第6話 窮鼠猫を噛む

 天井から音がした。空調機が動き出したらしい。ひんやりとした空気が肌をすべる。色も、においもない。柊はある程度の毒の知識と耐性を持っているが、無色無臭となると完全に絞り込むことができず、体がどれくらいの時間もつのかもわからなかった。

 院長はコンピュータの操作を部下に任せ、柊に近づく。睨みつける柊に、院長は猫のように目を細めた。


 「ちょっと苦しいかもしれないが、すぐに逝けるよ。長く苦しんでもらうのもいいんだけどそれはもう見飽きたし、こちらも復旧作業をしないといけないからね。君のせいで予定が押しているんだ。残念だよ」

 「こいつらは捨てるのか」


 まっすぐに院長を見据える柊の眼を、院長は可笑おかしそうに眺めた。


 「処分されなかった亡霊が、処分されるこの子らを案じるとは。街をさまようのは楽しかったかい?そんな弱い生き物のままで、中途半端な眼を持ったままで、幸せだったのかい。その子らは君よりも弱くてね。これ以上生かしておいても可哀想だと思うんだ。そうだろう?君みたいにうまく生きられる保証なんてないんだよ」

 「こんなところにいたら、そうだろうな」

 「どこに行ってもそうだよ。君は運がいいだけだったんだ。運がいい子は、運の悪い子のことがわからないんだよ」

 

 ぼーっとしたままの子どもたちの目線に合わせて柊は膝をついた。2人とも髪が長くボサボサで、男女の区別がつかない。まともに風呂にも入っていないだろうことは柊自身の経験からもわかる。


 ————サリンでもVXでもどうでもいい。余計なことを考えたから、こいつらを巻き込んだ。俺は何も考えなくていい。考えるのは俺じゃない。


 ポケットをまさぐり、出てきた丸い固形物の包装紙を取って子どもの手のひらに乗せた。


 「飴だ。わかるか?舐めるんだ。舌の上で転がせ」


 やっと目があった。1人はじっと飴を見つめ、もう1人は口を開いたり閉じたりして、歯をカチカチと鳴らした。

 

 「噛んでもいい。けど、すぐに飲み込むな」


 院長が「悪あがきだね」と笑う。柊は立ち上がって赤ん坊と相田を探した。赤ん坊はベッドに戻され、指をしゃぶって眠っていた。

 柊はベルトに差していた小瓶にある液体をティッシュに含ませ、赤ん坊の口から指を抜いて無理やりティッシュをねじこむ。赤ん坊はうっすらと目を開けたが、ティッシュを両手で握り、静かにそれをしゃぶってまた目を閉じた。

 

 相田は部屋の隅で、口を押さえて床に丸まっていた。柊はその隣に腰を下ろした。目を見開いてガクガクと震えながら自身の口を塞ぐ相田の顔色は鉛のようだ。毒よりも先に過呼吸で死ぬのではないかと思うほど呼吸が荒い。


