ランサム
「よし、できたぞ…」
薄暗い部屋の片隅で伸び放題の髭をしごきながら、男はニヤリといやらしい笑みを浮かべた。
「これで俺も金持ちだ」
メガネ型のARディスプレイを通してその男の目に映るのは、複雑なプログラムが書かれたたくさんのウィンドウ。そして、そのウィンドウの中で一つだけ異質な、かわいらしい猫のVR動画。
この動画は、誰の目からも何の変哲もない猫のVR動画に見えるだろう。
だが、違うのだ。
この動画を再生すると、ある重大な事が起こる。
その重大なこととは、「記憶のロック」。
動画を見た人の記憶の一部がロックされ、同時にこんなメッセージが送信される。
「あなたの記憶の一部をロックしました。ロックを解除してほしければ、下の口座に1万コインを送ってください」
BMI(ブレイン・マシン・インターフェース)が実用化され、今やコンピュータから人の脳に直接アクセスできる時代になった。脳の中で展開される様々な思考や意思を、コンピュータが取得し介入する手段を得たのだ。
とはいえもちろん、様々な手段で脳は保護されている。たとえば脳に何かを書き込むようなことは医療機関など許可を得た機関でしか許されていないし、記憶を書き換えるような事は禁じられている。
だが、男は様々な実験の結果、一つの穴を見つけ出した。
ある手順を踏むことで、世に出回るほとんどのBMI機器に備わった規制や制限を回避し、記憶の一部を思い出すことができないようにコントロールできる。
それから男は必死になってウィルスを開発し、ついに完成の時を迎えたというわけだ。
男は、思わずニヤつく表情を抑えながら、動画を人気の動画共有サイトにアップロードした。
今も昔も猫の動画は鉄板。少なくとも1万再生くらいはするはずだ。
うまくいけばSNSなどにシェアされて、100万回くらいは再生されることもあるだろう。
そうすれば……もう考えただけで表情が緩むのを止められない。
動画は無事アップロード完了し、「かわいい猫さんですね」なんていうコメントがつきはじめ、再生カウンタは着実に回っていく。
あとは口座にコインが振り込まれるのを待つだけ……
だが、どれだけ待っても何のリアクションもなかった。
口座の金額はピクリともふえないし、ロック解除を依頼するAPIへのアクセスもない。
待てど暮らせど何も起こらない。
記憶をロックするランサムウェアが、なんていうニュースも流れてこない。
動画は削除されないし、動画サービスからの警告もない。警察が来る様子もない。
(いや、そんなはずは……)
動画は確かに再生されている。SNSで拡散もされ、想定上の再生回数を叩き出してさえいる。
再生されている動画には確かにウィルスが仕込まれているし、疑似人格を使ったテストでも、動画共有サイトでこの猫動画を見た人間は、記憶の一部がロックされている。
記憶をロックした後に送るメッセージも、確かに送信され、開封されているようだ。
なのに、なぜ、何も起こらないんだ……?
男はいくつものロジックを見直し、テストをしてみるも、全く原因が掴めない。
動画の再生カウンタは回る。時間は過ぎる。口座の数字は相変わらずゼロのまま。
一体、何がどうなっている…?
男はただ混乱しながら、テストとデバッグを繰り返す。
やはり何の問題もない。完璧なウィルスだ。
しばらくして、一通のメッセージが届いた。
ようやく来たか、と思いながら、メッセージを開封する。
「この記憶って、何の話?」
男はその時になってようやく気づいた。
なるほど記憶がなくなれば、その記憶の価値も重要さも本人にはわからない――
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