第2話

 暗き天を衝く黒い摩天楼。光を失ったひび割れの電光掲示板。がらんどうの店のショーケースに立ち続ける、右手首を失ったマネキン。タイヤを奪われたまま錆び朽ちている廃車に、ぽっかりと真っ黒な口を開けるビルの窓。

 かつては世界にメガシティとまで言わしめたこの地も、今となっては困窮者が蟻の如く集るゴーストタウンと化してしまった。ネオンでギラギラ輝いていた通りは病人の呻き声に溢れ、身寄りのない死体は埋葬もされず暗がりに打ち棄てられる。豪勢な巨塔群の陰では強盗が平然と行われ、無法地帯と化した暗闇は犯罪の巣窟となっていた。

 ――――何一つとして満たされず、全てが何処か欠けている街。

 しかし、その歪みに異を唱える者は誰一人存在しない。それもそのはず、街がこんな有様では、皆自らの身を守るのに手一杯で、誰かに手を差し伸べる余裕なんてあるはずが無い。

 地割れだらけの大路に立って凄惨な街の様子を眺めていた少年は、黒い瞳を下ろし、ぶかぶかのフードを深くかぶる。ボロボロのジャンパーはどう見ても体とつり合いが取れていないようで、裾の方が少年が歩くのと同じリズムで地面を擦っている。平べったいリュックサックは背後霊のように背中に張り付き、少年の足取りを重くしていた。

 月の無い夜の路は妖しげな闇に包まれて、地表は夜霧によってじっとりと覆われていた。廃道は妖怪がたむろしていてもおかしくない程不気味で、ひゅるりと流れる北風がうなじをくすぐると、思わず背筋に寒気が走った。

 少年は大通りから裏路地へ、幾つかの道を渡り歩き、小さな三階建てのビルの前まで来るとようやく足を止める。

 ドアに施された最新式のオートロックは、全てのライフラインが断ち切られた今、その役目を果たすことは無い。ギィーと苦しい音を立ててエントランスのドアが押し開けられると、細かい埃が風に煽られて少年の顔に降りかかる。

 少年はそれを気にすることも無く、歩調を気持ち早めて真っ暗なホールを横切る。最奥まで歩くと、〝PANIC ROOM〟と書かれた扉を三回ノックして、

のぞみ、ただいま」

 重い扉を押し開けると細い光の筋が隙間から差し込んで、闇のホールに僅かな光を下ろした。その隙間に体を滑り込ませ、誰かに見られる前に急いで扉を閉める。扉を開けてすぐは地下階段になっていて、歩を進めるたびに奥から差す光は強さを増してゆく。

 遂に一番下の段に足が着くと、そこには思いがけないほど巨大な地下室が広がっていた。

「おかえり、お兄ちゃん」

 ほとんど何も無い部屋の中に一つポツンと置かれたベッドの中から、掠れた少女の声が発せられる。ベッドとはいっても、高さが床から若干上がり、寝返りで落ちないように簡易柵を設えて、薄っぺらい布を敷いただけの物だ。しかし、それでも彼女を冷たい床に直接寝かせるよりはましだろう。

 少年はベッドの傍まで行くと、希の眼の高さまで腰を低くして話しかける。

「何処か変わったところはある? ちゃんと薬は飲んだ?」

「うん。今日はいつもより調子がいいみたい………」

 希は青白い顔をもたげて少年に微笑みかける。しかし、その頬は痩せこけ、眼窩がんかは落ち窪み、筋肉の無い腕はいたく細い。少し力を籠めるだけでもポキリと折れてしまいそうな矮躯わいくは、傍目に調子がいいようには見えず、実際無理をしているのだろうが、どうやら彼女は少年を安心させたいようだ。

 少年は彼女のお提髪をやおらに手でいて、笑みを浮かべる。希がそんなに頑張っているのに、自分の疲れを見せる訳にもいかないだろう。

 よわい七歳になるかどうかというまだまだお転婆のこの時期に、相手の事を気遣って作り笑いを浮かべるというのは似合わない。大人びた笑いの裏には、精神的な老いが確実に見て取れた。

 希は急性白血病という病気に罹っているらしい。どうやら、避難所に来る前に核兵器によって被爆し、その影響で細胞に異常をきたしたらしい。

 ずっと昔にこの病気の事について大人に尋ねた事があったが、まだ幼かった当時の少年はその半分も理解する事が出来なかった。しかし、その頃の少年にも希の症状がただ事では無い事は分かっていたようだ。だからこそ、〝血が繋がっていない〟希と、兄妹であるかのように面倒を見始めたのだから。

