母さん

僕の母さんは、いつも、窓際で座って、ニコニコしている。

ニコニコしているだけで、何もしない。

家事をするでもなく、どこかに出かけることもなく。

話しかけても、返事をするでもなく、相槌をうつわけでもなく、いつもただニコニコと笑顔で話を聞くだけだ。


幼い頃は、そんな母さんのことを不思議に思いながらも、そんなものかと思いながら過ごした。

僕の面倒は父さんと、時折やってくるお手伝いさんが見てくれていたし、それで特に困ることもなかった。

僕は時折母さんに話しかけ、今日あった面白い事を話して聞かせたり、嫌だったことを話したりした。

何を話しても、母さんはただニコニコと笑顔で話を聞いてくれた。


小学校に入る頃になると、自分の母さんがちょっと変だっていうことが、少しずつ分かってきた。

他の家のお母さんは、授業参観や運動会にも来るし、天気の悪い日に送り迎えをしたり、お弁当を作ってくれたりするらしい。

でも、僕の母さんは何もしない。いつも、ただ窓際にいて、ニコニコしているだけだ。


僕は段々そんなおかしな母さんの事を、恥ずかしく思うようになった。

だって、普通じゃないのだ。いつも窓際にいて、いつもただ笑ってるだけの母親なんて、変だ。

そんな変な母さんがいるなんて、恥ずかしい。

だから僕は友達に母さんの話はしないようにしたし、友達が家に来る時は、母さんのいる部屋には通さないようにした。


中学校に上がる頃になると、母親の存在が疎ましく思えるようになっていた。

何もせずにただニコニコしているだけの母親を、母親と呼ぶべきなのか。

そんな母親なら、いないほうがマシなんじゃないか。

そんなことさえ思っていた。


特に中学に上がりたての頃、僕がちょっとしたいじめに遭っていた頃はひどかった。

母さんは、僕がどれだけ辛い目にあっていても、いつでもただニコニコとしているだけ。

目の前でどれだけ泣いても、どれだけ助けを求めても、何も言ってくれず、ただただニコニコしているだけ。

そんな母さんの姿を見た時に、僕の中で何かが壊れた。

きっと母さんは、僕のことなんてどうでもいいんだ。

僕は母さんにとても汚い言葉を吐いて、それから二度と母さんに何かを話すことはなくなった。


それからしばらく経って、15歳の誕生日。

僕は父さんと、ささやかな誕生パーティを開いた。

ふうっと息を吹きかけて、ケーキに刺さったローソクの火を消す。

その時だった。

急に、頭の中に、ある場面が強烈に浮かび上がってきた。


そこは、病院だった。

色々なチューブにつながれ、ベッドに横たわっているのは、僕の母さん。

母さんはただでさえ色白い肌をもっと白くして、なんだかとても弱々しい姿だった。

母さんは僕のほうを見て、弱々しい笑顔を浮かべると、僕の手を取って、「ごめんね」と言った。

幼い僕にはその言葉の意味するところも、目の前で起こっていることも、ちゃんと理解できなかった。

そして母さんは、弱々しい笑顔のまま目を閉じた。

しばらくして、厳しい表情をしたお医者さんや看護師さんたちがやってきて、母さんの目や腕やいろいろなところを確認した。お医者さんが父さんに何かを告げると、父さんの表情が歪んで、その両目から大粒の涙がポロポロとこぼれた。



誕生ケーキを前にして、僕はボロボロと泣いていた。

どうして忘れていたんだろう。こんな大事な事。こんな大事な記憶。

そうだ。僕の母さんは、僕が小さい頃に病気で死んだ。

どうして忘れていたんだろう。

母さんが死んで、でも死ぬということがよくわかってなかった僕は、よくわからないままお葬式に出て、それから母さんがもう帰ってこないと知ってわんわんと泣いたのだ。


「ごめんな、今日までお前の母さんの記憶に鍵をかけていたんだ」


父さんは、申し訳なさそうにそう言うと、訥々とわけを説明してくれた。

僕は母さんを亡くしてから、おかしくなってしまったのだという。

もういない母さんをいると言い張ったり、急にふさぎ込んでしまったり、急に赤ん坊のようになったり。

それがあまりに酷かったため、医師との相談の上、母さんが亡くなった時の記憶をロックして、思い出すことのできないようにしたのだ。


じゃあ、窓際のあの母さんは……。


「母さんはな、お前がそうやっておかしくなってしまうかもしれないって、分かってたんだ」

父さんは、母さんの事を思い出しているのだろう。少し遠くを見るような目をしながら、言った。

「『きっと私がいなくなるとあの子は困ってしまうから、私があの子の中にいるようにしてあげて』って。それとお前に『いることしかできなくてごめん』って伝えてほしいって、そう言ってたな」


つまり、そう。

母さんは、僕の認識の中に焼き付けられ、僕の認識の中でだけ、あの窓際にずっと「いた」のだ。

僕があの窓際を見ると、僕の認識の中にあの笑顔の母さんの姿が浮かび上がる。

それは、僕だけが見える母さんで。

僕だけをただ見守ってくれていた、母さん。


◆ ◆ ◆


「行ってきます」


今日も制服を着て、忘れ物がないか確認して、学校に向かう。

玄関を出る時にふと窓際を見ると、そこにはいつものように母さんがいる。

記憶が戻ったせいか、以前よりどことなく存在感が薄くなってきてはいるけれど。


僕の母さんは、いつも、窓際で座って、ニコニコしている。

ニコニコしているだけで、何もしない。

家事をするでもなく、どこかに出かけることもなく。

何もしてはくれないけど、そうやって母さんがいつも笑顔で見守っていてくれるから。

僕は今日もこうして、頑張れる。

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