 「相田、寒いのか?震えすぎだ」

 「さ、寒いし、気持ち悪いし、頭がグラグラするよ。も、もう毒が回ってるんだ、し、死ぬんだ……」

 「お前は静かに死んでいくんだな。あの発狂した女よりいい」

 「空気を、吸いたくない。君も、苦しんで死ぬの、わ、わかってるのか?」

 「死にたいか?」

 「し、死にたい、いますぐ。一瞬で。でも、自分じゃできないんだ。このガラスの壁に頭をぶつけるだけでいいのに、お、臆病なんだよ」

 「頭をぶつけたくらいじゃ死ねないだろ」

 「そう、そうか……。どうすれば、どうすればいいか、君なら知ってるんだろ?どうすればいい?早くしないと、こ、怖いよ」

 「簡単だな」

 「し、舌を噛み切る力は、ないよ」

 「それも一瞬じゃ死ねないだろ。頭が回ってないな」


 相田の口を押さえる手を掴む。丸まっている相田を起こすようにぐいっと自身の方へ引き上げ、怯える彼と目を合わせた。


 「俺が殺す。お前は俺たちにしたことを、俺たちから返されるんだ」


 相田はゆっくりと首を横に振り、震える唇を開いた。


 「それは、一瞬じゃ、死ねない」


 小さく呟かれた相田の言葉に、柊は薄ら笑いを浮かべる。


 「”ああ、一瞬で殺すのはもったいない。どうせなら、使えなくなるまで”」

 「それは、」

 「お前らの頭ん中は、みんなこうだったな」


 柊はポケットに手を入れて、じっと相田の顔を見た。柊の言葉のせいか、毒が効いてきたのか、さっきよりも目が虚ろになっている。


 「食え」


 子どもたちと同じ飴玉を渡した。相田は呆然と柊を見上げる。


 「それで少しはマシになる。早くしろ」

 「なんで……」

 「お前を殺すのは俺だ。あいつらも俺が殺す。全員俺のものだ」

 「君は、強いな……。そう、だよな。どうせ死ぬんだ……」


 相田が意を決したように飴玉を口に放り込むのを見届けると、柊は別の液体を飲んだ。飴玉も液体も、すべてしんくが調合したものだ。柊が渡したものは解毒作用がある睡眠薬。だが、柊が飲んだものは違った。毒にはきかない。ただの睡眠薬だ。解毒できるものは渡したもので全部だった。その解毒もどこまで効果があるのかわからない。院長の言葉を聞く限り、生き残る保証は無に等しい。

 相田に飴を渡すか、一瞬迷った。自分が食べてもよかった。ここで相田が死んでも問題ないのだから。誰も殺すなと北斗に言われているが、それはボスの命令ではない。ボスからは、なるべく殺すなと言われているだけだ。だが、柊は相田に飴を渡した。

 柊はさげすむような笑みを浮かべた。


 ————毒を浴びてるっていうのに、ゆきは間に合うって、信じられる。俺も大概だな…。


 先に眠りについた相田の隣で、柊も目を閉じた。




***



 どこか遠くから、ゴーと換気扇が回るような音がする。


 「ゆきちゃん?どうしたの?」


 立ち止まったゆきに、女は心配そうに振り返った。ゆきの思惑通り、女は完全にゆきを女性だと思い込んでいる。

 地下道に寝ていた1人の女から白衣を拝借し髪を下ろしたゆきは、暗闇で見れば確かに研究員の女性に見えた。潜入は成功した。だが、柊の居場所は不明なままだ。こういうとき、柊の担当は”偉い奴を倒す”こと。いつも通りに動いていてくれれば、おおよその居場所はわかる。だが、誰も彼もクモという名前しか出さない。クモは柊のことを指しているのか、それとも電波を妨害している者のことなのか、それともまた別の誰かか……。


 「もう着くから、早く行こう」

 「これはなんの音ですか?」


 女は耳を澄まし、「ああ」と頷く。


 「空調機かしら。どこかの研究室で使ってるのね。でも、緊急時は止めているはずなのに」

 「空調機……」

 「そう、だ……、やっぱり危ないかも。だって、こっちの方って毒使うでしょ?なんで回ってるの……?や、やっぱり上に出た方がいいかも。治療院なら電気点くんじゃない?も、戻ろう?」


 女がゆきの腕を引いて来た道を引き返そうとすると、1人の男が廊下を駆けて来た。


 「そこに誰かいるのか!早く第2に行け!院長がネズミを捕らえたぞ!!」

 「う、うそ、どこで?」

 「3-Bだ!これでもう安心できる!」

 「クモではないんですか?」

 「ああ、クモじゃない!そうか、そっちはまだクモだと思っているのか。俺はみんなに伝えてくる!お前たちは第2で院長の指示をあおいでくれ!まだ2、3人しか来ていないんだ!」

 「わ、わかった!ゆきちゃん、行こう」


 女は急に元気になり、ゆきの腕を引いて走り出した。スマホの明かりだけだが、慣れた道らしい。女は角を曲がり、階段をおり、ゆきを管制室に連れて行く。扉は開いており、中から光が漏れてぼんやりと廊下を照らしていた。


 「ネズミは!?手伝うことある!?」


 そこにはモニターの画面がずらりと並んでいた。その前に2人の男と1人の女が立っており、モニターを見て笑っている。


 「見ろよ、これ。あんなに暴れた野郎も、一発だ」


 ゆきは男の後ろで、モニターを見上げた。ガラスの壁の中で誰かが倒れている。小さな子ども2人と、ベッドに眠る赤ん坊、白衣を着た研究員らしき男。そしてその隣には、眼帯の——。