「お兄ちゃん? どうかしたの?」

 ハッと見下ろすと、少年を見上げて心配そうな顔をする希の姿があった。

「大丈夫だよ。ちょっと疲れてるだけだから。一日寝れば治るよ。それより、今日も食欲は無いのかい?」

 少年が問いかけると、希は縦に小さく首を振る。

 少年は小さく溜息を吐いて懐に入れた袋を取り出す。その中からパンを一握りだけ千切り取ると、申し訳なさそうに俯く希にそっと差し出す。

「食べられないならしょうがないよ。でも薬を飲むのにお腹が空っぽなのは良くないって言うから、これだけは食べな」

 希はしばしその小さな欠片を見つめていたが、意を決するとひょいと摘まんで一息に口に放り込んだ。ムグムグと口を動かし、ゆっくりと飲み込むと、疲れたのかまた体を寝かせた。

「希? 寝るんならクスリを飲んでからにしなよ?」

 そう言って顔を覗き込むと、まだ寝てしまったようでは無いらしい。

 開いた眼に静かな不安をたたえて高い天井を見上げる希。

「ねぇ、お兄ちゃん。私はいつになったら遊びに行けるようになるのかな?」

「それは――――」

 少年は答えようとして声を詰まらせる。

 今までこの問いが繰り返されるたびに、少年は「もうすぐだよ」と嘘をついて曖昧な回答をしてきた。だが、それも限界が近づいて来ている。

 避難所に居た頃は定期的に薬の支給があったが、その頼みの綱ももう切れた。数週間前に起きた避難所内の内部分裂によって、もはや安全な場所とはいえなくなったからだ。それから少しの間は伝手を頼って何とか薬を手に入れる事ができていたが、その相手もどこかに身をくらましてしまった。

 残る薬は四、五日分程度。それが無くなれば、希の命は一カ月も持たない。いや、薬が一時的にでも切れてしまえば、それだけで希の体調は酷く悪化する。高熱に重度の貧血、おまけに著しい免疫力の低下と、今のこの状況では命取りになりかねない症状がそろっている。一度でも体調を崩すと、なし崩しに死に近づくのは分かり切った事だ。つまり、実質的なタイムリミットは五日だけしかない。

「大丈夫だよ。お兄ちゃんが何とかしてやる」

 内心解決できる自信は無かったが、希の前で不安な顔を見せてはならない。精一杯頼もしい声を作って語りかける。

 すると、希も安心した表情で笑った。

「ありがとう、お兄ちゃん。それじゃあ、私はもう寝るね」

 そう言って頭を枕に落とした。

 希は会話をしているだけでも消耗してしまっていたらしい。可愛らしい寝顔に、安らかな寝息を立てて眠る希。顔にかかる前髪を手で払う。そのままその愛おしい頭を撫でてやりたいと思ったが、内出血を懸念して諦めた。

 希のためなら何でもできる。

 少年がそう自負するのは、それに値するだけのものを彼女から貰ったからだ。世界が灰に覆われたあの日、少年は一人で避難所に居た。両親は共に連絡が取れず、孤独に打ちひしがれて泣いていた時、少年を前に向かせてくれたのが希だった。

 自分よりも幼くして家族を失い、死の病魔に侵されていても笑顔を見せる希を見て、少年はその笑顔に初めて心を動かされた。全てを失った少年は、希を守ることを新たな生き甲斐として、希を最も近くで見守る事を誓ったのだ。あれから幾年の時が流れて、希の存在がどれだけ足枷になろうともその思いが潰えることは無い。ここまで腐ることなく人生を送ってこれたのは、ひとえに希がその笑顔を向け続けてくれたおかげだからだ。

 これまでの辛くも孤独では無かった生活を失いたくない。その一心を胸に秘め、少年は明日も希のために動くのだった。


 ハッと目を覚ます。

 考えごとをしている内に、いつの間にか眠りこけてしまったようだ。半身だけベッドにもたれかかって寝たせいか、体がガチガチに固まってしまっている。軽く伸びをしながら壁掛け時計を見ると、既に正午を回っていた。最近は薬を手に入れるために昼夜を問わず街中を歩き回っている。あまり意識はしなかったが、疲労が溜まってしまっているようだ。

 だが、そんな事に時間を割いている暇はない。うかうかと寝ていた間の時間を取り戻すために、少年は立ち上がった。

 体に被る埃を払い、ついでにベッドで眠る希の顔を覗く。

「――――………嘘だろ」

 しかし、霞む瞳に映ったベッドには、希の姿が無かった。信じられない事態に、思わず瞼を擦って二度見する。しかし、ベッドは黒い人型が染みになっているのみで、もぬけの殻のままだった。

