認証

「完璧な認証装置が欲しいのだよ」

男はソファに腰を据えるなりそう言った。

貫禄のある、よく通る声だ。

年の頃にして50代後半、というところだろうか。血色のよいその顔の前で組まれた指には高価そうな指輪。視線を下に移せば身につけたスーツも靴も、見るからに上質そうだ。

「もちろん、金は十分に出す」

この男、資産家ランキングの上位に名を連ねる、この国でも指折りの金満家である。

「なるほど…」

向かい合う形で座る男が、やや緊張した面持ちで眼鏡の位置を直す。

こちらは明らかに着慣れていない様子のくたびれたスーツ姿にボサボサの頭。ただ、その眼鏡の奥の眼光は鋭い。

こちらは業界では名の知られた、情報セキュリティ研究の第一人者だ。


金持ちの依頼は要するにこうだ。

自分の財産は自分のものであり、誰かに奪われるような事は死んでも避けたい。

財産を、金庫を作って保管するにしても、電子的に保存するにしても、問題になるのは「鍵」だ。

どんな強固な金庫、どれほど強固なシステムを作ったとしても、自分以外の人間がそれを開閉できてしまっては元も子もない。

自分と、自分が認めた者しか絶対にアクセスできない、完璧な認証装置というものを作れないか、と。


「そうですね……」

セキュリティ研究者は、しばし沈思黙考する。

「生体認証はどうでしょうか。たとえば指紋などですが」

「そんなもの私を薬か何かで眠らせて、その間に認証デバイスにタッチさせれば簡単に突破できるではないか」

「ああ、もちろん指紋だけというわけではなくて。虹彩認証や静脈、声紋、DNAでの認証など、様々な認証を組み合わせていただくことで、突破できる確率はかなり小さくできます」

「私のクローンが作られたらどうする」

「ああいや、指紋や虹彩、静脈などはDNAが同じでも違いますので。DNA認証に限っては、クローンや双子などだと区別できませんが」

「そうなのか。しかし聞いたところによると、ほとんどの生体認証は、すべて別の手段で突破する方法は見つかっているという話じゃなかったかね」

なるほど、まったく何知らずにここに来たわけではないらしい。研究者は居住まいを正すと、金持ちの目を鋭く見つめた。

「そうですね。実際にやろうとすると難しい部分はありますが、不可能ではないです」

「あとは誤認識なんかもあると聞くな」

「そちらは複数のものを組み合わせれば、ほとんどの誤認識は限りなくゼロに近づけることはできます」

「しかしゼロではないのだろう?」

「そうですね」

「私が欲しいのは完璧な認証装置なのだよ」

にこやかに、しかしどこか高圧的に、金持ちは言う。

「最近研究されているものの中で有望なものだと……そうですね、歩き方など体の動かし方のクセで本人を認証する方法などもあります。筋肉の使い方というのは、人それぞれ特徴的ですし、コピーがとても難しいですから」

セキュリティ研究者は、神経質そうにメガネの位置を治す仕草をしながら、続ける。

「あとは本人にはわからない、脳に刻まれた情報を元に認証を行う、なんていうのも考えられていますね」

「なるほどな。しかし、そのどれも「絶対」ではないのだろう?」

「ええ、そうですね。生体認証については、どの方法でも誤認識をする可能性が多かれ少なかれあります。他の認証を組み合わせるにしても何にしても、セキュリティというのは、『突破するのにかかるコストを割に合わないようにすることで、守る』というのが基本戦略ですので。たとえば今ネット上で広く使われている暗号化の技術も、あれは絶対に安全というわけではなく、あくまで「復号化するのに必要な計算コストが膨大すぎて割に合わない」という事によって暗号の安全性を保っています」