 「前に逃した一匹らしいけど、まだまだ改善の余地ありって感じ」

 「相田も巻き込まれたけどな……。俺がそこにいなくて良かったぜ」

 「……あなたがたはここで何を?」


 1人の男がモニターを指差し、ゆきの問いに答える。


 「あれを閉じ込めたんだ。のこのこ入ってきたから、俺たちが仕留めたってわけだ。院長のキーはもらったから、ちゃんと遠隔の権限はある。……あれ、そいつどうした?」


 ゆきを連れて来た女は、壁に寄りかかって眠っていた。


 「具合が悪いと言っていたので、

 「そうか。疲れてたんだろうな。ネズミも捕まえたし、ゆっくり、」

 「先輩、じっとして」

 「なんだ?」


 ゆきの手が男の首筋に添えられ、すぐに離れた。


 「ゴミですよ」

 「え、そうか、かっこわり」

 「ふふっ」


 と、男の体がぐらりと傾いた。隣にいた男が驚きながらその体を支え、「お前も気が抜けたのか?」と笑う。


 「ああ、そうなのかな。なんか、ねむ……」

 「おいおい、まだ寝るなよ」

 「私も、眠くなってきた……」


 モニターを眺めていた女も目をこすり、壁際に移動する。


 「なんだよ、徹夜でもしてたのか?」

 「無理だ…。少し、ねる」

 「私も〜…」

 「え〜ガチじゃん」


 ケタケタと笑う男は自分の腕の中で寝落ちた男を床に寝かせた。その手首を、ゆきが掴む。男は目を瞬かせてゆきを見た。


 「あなたも寝ます?」

 「え、俺は、ふあ……やば、」


 男は目頭を押さえ、床に手をつく。しかし体を支える力もすぐになくなり、がくりと床に倒れた。


 「大丈夫ですか?」


 ゆきは笑う。


 「ちゃんと、寝ましたか?」


 ゆきの手には細い針があった。それを白衣のポケットに入れると、モニターの下にあるコンピュータに、持ち歩いているUSBを差し込んだ。コンピュータにあるデータを全て移している間、モニターに映るものをじっと見つめる。柊と相田という男はピクリとも動かない。子どもたちも寄り添うようにして眠っている。赤ん坊はベッドの上で寝返りをうった。

 ゆきは音響機器に設置してあるマイクに触れた。ボリュームを上げ、ぽんぽん、と指で叩く。


 「聞こえますか、院長」


 モニターに映る男が、コンピュータのそばにあるマイクに口を近づけた。


 「急用かな?今忙しいんだが、なんだかおかしくてね」

 「ええ、なんだかおかしいですね」


 ゆきは機械にささっている小さな鍵の下にあったダイヤルを、"open"と書かれた方に回した。ガラスの扉が開き、中の空気が流れ出す。

 モニターの中にいる者たちが、一斉にそちらを向いた。


 「なんっ…おい何をしている!!!閉めないか!!」

 

 院長は血眼になって近くにいる者に叫ぶ。


 「だっ、ダメです!院長のキーが管制室にあるので、こっちは動きません!!」

 「う、やばい!!!逃げろ!!!」

 「停止を押せ!機械を止めろ!!」

 「邪魔だ!!早く行けよ!!」

 

 阿鼻叫喚のさまを呈した研究室に、ゆきの乾いた笑いが響く。


 「ふふっ、おかしいですね。なんでしょうねえ。すごくおかしくて、笑っちゃうな」

 「くそっ、どけ!私が先だ!!」


 院長は扉に群がる者を押しのけ一目散に出て行った。


 「……」


 ゆきはUSBを抜き取るとそばにあった椅子を持ち上げた。それを大きく振りかざし、モニターに叩きつける。何度も、何度も。モニターを粉々に砕き、コンピュータを破壊する。破片が手や顔を傷つけてもゆきはやめなかった。数分して、ようやく動きが止まる。

 ゆきは天井を見上げ、だらりと腕を下ろした。


 「はあ……」


 折れた椅子が手から落ちる。


 「だれ?毒をすげ替えたのは」


 ゆきの脳裏にあるのは、赤ん坊が寝返りをうつ姿。死んでいない。毒は効いていない。おそらく、あれは毒ではないのだ。院長も途中でそれに気づいたのかもしれない。"おかしい"とはそのことだろう。


