花金
「あー、また今週が終わるなぁ」
左手でビールジョッキを握りしめ、右手でたこわさをつつきながら独り言つ。
今日は花金。金曜の仕事帰りには、このくたびれた汚い飲み屋で一杯やるのが僕の小さな楽しみの一つだ。
今週もまた、平穏無事な一週間だった。
きっちり出社し、上司に叱られることもなく、必要な仕事を十分に、適切にこなした。
なんとも見事なまでの平穏無事さ。
しかしそれはあくまで「平穏無事」であって「順風満帆」ではない。
そもそも人工知能やら何やらのアシストを受けつつやっている仕事だ。ポカミスのようなことは滅多に起こらないのだし、平穏無事であるのが当たり前。
「平穏無事」を一歩抜けて、もう少しだけ、何か帆を張って風を受けるような、そういう変化が欲しいような欲しくないような。
なんてことをぐだぐだと思い悩んでいるような、いないでいるような。
まあ自分の人生がどうあろうが、ビールは美味いのだし、もうどうでもいいような、よくないような。
……なんて事をつらつら考えていると、後ろから鈴のようなきれいな声がした。
「あのー、すみません」
はいはいこんな花金に一人で飲んだくれる僕に何か御用ですか……と振り向いて、瞬時に硬直する。
長いきれいな黒髪に、なめらかな白い肌。パッチリした目に可愛い睫毛。
このくたびれた飲み屋の雰囲気にはまったく混じり合えない、えらく可愛らしい女の子がそこにいた。
「……??」
目の前の現実がいまいちうまく飲み込めずに硬直を継続していると、その女の子はほんのり困ったような顔になりつつ、言う。
「あの……お一人ですか?」
「え……っと、僕が一人じゃないように見えるとしたら、それたぶん霊的な何かが見えてますね」
「えっ……ああ、あはは」
ちょっと引かれた空気もなくもない気もしないでもないけど、とりあえず笑いは取れたからよしとしよう。だいぶ引きつった感じの笑いだったけど大丈夫だろう。大丈夫かな。大丈夫であれ。
「で、ええと…?」
「あ、えっと、このお店でお友達と飲む約束だったんですけど」
ちょっと目をそらしつつの上目遣い。
この子はなんというかアレだ、ヤバい。色々とヤバさがヤバい。
「ドタキャンされちゃって。帰るのもなんか悔しいし、一人で飲むのもなぁ、って。だからその、もしよかったら一緒に……どうかなって」
「なるほどドタキャンですかそれはそれは……って、え?」
そんなことがあるのか。……いやドタキャンのほうじゃなくて、こんな可愛い子の中から僕みたいなモブと飲もうっていう発想が出てくるところのほう。
「そ、そりゃもうあなたのような人と飲めるなら大歓迎ですよ」
言いながらとっちらかったカウンターの上をそそくさと片付けて、席を勧める。
「よかったー」
ちょっとほっとしたように笑う彼女。
その表情がまた愛らしく、衝動的に「結婚してください」とか言いそうになる。
「でもお邪魔じゃなかったですか?」
「いやいや、ちょっと人生の儚さについて思いを馳せてただけなんで。そちらこそ、花の金曜に僕みたいのが相手でいいんですか?」
「え、もちろんですよ。……っていうか、別に誰でもよかったとかそういうわけじゃないですからね?」
なるほど……えっとそれはどういう意味だろう……と考えてはみるものの、女性経験に乏しい自分がそれを正しく解釈できると思ってはいけない。どうせ考えてもロクなことにはならないし、何かの詐欺とかじゃないかだけは気をつけて、流れに身を任せることにしよう。
そう心に決めて「とりあえず何か飲みますか?」とドリンクメニューを渡してみたりする、その手が微妙に震えているのはできれば見逃してもらいたい。
彼女は名前をメイといって、僕の2つほど歳下で、社会人3年目。最近転勤があって首都圏に引っ越してきたばかりらしい。
今日は都心に勤めている古い友だちと会う約束だったのだけど、仕事の都合で来れなくなったそうで。
定時上がりが当たり前の昨今、仕事の都合でキャンセルっていうのは珍しいけど、まあよほどの事情があったのだろう。
お互いの自己紹介的な話題を終えると、あとは気ままな雑談タイム。
仕事のこととか、上司の愚痴とか、好きな映画の話とか、最近行ったVRアトラクションとか。
緊張こそしていたけれど、彼女との話はとても心地よく、初対面とは思えないくらい色々なところが噛み合った。
好きなものの方向が近いのもあるけど、なんというか、言葉のテンポとかリズムとか、そういうもっと根っこのところがこう噛み合う感じがするのは珍しい。
こんな子とお付き合いできたら幸せだろうなぁ、とそんなことをついつい夢想してしまう……のは多分僕の女性経験の乏しさ故だ。自制しろ自制しろ自制しろ自制しろ。
かくしてこれぞ花の金曜日、というべき楽しい時間はあっという間に進み、「ラストオーダーです」という無情な声が楽園の終焉を告げる時がやってきた。
「あ、もうそんな時間か」
「あっという間でしたね」
ちょっと残念そうな表情の彼女。この表情が本心から出てるものだったら嬉しいのだけど。
「そういえばもうだいぶ遅いけど、終電とか大丈夫?」
「あ……」
慌てて時計を確認。メイの顔がさっと顔が青くなる。
「どうしよう……」
さっき聞いた話だと、住んでる場所はここから結構遠い。タクシーだと結構なお値段になってしまう距離だ。
「なんだったら朝まで飲む? カラオケとかでもいいし」
「私、夜はダメなんです。多分寝ちゃうから……」
「なるほど……」
このあたりは住宅街なので、安めのカプセルホテルなんかもあまりない。
唯一考えられる場所とすると……
「じゃあ……うち来る?」
言った。言ってやった。こんな事を女性に言える日が来るなんて思ってなかった。頑張った俺。
多分断られるけど。断られたとしても、これを言えたことは、人類にとっては小さな一歩でも、私にとっては大きな一歩です。
「……お言葉に甘えようかなぁ」
「……!?」
イマナントオッシャイマシタカ?