 少年は真っ白な頭で呆然と立ち尽くした。

「――――希?」

 その声に対する返事は――――ない。

 ここまで来てようやく事態が飲み込めた少年は、はやる気持ちを抑え、あくまで冷静に現状を分析する。

 寝ている間に何者かが押し入って、希を攫って行ったのかとも思ったが、その可能性はすぐに否定した。風の入らないこの部屋は埃が溜まりやすい。希のベッド周りだけは掃除していたが、他の床は埃に覆われているのだ。その上を見てみると、小さな足跡が一つだけ、短い歩幅で階段の上まで続いているのが分かった。つまり、希は自分の意思でこの部屋を抜け出したというわけだ。

「でも何で。どうして出て行っちゃたんだ」

 今の街の治安は最悪だ。希のような力の弱い人間は、いつどこで強盗に襲われるか分からない。特に白血病を抱える希にとっては、少しの暴力でも致命傷だ。何かの拍子に肌が傷つけば、大なり小なり出血が止まらなくなってしまう。

 早く希を保護しなければならないが、手がかりが無い以上虱潰しらみつぶしに街を捜す他無い。何か効果的な捜索法を立ててから行くべきだろうが、今の少年にはもはや考える時間すらも惜しかった。少年は靴のかかとを潰したまま、荒廃した街に駆け出した。


 ――――それから数時間、少年は希を捜して街中を走り回った。あまり目立つ行動をすると何処の犯罪者に目を付けられるか分かったものじゃないが、この際そんなことを気にしている暇はない。形振なりふり構わずに捜し回った結果、少年のコートは土埃にまみれて、あちこちが解れてしまっている。だが、少年が知りうるどの道どの建物を探しても、希はいなかった。

 栄養失調の体に重労働がたたったのか、いよいよ棒と化した脚が崩れ、少年は倒れこむように腰を下ろした。足の裏がズキズキと痛み、これ以上歩くと疲労骨折でも起こしそうだった。

 燻る闘志に追い打ちを掛けるように、冷たい時雨が降り出す。分厚い雲の向こうでは暗い太陽が弱々しく燃えていた。

 何とか歩こうとするが、震える足は完全に使い物にならず、立ち上がるだけで酷い眩暈に襲われてしまう。激しい雨が熱を持った体を冷やそうとするが、益々体は熱さを増す一方だ。

「………休んでる暇はない」

 しかし、踏み出した一歩は余りにも脆く、勢いそのまま前のめりに倒れてしまう。気合だけを頼りに突き進んできたが、それも限界のようだ。

 少年は体を捻って上を向く。間も無く降りしきる冷たい雨が、火照る頬を濡らした。地面に掌を刺して体を起こす。しかし、その先が続かず、芋虫のように膝をついて這って動いた。

 ――――その時だった。

 滴が体を叩く感覚が消え、代わりにくぐもった雨音が耳に響く。ぼんやりとした視界の中に、黒のスニーカーが見えた。薄れゆく意識の中でゆっくりと見上げると、白いヴェールに包まれた世界で、誰かが自分に手を伸ばしているのを見た。

 直後、少年の意識は完全に切れ、体から力が抜ける。地面は雨の所為で泥濘ぬかるみとなっていたが、顔が地面に着く直前に眼の前の人物によって抱き留められた。

 その人は右手のビニール傘を放り出し、冷たい雨から少年を守るように胸に密着させる。そして、振動を与えないようゆっくりとした足取りで歩き去っていった。


 風が熱を持った額を撫で、その冷たさに目を覚ます。重い瞼を持ち上げ、最初に目に入ったのは、視界を埋め尽くす黄色の天井だった。どうやらテントのようなものの中に居るらしい。幕越しに見える光量にかんがみるに、まだ日の入りは迎えていないようだ。

「あっ、意識が戻ったんだ。まだ微熱があるから起きない方が良いと思うよ」

 少年がもぞもぞと起きようとすると、視界の外から人の声が聞こえてくる。そちらに目を向けると、全身を深藍のローブに身を包んだ、まるで魔法使いのような風貌をした青年が一人椅子に座って少年を見ていた。恰好だけ見れば不審者とも受け取れるが、青年の周りに飾られた緻密な絵画が、それ以上に少年の興味を引いた。青年が描いたものなのだろうか。