 「殺せなかった。チャンス、だったのに」


 砕けたガラスを踏み潰し、管制室を出る。暗く不気味な廊下に、叫び声が響いていた。


 「クモ…?お前なの?ボクの邪魔をしたのは」


 


 ***




 白い壁。白い機械。白いベッド。白い服。

 そこに、べっとりと赤が染み込んだ。こんな光景は、初めて見た。赤色には慣れている。でも、それがおとなからも出るんだと、そんなことを考えていた。


 「変だねぇ」

 「何がだ?」


 茶髪の子どもはクスクスと笑い、金髪の子どもが首をかしげる。


 「汚れるのに、なんで白いんだろうねぇ。ボク、白は嫌いだよ」

 「さっきは泣いてたくせに、よく言うぜ」

 「そっちこそ、カッコつけようとして滑りそうに……」


 数人の足音がした。おとなの低い声が、誰かの名前を呼んでいる。


 「北斗、大丈夫か?」


 知らないおとなたちが入ってきた。黒い服を着て、2人の子どもを囲む。何か話しているけど、何を言っているのか、よくわからない。


 「ごめん。みんな死んでた。もっと早く来たらよかったのか?俺たち遅い?」

 「いいや、想像以上に早かったよ。私たちが追いつけなかったくらいだ。きっと子どもたちは死ぬように設計されていたんだろう。何か身体に仕込まれていたのかもしれない。大丈夫、北斗はよくやったよ」

 「そっ、か。よかったん、だよな?」

 「もちろん」

 「へへっ」


 目が霞む。右目が痛い。涙が出てきた。おとなにいじられてる時よりも痛くなんてないのに。ああ、よく見えない。もっと、笑う顔を見ていたい。


 「あ、ゆき、どこ行くんだよ」


 誰かが近寄って来る。細く、白い手が、頬をそっと撫でた。冷たそうな手なのに、じんわりとあたたかくて、優しい。その指でゆっくりと涙をすくい上げ、そのまま熱のある右目を覆った。


 「死にたい?」


 重たい瞼を持ち上げる。柔らかく微笑む少年は、いつの日か読んだ本に出てきた天使のようだった。


 「死にたいなら、ボクが殺してあげる。だから、」


 少年は顔を寄せ、額と額をくっつけた。


 「まだ、死なないで。お願い」




 「ゆ、き……」


 乾いた唇から声が漏れた。

 

 「あ、起きた?」

 「ゆ、き……?」


 目を開けると、灰色の天井があった。タバコの匂いがする。誰かの車の中だった。見覚えがある車内。ボスの部下のものだ。エンジンは止められ、窓から夜の闇に浮かぶ工場群が見える。車は廃工場の敷地内に止められているらしい。

 と、視界いっぱいに白髪頭が飛び込んできた。


 「ねぇ、大丈夫っすか?気持ち悪いとかない?」


 しんくが柊の顔を覗き込み、首元に手を当てる。脈を測っているようだ。

 柊は自分の置かれている状況を把握し、顔をしかめる。


 「……なんでお前なんかに膝枕されてんだよ」

 「だって狭いんだもん」

 「もんじゃねぇ。硬い」

 「俺だってあんたの枕になんかなりたくないっす。寝相悪いし」

 「枕持ってこい」

 「ムリ〜」

 「家に帰れって言ってるんだ。お前の世話なんかいらない」

 「はいはい、起きていいっすよー」


 柊は起き上がると手のひらを眺め、袖をまくった。発疹も何もない。


 「いや〜、絶対毒じゃないっすよね、ピンピンしすぎ。なに浴びたんすか」

 「ゆきは」

 「もう全部終わってゆっきーも隊長も報告に行ってる。ボスに連絡したらすぐに部下さんたちが来てくれたっす。ここは目立たないからって、みんなで移動してきたんすよ。子どもも全員無事だったし、誰も逃さずに逮捕できたから部下さんたちご機嫌だった。あ、ゆっきーが『柊からの報告も聞いといて。あとでまとめるから』って」

