9-2 風のない午後に訪れた客人

 昼食が終わり、テナとプーヴァは向かい合ってコーヒーを飲んでいた。

 プーヴァは地下の書物庫から引っ張り出してきた料理の本をパラパラとめくり、今晩のメニューをどうしようかと頭を悩ませている。


 コンコン、という控えめなノックの音が聞こえてきたのは、そんな静かな午後のことであった。


 風の無い日だったので、それははっきりと聞こえ、顔を上げたプーヴァにテナは「お客さん」とだけ言って応対を促す。プーヴァは、はいはい、と言いながら腰を浮かせた。


 のしのしと歩いて玄関の方へ向かいながら「いま出ますよ」と声をかける。玄関に置いてある姿見で軽く全身をチェックしてから、彼は「いらっしゃいませ」という言葉と共に扉を開いた。


 扉の向こうにいたのは、小柄な老女であった。

 彼女は突如眼前に現れた、見上げるほどの巨大な白熊を見て、目を見開いた。ぽっかりと開かれた口は、何かをしゃべりたそうにあうあうと動いているものの、どうやら叫び声すらも発することが出来ないようである。そんな状態で数秒経っただろうか、彼女の身体はゆっくりと後方に倒れかけた。


「危ない!」


 いくら雪のクッションがあるとはいっても、頭でも打ったら大変だと、彼は腕を伸ばして彼女の身体を受け止めた。こういった反応は少なくないので、ある程度の予想はついている。


 前に倒れ込んでくるか、すとんと膝や腰から崩れ落ちるか、それとも今回のように真後ろに倒れるか、あるいは、くるりと踵を返して命からがら逃げだすか、だ。


 プーヴァは小さな彼女の身体をひょいと持ち上げ、室内へと運ぶ。その様子を見て、テナは暖炉の前に厚手の毛布を敷き、彼女のスペースを作った。ゆっくりとそこへ降ろすと、プーヴァが背中を支えた状態で座らせ、テナが外套と帽子を脱がせる。それらを壁に取り付けられている物干し用のポールに掛けると、そぅっと横たわらせ、床に敷いた毛布で包んだ。


 客人が女性で、且つ、このように目を回してしまった場合には、プーヴァは作り置きしている『へんしん薬』を飲むようにしている。これを飲めば、約八時間、人間の姿になることが出来るからだ。小瓶の蓋に手を掛けたところで、人間用の衣服は暖炉の近くの棚の中だったことに気付く。まさか全裸で取りに行くわけにもいかず、彼はそろりそろりと暖炉へ向かった。


「まだ白熊のままじゃない。何やってんの?」

「着替え、準備するの忘れてたんだ。女性二人の前でお尻出すわけにはいかないでしょ」


 そう言いながら、老女を起こさないようにそぅっと棚から着替えを取り出し、再びキッチンへ戻った。


 薬を一息に飲み干すと、手早く衣服を脱ぐ。身体からしゅわしゅわと白い湯気が上がり、厚い毛皮に追われていた肌は、あっという間に人間のそれに変わった。


 リビングからは見えない奥まったキッチン内ではあったが、用心に越したことはない。彼は後ろを気にしながらこそこそと着替えを済ませると、床に脱ぎ捨てられている白熊の衣服を丁寧に畳んだ。



 老女が目を覚ましたのはそれから十分後のことである。

 彼女はゆっくりと身体を起こし、何故自分はこんなところで寝転がっていたのだろう、と怪訝な顔をして辺りを見回す。すると、自分の息子よりもうんと若い女性がきょとんとした顔でこちらを見ていた。


「あの……、私……」


 かすれた声でそう言うと、その若い女性、テナは少し腰を浮かせて部屋の奥へ声をかけた。


「プーヴァ、目ェ覚ましたよ。お茶!」


 テナはそう言ってから椅子に座り直し、老女へ微笑みかけると、ここに掛けたら? とでも言わんばかりに自分の向かいの席を指差した。


「あの……ありがとう……」

「魔女に会いに来たんでしょ?」


 老女が座るなり、そう声をかけられ、そういえば、と目的を思い出す。


「そうです。私、魔女様にお会いしたくて……」

「それならあたしのことよ」

「え?」


 老女は目を丸くして、目の前に座っているテナを凝視した。


「だ、だって……、こんなに若い……」

「あら、若かったらダメ? あたし、産まれた時からずーっと魔女なんだけど。あなただって、産まれた時からずーっと人間でしょ?」

「それは……そうですけど……」

「そりゃしわくちゃの婆さん魔女の方が力も強いし、薬だって早く作れるだろうけどさ。でも残念だけど、この辺りにはどうやらあたししか魔女っていないみたいなのよね。まぁ、ご不満ならお帰りはあちら」


 テナはつんと澄ました顔で玄関を指差す。老女は慌てて首を振った。


「そっ、そんな! そんなつもりじゃなかったんです! 申し訳ありません!」

「まぁまぁ、テナ。君だって自分が世間からどう思われてるかわかってるでしょ。仕方ないんだよ、こればっかりはさ」


 そう言いながら、プーヴァは老女の前にティーカップを置いた。


「ちょっと口調はキツイんですけど、悪い子じゃないんです。お話してください。お茶、どうぞ」


 テナは何だか子ども扱いされたように感じて、ふん、と鼻を鳴らした。プーヴァはその様子を見て、にこりと笑うと、彼女の前に手作りのチーズケーキを置く。もちろんそれは老女の前にも置かれた。


「お口に合えば良いんですけど」


 老女は背後から現れた穏やかな好青年を見て、涙をほろり、と零した。


「え? ちょっ、ちょっと?」


 ハンカチで目頭を押さえた老女にプーヴァは狼狽した。もしかして、紅茶もチーズケーキも食べられないのだろうか、と彼は思った。


「すみません! お嫌いでしたか?」

「違うんです、違うんです……」


 そう言いながら、本格的に溢れて来た涙を何度もハンカチでぬぐった。


「息子のことを考えてしまって………」

「息子さん?」


 テナはチーズケーキにぐさりとフォークを突き立てて、言った。

 老女はこくり、と頷くと、頬に残る涙の雫を丁寧にハンカチで拭き取り、ほわほわと湯気の上がる紅茶を一口飲んでから話し始めた。

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