ。久し振りにそれ以外の言葉を聞いて驚いているのだろう。
「どう
ああ、やはりそうだ。
違うんだ、違うんだよ。
そういうことじゃなかったんだ。
私が聞きたくなかったのは「離婚したい」という文章であって、「り」「こ」「ん」「し」「た」「い」という言葉ではないんだ。
どうしよう。私は妻から言葉を奪ってしまった。
私のせいで……。
コシトフは声を上げて泣いた。
ザナの身体を強く抱きしめ、何度も何度も「私が悪かった」と言いながら。
「ザナ、私が悪かった。一生かけてお前を大事にする。どんなものからでも守る。頼む。私にお前を守らせてくれ! 私はお前を愛しているんだ! 悪かった! すまなかった!」
耳元で聞こえるコシトフの声は涙交じりで聞き取りづらかったが、ザナにはそんなことは関係なかった。
「あな
その言葉にどきりとしてザナの顔を見ると、彼女の目からは涙が零れていた。
「ちゃ
そう言ってザナは泣きながら笑った。
離婚したいという気持ちは嘘ではなかったが、それほど本気でもなかった。
最初は、いままで家にいなかった夫がずっとそこにいる、そのことに少々イライラしていただけだったのだ。いままで仕事優先で私のことなんて二の次だったのに、その仕事がなくなったら手のひらを返したようにこちらにすり寄って来る、私はあなたの母親ではないのに、そんな気持ちが膨らんでいった結果だったのである。
「ザナ……」
「もう、
ザナはハンカチでコシトフの涙を丁寧に拭うと、それから、自分の涙も拭いて、すっかり冷めてしまった紅茶を飲んだ。
***
その日の夕食が終わり、プーヴァがキッチンで後片付けをしていると、テナが彼の背中をつんつんと突いてきた。
どうしたのかと振り向くと、テナは下を向いて後ろ手に何かを持っている。
ほとんど真上から見下ろしているプーヴァには、彼女の手に握られているものが正直、ちょっとだけ見えていたが、それには気付かないふりをした。
「何だい、テナ?」
いつも通りののん気な声でそう言うと、テナはゆっくりと顔を上げた。しかし、彼女は視線を合わせようとしない。
「きょ、今日は何の日っ……?」
その言葉をきっかけに彼女の頬はみるみる赤く染まっていく。林檎みたいだなぁ、と思いながら、はて、今日は何の日だったかな、とカレンダーを見る。
一日の終わりごとに×印をつけているそのカレンダーは十二月二十三日まで、その印がつけられている。
「ああ……、クリスマスじゃないか……。――しまった! 普通のメニューにしちゃった!」
彼は頭を抱えて蹲った。
せっかく、クリスマスは特別メニューにしようと張り切っていたのに、ここ数日は魔法薬のことで頭がいっぱいでつい失念していたのだった。
「もう、別に良いよ。それは明日でもさ。それより、はい、これ!」
その場にしゃがみ込んだプーヴァに向かって、テナが後ろ手に隠し持っていたものを差し出す。それは木彫りのトップがつけられたペンダントだった。トップは丸い枠の中に雪の結晶が彫られており、実に丁寧に作られていた。
「すごい……。テナ、これを僕に?」
「そうだよ。セーターや帽子は暑いし、プーヴァに刺繍入りのハンカチをあげても仕方がないでしょ。でも、これだったら、良いかなって思って」
まだ頬を林檎のように赤く染めた状態で、テナはもじもじしている。プーヴァはそれを受け取り、首にかけた。金属のチェーンではなく、革紐を使用している。これなら毛が絡まることもないだろう。
「どうかな。似合う?」
その言葉でやっと視線を向けたテナはにこりと笑い、大きく頷いた。
「ありがとう、テナ。でもこれ、いつの間に作ったの? 僕、全然気が付かなかったけど」
「そんなの、プーヴァが街に行ったり、森に素材を取りに行った時に決まってるじゃん」
テナはつんと澄ました顔で言う。頬の赤みは少し引いたようだった。
「さすが、テナは器用だなぁ。ごめんね、僕、手作り出来るのは料理だけなんだ」
プーヴァはそう言いながら立ち上がると、彼にしか届かない吊戸棚から小さな箱を取り出した。
「はい、僕からのプレゼント」
「何よ、プーヴァも用意してたの?」
「テナにもうすぐクリスマスだよって言ったのは僕の方だよ? でもね、テナみたいに手作りじゃないけど……。街でね、僕が作ったアップルパイを売ったお金で買ったんだ。テナの物を売ったお金で買うのは違うと思ったから」
その言葉を聞きながらゆっくりと蓋を開けてみると、中に入っていたのは、金色の小さな指輪だった。
「指輪……。随分小さいのね。これはどの指用かしら……」
箱の中から指輪を取り出し、右手の人差し指から順にはめてみる。人差し指、中指、薬指まで来て、どうやらこれは小指用だということに気が付いた。
「地下の本に書いてあったんだ。魔女は年を取るたびに髪が少し伸びて小指が痛くなるんでしょ? 魔女にとって小指は特別な指だから、お守りに指輪を着けるんだって。知ってた?」
「あたしが知ってるわけないじゃない。地下になんて出入りしないんだから」
そう言いながら、いまもちくりと痛んでいる小指にその指輪をはめた。彼女の小さな手に合うよう、毛糸よりも細い指輪である。
「あんまり高価なやつじゃないんだ。テナがもう少し大人になったら、もっとちゃんとしたやつをプレゼントするよ」
そう言って笑うプーヴァに、テナもニヤリと笑う。
「今日であたしも十六歳よ。この分だと、大人になるのもすぐね。ちゃんとお金、貯めておくのよ」
テナのハチミツ色の髪はまたほんの少し、ほんの少しだけ伸びた。まだまだ肩には届きそうにない。ちくちくと痛んでいる右手の小指にはめられた金色の細い指輪を見て、テナは、悪くないわね、と思った。
あの夫婦は、クリスマスをどう過ごしているのだろう、とふと考えた。
もう二度と、妻の「り」「こ」「ん」「し」「た」「い」という言葉を聞くことは出来なくなっているはずである。
しかし、妻から言葉を奪ったのではない。
あれはそういう薬ではない。
あれは、飲んだ者が最初に発した言葉を聞こえなくする薬なのだ。それも、もっとも愛しいと思う人の言葉を。
そうして、テナは十六歳になった。
――客人No 4 そんな彼女でも好きだった男 に続く
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