大事な話
「署名、してほしいの」
震える手で彼に差し出したタブレット端末。
表示されているのは、入力済みの離婚届。
「え……」
彼は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして固まっている。
大事な話がある、という事は伝えていたのだけど、離婚の話はまるっきり予想外だったみたいだ。
「……どういう……こと?」
「これ……」
私はタブレットを操作して、いくつかの資料を見せた。
1つは、ここ1ヶ月くらいの彼の行動ログデータ。
もう一つは、ここしばらくの彼の表情だとか声色をAIに分析させたもの。
そのデータからわかること、それは――
「最近のあなた、嘘をたくさんついてた」
気づいたのは、数ヶ月前。
それはいわゆる女のカンってやつなんだろう。
彼の様子がどことなくおかしい。
なんとなくよそよそしかったり、気もそぞろだったり。
ずっとそんな事してなかったのに、家に帰ってきた時、洗面所で手を洗ってから部屋に入ってくるようになったり。
「どうしたの?」って聞いたら「最近カゼ流行ってるから、予防にね」とか言ってたけど、あれはどう考えたって怪しかった。
だから、分かる範囲で調べた。彼がどこでどんな事をしてたのか。
それは別に、彼の浮気とかそういう事を疑っていたわけじゃない。
何か私には言えないような問題を抱えてるとか、よくない事に巻き込まれてるとか、そういう事が心配で。
だから妻としての権限でできる範囲で、GPSとかいろんなログを見て調べた。
それで、分かった。
ここ数ヶ月の間、彼はいろんな嘘をついてた。
特に多かったのは、いる場所や行く場所についての嘘だ。
仕事帰りに「今日は飲んで帰る」って言った日に、居酒屋じゃないところに行っていたり、週末に「散歩に出かける」って言って出ていって、別のところに行っていたり。
帰りが遅くて心配になって「いまどこにいるの?」って連絡したら、実際にいるのとは違う場所を言われた事も何度かある。
そしてそういう時、行き先はいつも同じ、都内のマンションだった。
最初は、私に言えないような用事があるんだろうな、くらいに思ってた。
でも、それが何度も繰り返されていくうち、不安になった。
ああ、これはやっぱり、そういう事なのかな。
だんだん、そう思えて仕方なくなってきたんだ。
決定的だったのは、2週間前。
彼はまた「散歩に行く」って嘘をついて、あのマンションに行った。
そして帰ってくると、洗面所に直行して服を着替えてから部屋に戻ってきた。
私は何の気なしに洗濯かごに放り込まれていたあなたの脱いだ服を見て、息が止まった。
彼の服に、口紅かなにかでついたような、赤い色の汚れがあったからだ。
私は恐る恐るその洗濯物を手に取り、顔に近づけた。
その服からは、彼の匂いとも、普段私が使う香水とも違う、普段嗅いだことのない匂いがした。
――ああ、やっぱり、そういう事だったんだ。
そう思うしかなくなってしまった。
「他に好きな人……できたんでしょ……?」
私は一通りの事を伝えて、絞り出すようにそう言うと、目を伏せ、彼の返事を待った。
「なる……ほど……」
何かに迷っている様子の彼。
「本当の事、言ってほしい。覚悟はできてる……から……」
そう言いながら、でもやっぱり心がビクビク怯えて落ち着かない。覚悟ができてるなんて、嘘だ。
本音を言えば、今すぐ耳をふさいでしまいたい。でも、聞かないわけにはいかない。
「えっと……うーん……」
彼はやはり何かに迷ってる様子。
迷う事なんてない。「イエス」ってひとこと言ってくれれば。
言ってくれれば、私は。
私は――
「……ああ、もう台無しじゃないか!」
彼は突然大きな声でそう言って、頭をぐしゃぐしゃとかき回すと、大きなため息をついた。
普段あまり聞くことのない彼の声に驚いて、彼のほうを見る。
彼は、何かを決心したような目をしてすっと立ち上がった。
一瞬、何か乱暴な事をされるのかと身構える――けど、もちろん彼はそんな事をする人じゃない。
彼は台所の棚のあたりで何かごそごそとやっていて、しばらくすると棚の奥のほうから何かを取り出して持ってきた。
それは、私の好きな色、黄色い和紙できれいにラッピングされた、ハンドバッグくらいの大きさの箱だった。
彼は私にそれを手渡すと、「あけてみて」と言った。
言われるままにラッピングを剥がすと、中から出てきたのは手触りのいい洒落た感じの黒い箱。
箱を開けると、そこには赤や黄色で綺麗に色づけされた、陶器のマグカップが2つ。
「結婚記念日のお祝いにと思って、こっそり作ってたんだ」
「……?」
話がよくわからない。
私が戸惑っていると、
「GPSのところは、陶芸教室。それを作るためにしばらくこっそり通ってた」
どこかバツの悪そうな様子で、彼は言った。
「最近よそよそしい感じになってたのは、驚かせたくて、バレちゃいけないって思って意識してたせい、だと思う」
「じゃあ……」
「僕が別の人を好きになったりするわけがないじゃないか」
えっと……つまり……
そうか、彼はこのプレゼントで私を驚かせようと秘密で陶芸教室に通っててて……それを私は勘違いして……。
「ごめんなさい、私……」
「いや、僕も不安にさせて悪かった」
彼は私を嫌いになったわけでも、他に好きな人ができたわけでもない。
私が暴走して勘違いしてしまっただけ。
なんだ――
それが分かってホッとしたら、急に涙がこぼれてきた。
そんな私を見ながら、彼はほっとしたように大きく息を吐き、呟いた。
「まったく、サプライズのやりにくい世の中になったもんだ…」
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