「……それはつまり、ワシの全財産、のような「割に合う」対象であれば、危険が高いということにならんかね」

「その通りです。なので、まずは割に合わなくなるレベルまで財産を分割して、それぞれに別の認証を施す事をお薦めします」

「なるほど……ここまで聞く限り、私の望むような完璧な認証装置、というのはできなそうに聞こえるが、それで合っているかね?」

「ええ。様々な認証技術を組み合わせて、認証を突破できる確率を限りなくゼロに近づけることはできます。でも、それをゼロにすることはできません。

実際、今申し上げた様々な認証方法を組み合わせることで、かなり強固な認証システムを作ることはできます。でも、認証を突破せずとも、システムそのものをクラックするとか、物理的に破壊するという方法もあります。さらに言えば、あなたの身内を誘拐して脅すことで、あなたに認証させるとか、何かしらの手段であなたを騙すなり誘導するなりして、財産を奪う方法だってあります」

「ふむ……」

「認証に限らず、どのようなシステムでも、100%というのはあり得ません。もし100%を謳うものがあるとしたら、それは詐欺か魔法の類のものです」

「セキュリティの第一人者である君がそう言うのなら、そうなのだろうな」

「はい」

「そうか……完璧なものは無理か」

金持ちの表情は明らかに不満げだ。しかし、同時にどこか納得した様子も見える。


「では、完璧ではないにせよできる限り完璧に近いものを作ったとして、だ」

「はい」

「そうだな、仮に君の言うとおり生体認証を複数つかうとしよう。その場合、ワシが事故にあい、手足や目など、認証に必要な部分を失うことになったらどうするのだね」

「そこは正直難しい問題ですね。一つの方向としては、認証方法を多くしておいて、全ての認証方法が一度に失われる確率を下げる、というのがあります」

「しかしこれからの時代、脳だけでも生きていれば、全身を一気に機械化して生き延びることだってあるわけだろう? そうしたら生体認証のほとんどは認証できなくなるのではないかね?」

「仰る通りです」

「その場合はワシは一体どうやって認証すればいいんだ?」

「ご本人である、ということを私どもに証明いただいて、私どもがしかるべき手段で認証を設定し直すことになるかと思います」

「それをどうやって証明したらいいのだね」

「それは……そうですね、たとえばご家族などの身内のかたなど、あなたの事をよく知る方に「この人は確かにあなたです」という事を証明していただくことになるかと」

「それこそワシの家族が脅されたり何か騙されたりしていたらどうしようもないな」

「そうですね。他には例えばご本人しか知らない情報を私どもに事前に共有いただいて、その情報をもとに確かめる方法もありますね」

「合言葉というやつか」

「古典的な手段ですが、それなりに効果はあります」

「ふーむ。しかしそうなってくると……前提として君たちは認証を解除できる、ということになるはずだな」

「そうですね。そこは私共を信用していただくしか」

「ああ…気を悪くしたのならすまない。君たちのことを全く信用していないわけではないのだ。ただ、君がさっき言っていた通り、最終的に一番大きなリスクは人だというのをこれまでに何度となく経験してきているのでね」

「そうですね…もちろんその際の確認なども考えうる中で最大に安全な方法をご用意させていただきますが。あとはその点もし不安であれば、保険などをかける、というお話になるかとは思うのですが」

「私の財産をすべて補償しきれる保険などあるかね」

その一言にはさしものセキュリティ研究の第一人者も言葉に詰まる。

「そしてその保険の受取人がワシ本人であるということを、どう保証する?」

「それは……」

安全、というのは突き詰めればキリがない。安全というものを確実にしようとすればするほど等比級数的にコスト膨れ上がるし、複雑で実用性のないものに近づいていく。

研究者が答えられずにいると、金持ちはふと漏らした。

「しかし妙な話だな…ワシがワシであり、他の誰かではない、ということを証明するだけのことがこんなにも難しいとは」

「そうですね…」

「そもそもワシとは一体なんなのだ…」

金持ちはその後、哲学に傾倒していったと風のうわさできいた。

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