第3話
吉野に電話が着てから一週間後、冬の到来を感じさせる日の深夜。帝都ホテルの迎えに立つビルの屋上に吉野はいた。屋上に吹き荒れる冷たい夜風が吉野の耳を音を立てながら掠めていく。吉野はジッとこれから訪れるシャッターチャンスを待っていた。
先ほど電話を受けていたのでそれがそろそろ訪れることは知っている。
向かいにある帝都ホテルの最上階のスイートルーム。
吉野のいるビルの屋上からファインダーを覗けばよく見渡せるその部屋にターゲットはいた。吉野は黒い毛布を被って闇に紛れているので、よほど注意深く見渡せなければ姿が見えないはずだったし、仮に吉野の存在がターゲットに知られてしまっても、その時は既に吉野がシャッターを切った後なので何も問題はない。
吉野は負けのない勝負にいるということを自ら言い聞かせ、ターゲットの部屋に女が入ってくるのを確認した。しかしそれだけではまだ浅い。音を気にする必要はないのでシャッターは遠慮なく切るが、もっと決定的な写真を吉野は求めていた。
ターゲットの男は近頃、週刊誌を騒がしている衆議議員の山本だった。部屋に入ってきた女は持っていた鞄を床に置くと、着ていたコートを山本の目の前で脱ぐ。彼女の身体は黒いボンテージで覆われていた。床に置いた鞄の中から縄と鞭を取り出すと、見計らったように山本は自らのシャツのボタンを外し始める。
吉野は少しずつ露になっていくその醜い身体に対して眉を顰める。
一時間もしないうちに、山本はそのつきでた腹が醜い身体を縄で縛りつけられて猿轡をされたまま全裸で床の上に転がっていた。鞭で叩かれた身体は赤く腫れている。ボンテージ姿の女王様のヒールで股間を執拗に踏まれて、頭を小刻みに動かし苦悶とも恍惚とも取れる表情を繰り返す山本。その姿を吉野は冷静にフィルムに収めていった。成人写真を毎日撮っていた経験が生きたな、と自嘲気味に仕事を終えた吉野は、山本のプレイが終るより先にその場所を後にした。
ビルの非常階段を降り道路に出た吉野は、帝都ホテルの前に並んでいるタクシーを拾って赤坂に向かった。
被写体は綺麗な服を着たスタイルの良い女性から、裸でSMプレイを楽しむ醜いおっさんに変わったが、今日ビルの屋上で人目を忍んで盗撮をした興奮が、記憶の墨に隠れていた若い時に必死でカメラを学んでいた希望に満ちた日々を思い出させた。
青山通りを左折して外苑東通りを進む。こうやって都心のネオンをタクシーの中から眺めるのは久しぶりだった。バブルの時に比べたら大分落ち着いた街と微かにドアの窓に写る自分の顔を見て、多くの時間が流れていったことを吉野は実感する。
東京ミッドタウン付近で降りた吉野は裏通りに入り、待ち合わせ場所の会員制クラブが地下にあるビルに入った。エレベーターを出ると、白いタキシードを着ている男が立っていた。吉野はその男に「秋谷という人間が先に入っていると思うんだけど」と言うと、男は伺っております、とだけ言う。間髪入れずに他の男が現れて、吉野はその店の一番奥の部屋に案内された。
「ごゆっくりどうぞ」
店の男が扉を開くと、薄暗い部屋の中で秋谷がいた。テーブルには秋谷のためであろうアルコールが一つ置いてあった。その後ろにはバーがあり、棚には様々なボトルが並んでいた。
「ご苦労さん」
秋谷が口を開く。
扉が閉まると、それまで薄暗かった部屋がより暗くなったように吉野は感じた。「何か飲むか?」
「ホワイトロシアン」
「そんな甘いもん飲むなよ」秋谷は立ち上がり背後にあるバーに向かう。「こういう場所、初めてだろ?」
「不思議な空間だな。バーテンダーのいないバーって感じだ」
初めてだよ、と素直に吉野は答えなかった。
「プライベートルームみたいな部屋でさ。酒つきで部屋を貸してるんだ。金持ち連中の間で流行ってるんだ。こういうのを借りて、親しい人に酒を自ら振舞うのが」
「わからねぇな。金の持ってる連中が考えてることは」
「プライベートバンクっていうのもあるんだぜ。わざわざ香港とか上海に行ってまで口座を開きに行くんだ。馬鹿だろ。流行ってるからって理由だけで、多くの金持ち連中が作ってる。もちろん流行るには色々理由があるんだけどな」
吉野は朱色のソファに腰掛けると、床に置いたショルダーバックからカメラを取り出した。
「ホワイトロシアンは生クリームは必要だっけ?」と秋谷が訊く。
「なければ牛乳でも」
「大丈夫だよ。生クリームはある」
秋谷は慣れた手つきでカクテルを作っていく。
「うまいもんだろ」
テーブルに白と茶色のコントラクトが美しいホワイトロシアンを秋谷が置いた。「よく先生連中に作らされるんだ」
「ホワイトロシアンを?」
「あらゆる酒をだよ。何を頼まれてもいいように本を買って練習だってしてたさ」
「大変なんだな。政治家の秘書は」
「カメラマンだって同じだろ?」
「あぁ」と吉野は呟いた。「まぁそんなもんかな」自分が日々の糧を、ポルノ写真で得ているような人間だとは秋谷には黙ったままで、カメラマンとしての誇りを何年も前にどこかへ置き忘れてしまった吉野にはそう呟くだけで精一杯だった。
「どうだった?」秋谷が訊く。
吉野は手に持っていたカメラのディスプレイに先ほど撮ってきた写真のプレビューを出して、秋谷に手渡した。
「お前に頼んで良かったよ」
カメラのディスプレイを覗き込む秋谷の顔に微かに笑みが出た。その姿を見て吉野は、初めて自分の犯した事とそれを自分に実行させた秋谷という男への恐怖を感じた。
「よく撮れてるだろ」
吉野は既にタクシー内でほとんどの写真のチェックは済ませていた。
「あぁ。これが前金だ」
カメラをテーブルの上に置くと秋谷の胸ポケットから茶封筒が出てきた。余りも唐突に出てきたそれを吉野は「おう」とだけ応じ受け取った。
「お前、フリーランスって言ってたよな? 念のためだけど、その金は所得として計上しないでくれよな。確定申告とか管理してもらってる税理士に言う必要もないし。この世に存在しない金だから」
「わかってるよ」
受け取った封筒の厚さは思ったよりも薄かった。本当にその中に百万が入っているかすぐに確認をしたかったが、秋谷へのささやかなプライドからか吉野は平静を装ってショルダーバックにそれをしまう。
「酒、せっかく入れたんだから口つけろよ」
吉野はマドラーでホワイトロシアンをかき混ぜた。白と茶色のコントラストの境目が捩じれて、ほどなく互いを染めていき二つは一つの色になった。
「レコードもあるのか」部屋の奥に佇んでいる蓄音機に目配せしながら、吉野は重みが腕に染みるグラスに口をつける。
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