運命の人

路地裏の、小洒落た小さなバーの片隅。

隣り合ってグラスを傾けるのは、一組の男女。

「不思議だなぁ、君とは初めて会った気がしない。なんだか懐かしい心地がするよ」

ウィスキーのグラスを傾けながら、男がふとそんなことを口にする。

40代に差し掛かろうか、というくらいの年齢だろうか。それなりの時間の流れと経験が、その肌や声に刻まれている。

「あら、こんな年増を口説いたって何もいいことないわよ」

隣の女はやや自嘲気味に返す。こちらも同じく40代手前くらいだろうか。特別美人というわけではないが、どことなく品と色気を感じさせる。

「いや、口説くとかじゃなくて……。ほんとに何だか懐かしいような、そんな気がね」

男は酒のせいなのか照れなのか、顔を赤くしながら言った。

話の内容からお察しの通り、二人は初対面。たまたまバーで席が隣になっただけ。そんな仲だ。

「……口説こうとしてるようにしか聞こえないのだけど?」

「いやいや」

からかうように言う女に、男は照れたような、困ったような、そんな様子でかぶりを振る。

実際のところ、男のしゃべり方も態度も女性に接し慣れている感じはない。

(まかり間違っても女性を口説いて回るタイプではなさそうね)

そんなことを考えながら、女は手にしたカクテルグラスを口元に運んだ。

「なんて言ったらいいのかなぁ……何か古い友達に会ったみたいな感じというか」

「似た人が知り合いにいた、とか?」

「うーん、そういうのでもないんだよなぁ……」

どう説明したらいいものか、というかそもそも説明できるのかすら怪しい自分の感覚に、男は渋面になる。

「もしかしたら前世で会ってたのかしらね」

茶化すように言う女に、ひたすら思案顔の男。

「……あっ」

急に思い立ったように、男が声を上げる。

「キミの好きなもの、当ててみていい?」

「なあに突然?」

「いや……なんだろう、ちょっとしたインスピレーション、みたいなもので」

「ふぅん……まあ、いいけど」

「えっと、君の好きなものは…」

躊躇うような小さな間。

「タイ料理、特にトムヤムクン、じゃない?」

「えっ……正解」

女は素直に驚いた様子で答えた。

「で、好きな色は……黄色」

女の表情が驚きから次第に訝しむものに変わる。

「私達、前にどこかで会ったたことある?」

「い、いや、ないと思うけど……」

「……じゃああなた占い師? それとも私の事を調べている探偵さんか何かかしら?」

「いや……なんだろう、ええと、君がそれを前にして嬉しそうにしてる様子が頭に浮かんだだけで…」

「そう……」

しどろもどろになって答える男の様子を見ながら、何かピンときた様子。女性の表情には、少し違う色が混じった。

「……じゃあ、私もちょっと当ててみていいかしら?」

少しだけ小悪魔めいた、悪戯めいた色。

「あなた、お医者さんでしょう?」

「えっ…」

鳩が豆鉄砲を食らったような顔、とでも言うべきか。男が少々間の抜けた表情になる。

「あってる?」

「……正解。もしかして僕にかかったことある?」

「ううん、女のカン、ってやつかな」

女は少し意地の悪そうな笑顔で応じた。

「そう……」

男は視線を外し、急に思案顔になった。

「そうか……」

しばしの沈黙。

店内に控えめに流れるジャズが淡々と時間を刻む。

男は手にしたグラスを数回からからと鳴らし、何やら物思いに耽っている様子だ。

「どうかしたの?」

「いや……」

男は応えない。


しばらくして、男は何かの意を決したようにぐいっとウィスキーを飲み干すと、再び女のほうを向いた。

その目には、何やら真剣なものが見える。

(……あ……しまったな)女は胸の内で小さく舌打ちをした。

「これはもしかして……運命というやつなのかも」

男は数十年探し続けた秘宝に巡りあったような、したたかな歓喜のこもった声でそう言った。

「こんな、出会ったばかりで言うのも変なんだけど……その……僕とお付き合いを……」

軽い気持ちや冗談で言っているのではないのが否が応でもわかる。

女は心底反省した。ちょっとイタズラ心を出しすぎた。

「まって」

『ストップ』のつもりで左手のひらを男に向ける

「……ごめんなさい、私、夫がいるのよ」

確かにその左手の薬指には銀色の指輪が輝いていた。

「えっ……」

男の表情から、さぁっと色が引いていく。

「……ごめんなさい」

「……」

男は「すまない」とだけ言うと、バツの悪そうな表情で立ち上がり、会計を済ませるとそそくさと帰っていった。


「もてるのね」

横で一部始終を見ていたママがちょっとだけ嫉妬じみた調子で言う。

「やだ、やめてよ~」

女は少し照れたように笑いながら、顔の前で手をひらひらさせる。

「……コツとかあるなら教えてほしいものだけど?」

ちょっとだけ意地悪げな口調言うママ。

「ううん、コツとかそういうのじゃなくて……っていうかほんと困ってて……」

「……?」

「たまにあるのよね……こういうこと」

女は視線を落とし、カクテルグラスに少しくちをつけ、続ける。

「今流行ってる、脳に記憶とか情報を書き込んで賢くなるっていうのあるじゃない?

あれのお医者さん向けのに、私の夫の記憶を元にしたものがあって。

それに私についての記憶がちょっと混ざっちゃってるらしくて。

結構いるらしいの。会ったこともないのに、私の事を『覚えてる』人……」

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