 「……」

 「柊を運んでくれたの、ゆっきーっすよ。なに寝てんすか。俺の薬キライなくせに」

 「まずかった」

 「意見はありがたく頂戴するけど、改良はしないっす」 


 柊は窓に寄りかかり、ムッと唇を引き結ぶ。


 ————あんだけ煽ったくせに毒じゃないのか。ざけんな。


 「あのさ、柊の話を聞くのもいいんすけど、こっちの話も聞いてほしいんで、先にいい?」


 無言を肯定と受け取ったしんくは、靴を脱いで姿勢を崩した。完全にくつろぎモードに入っている。


 「今日は燈夜がいなかったから、あんたを追ってゆっきーが1人で潜入して、隊長は治療院の出入り口張って誰も逃げられないようにして。俺はボスに電話しながら他の出入り口ないか探して。まあ、さすがにゆっきーが1人で潜入するって言ったときはビビったけど、あの人度胸があるっていうか、肝が座ってるっていうか……。柊もだけど、あの、なんつーか」

 「……」

 「隊長は隊長で横暴だけどみんなのこと大切にしてるし、いや、つか、好きすぎるんだけど……。その……」

 「……」


 沈黙が降りる。

 しんくの歯切れが悪くなるのを見るのは初めてではない。最近はほとんどなくなったが、柊が彼と出会ったばかりの頃はもっとひどかった。そんな時はだいたいいつも、同じことを考えている。


 「もっと、自分を大切にしてほしいなーって……」


 柊はため息を吐いた。始まった。面倒臭いのが。柊は先手を打つように、ピシャリと言い放った。


 「寝ろ」

 「なんで!?」

 「夜だからだ。夜になるとお前は弱気になる。燈夜と逆だ。どうせ地下で燈夜のこと思い出してビビったんだろ。自分のことくらい自分でコントロールしろ」

 「し、してるっすよ!」

 「だったら何も言うな。俺たちだってしてる。俺はゆきが絶対に来ると思っから先に行った。ゆきは1人でいけると思ったから1人で行った。北斗はどうだか知らないが、あいつは昔から自分の限界を知ってる、たぶん」

 「た、たぶん」

 「お前が人を治すなんて変な立場にいるからそう思うだけだろ。だか、ら、」

 「……?」

 「だから、お前こそ、人のことばっか見てないでちゃんと自分のことを、見て、ろ」


 口が、渇く。


 「柊?」


 目の前が霞んだ。渇く。渇く。ごくりと、唾を飲み込む。乾いているのに唾液が溢れてくる。


 「柊!」

 「は、くそっ…」


 息が荒くなり、柊は前の座席に手をついた。焦点が合わない。よく見えない。脳が揺さぶられているみたいだ。


 「はっ、は、……ん、くっ、」

 

 渇く渇く渇く。足りない、足りない。もっと。もっと、欲しい。


 「ちょ、柊!なんで、いっ、」

 

 柊の体を支えようとするしんくの腕に、柊の指が食い込む。服の上から掴んでいるのに、皮膚が裂け、血が滲んだ。ギリギリと歯を食い縛る口の端からよだれが溢れる。

 しんくは物凄い力ですがるように腕を掴んでくる柊の背に手を回し、柊の方にあるドアを開けた。だが開ききらず、足を伸ばして、蹴る。


 「たーいーちょーーーー!!!ゆっきぃいいいーーーー!!」


 どこかにいるはずの2人をありったけの声で呼ぶが、夜空に虚しく吸い込まれていく。

 もう一度呼ぼうと息を吸い込むと、腕を掴んでくる力がさらに強くなった。


 「しんく!」


 しんくの胸に頭を抑えつけながら柊が叫ぶ。


 「はっ、……あめ、あめは…」

 「……!ダメっすよ!」


 しんくのポケットに手を入れようとする柊の手を掴み上げる。柊はギロリと睨むが、しんくはその手を離さない。


 「さっき一本飲み干したんすよね!?これ以上はダメっす!!」

 「ざけ、んな!これぐらいで、死なない!」

 「ダメだっつってんでしょ!!」

 「うるさ、」

 

 ドッ、と柊の首筋に誰かの手刀が入った。柊はしんくの腕の中に倒れ、しんくは驚いて車の外に立つ者を見た。

 タバコをくわえた男が、しんくをさげすむような冷たい目で見ている。


 「俺の車を汚すな。ネズミども」


 この車の持ち主、ボスの右腕とも言われている、鹿野ろくや翔一しょういちだった。

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