「あー、なんかエッチなこととか考えてるでしょ」
「そそそんなことはないですよ」
わざとおどけた感じで返すけど、そりゃもちろん下心はありありですよ。ええそりゃもう。
……と言いたいところだけど、ぶっちゃけ今日初めて会った相手にそこまで突っ込んで行ける度胸はない。
だからこの歳まで女性経験がほとんどないんですええそうです分かっていますとも。
「じゃあ、行こうか」
幸い今は部屋は片付いているし、やましいものも置いてないはずだよな……。めまぐるしくいろいろな事を考えながら、そしてやかましいほどにバクバクしているヤワな心臓を叱りつけながら、彼女と一緒に自分の家に向かう。
部屋につき、ひとまずお茶を飲みながらひと息。
「素敵なお部屋ですね」なんて言いながら部屋を見回している彼女。
つくづく自分の部屋にこんな可愛い女の子が実存している事実に違和感が半端ない。
かくして夜は更けゆき、彼女の睡魔がそろそろ我慢の限界を迎えた様子。
「寝る前にシャワーとか浴びます?」と尋ねると、浴びたいというのでタオルと着替えを渡して浴室へご案内。
浴室から漏れてくるシャワーを浴びるその音が、また色々と妄想を捗らせてくれてしまい、交代でシャワーを浴びに入る時にちょっと前かがみになってしまったのは許してほしい。
僕もシャワーを浴びて、ついついこの後の展開についてあれこれと変な妄想してしまい、ドキドキしながら部屋に戻る。と――
彼女は、敷いておいた布団の上ですやすやと寝息を立てていた。
「ですよねー」
なんだかちょっとがっかりしたような、でもとてつもなくホッとしたような、そんな心持ち。
しかしつくづく自分の部屋の自分の布団に、可愛い女の子が寝ているこの現実が不可思議すぎる。
さらにその寝顔がまた可愛くて、もうなんというか今から超高解像度のVRカメラを買いに行って、容量の限界まで動画に残したいし、とりあえずあのシーツはしばらく香りとか色々楽しみたいので洗わずにおきたい。
……と、あまり彼女の寝顔を見つめていると、それだけで犯罪者認定されそうなので、彼女の眠る布団のすぐ横の床にゴロンと寝転がる。彼女のほうを向いてしまうと、理性とか理性とか理性が危険な気がしたので、彼女に背を向けて、部屋の照明を落とし、目を瞑る。
当然だけど、眠れない。
床で寝てるから寝心地が悪くて、とか、そういうことではもちろんない。
これは朝までこのままだな……と考えて、「ならもうちょっと寝顔とか色々堪能しておけばよかった!」と心の底から悔やんでいると、背後でもなにやらぞもぞと動く気配。
直後、背中に何やらあたたかなものが触れる感触。
そして聞こえてきたのは、かすかな、どこか非難がましい声。
「襲ってくれたっていいのに」
……!?
「ええっと何をおっしゃって……」
「誰でもよかったわけじゃない、ってちゃんと言ったのにな……」
つまり、それは……。
いやいやそんなまさか。
僕みたいなのにそんな。
胸の内で混乱と期待と不安ないまぜになる。
心臓が、早く高く鳴っている。
一体どうしたらいい?
どうするのが正しい?
混乱のあまり動けずにいると、背中に触れるものの圧力が、高まる。
と同時に何やら柔らかい感触。この感触はもしかして…。
どうしようもないくらい、心臓がバクバクと暴れまわる。
理性さんの堤防が、そろそろ……決壊……ええい、ままよ! 据え膳食わぬは男の恥!
がっと体の向きを反転させ、彼女の方を向く。
僕は意を決してその体に手を伸ばした――
その瞬間に。
彼女の前に強制AR表示されたパネルには、こんな事が書かれていた。
――――――――
ここからは課金が必要です。続けますか?
[ はい ] [ いいえ ]
――――――――
少し前に聞いた、このあたりに人と見紛うよくできたアンドロイドの売春婦が出没して荒稼ぎしているという噂を思い出し、僕は頭を抱えた。
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