 暫く絵に見とれていた少年だったが、自分が何をしていたのかを思い出し、慌てて立ち上がる。

「助けてくれてありがとうございました。でも、僕急いでるんで、失礼します」

 そう言って歩こうとするが、ふらついて膝をついてしまう。

「落ち着いて。そんな体じゃ、歩くのだって精一杯でしょ。〝急がばまわれ〟ってやつだよ」

 少年は少し冷静になって考える。今の体で捜索を続けてもすぐにまた倒れてしまうのがおちだ。それならば、一度足を休め、方針を立ててから捜し始めた方が賢い。そう結論付けた少年は足を投げ出して床に座った。

 それを見た青年は少年の傍まで来て、湯飲みに白湯を注いで渡す。

「私は翔。世界中を旅して周る画家だよ。困ったことがあったら何でも言ってね」

「ありがとうございます。それにしても驚きました。まさか看病までしてくれるなんて………」

 青年――――翔さんは柔らかい笑みを浮かべて話す。

「そりゃ私だって普段はこんなことしないよ。でも、君とあの白血病の女の子の事は昔から知ってたからね。本物の兄妹以上に強い絆を持ってるんだなって感心して見てたよ」

 そう楽しげに語る翔さんの表情には、子供の成長を見守る大人の純粋な喜びが垣間かいま見えた。この街で良心の有る人に出会えただけでも奇跡だが、自分を知っているとなると更に稀有けうな事だ。

「そうだったんですか………。ところで、世界中旅しているって本当ですか?」

「一応そうなるかな。もっとも、君が考えている世界とはだいぶスケールが違うと思うけどね」

 翔さんはそう言って、無造作に積まれた、丸まったキャンバスの内の一つをひろい上げて少年に見せる。

「私が被写体にするのは異世界の景色だよ。地球にいては体感できない素晴らしいエネルギーを、絵で表現するのが私の流儀なのさ」

『異世界』一瞬何のことか分からなかったが、頭の隅に聞き覚えがあり、すぐに思い出した。

 ずっと昔、たしかまだ両親が生きていた頃に、世界線転移装置、いわゆる異世界転移を可能にする機械が開発されていたという話を聞いたことがある。当時はまだ論理研究段階で、実現は十年は先になると言われていたが、どうやら完成していたらしい。

「地球で起きたいざこざから遠く離れ、誰一人にも関わらない、波の無い世界に身をおいて時間を感じる。誰にも、何にも縛られることなく、自分の真情のままに年を重ねていく。この生活は本当に最高だよ」

 翔さんが見せてくれた絵は、空を描いたものだった。ただ、青々とした天と、徐々に白んでゆく大海原が交わる一点までを描き尽くした一枚の絵。それは紛れもなく絵にすぎなかったが、それをみた少年は、そこで流れる波音や海風が、まるで本島にその場にいるのように鼓膜を震わせるのを感じた。

 それはきっとこの絵を描いた翔さんが見聞きした感覚なのだろうと少年は思う。細かい線に刻まれた感情が、絵の具に滲み出た思いが、この絵を通して少年の心を揺さぶっていた。

「これが異世界ですか………何て言うか………心が洗われるような気がします。でも、どうして科学者はこの技術を公表しないんでしょうか? この技術で異世界に移住をすれば万事解決だと思うんですけど」

 少年の疑問に、翔さんは神妙な顔をして答える。

「果たしてそうなのかい? 科学者の方々も最初はそのつもりで研究していたようだけどね、いよいよ完成って時にその考えが間違っていることを知ったのさ。異世界に移住したとしても人間の本質が変わるわけじゃない。異世界にまで手を下して破滅の未来を繰り返すくらいなら、いっそ地球の中で全てを終わらせよう、ってね」

 初めて耳にした話に少年は戸惑いを隠せない。つまり、人類は唯一とも言える生存の道を、自ら断ったということだ。衝撃的な話をではあるが、同時にそれに共感するところがあるのも事実だ。限界状態に陥っても自分の利益しか考えず自壊した人間を見ている限り、リスタートをして発展しても同じ道を辿る未来は見え透いている。

「この件についての考えは人によって千差万別だけど、私はこの考えに賛成かな。その結果自分が死ぬとしても、間違った選択だとは思わない」

 死ぬか生きるかという状況において自らを鳥瞰ちょうかんし、自分の信じるところを貫こうとする姿勢には感嘆を得ずにいられない。

 この時、少年の中に一つの案が浮かんだ。普段は好んで他人と関わる事はあまりないが、この人ならば頼ることができるかもしれない。

「すいません。無理は承知なんですけど、話を聞いてもらってもいいでしょうか」

 少年は座ったまま頭を下げて、翔さんに頼み込む。正直断られることを予測しての頼みだった。自分がその立場だったら間違いなく断るだろうからだ。

 しかし、翔さんは嫌な顔一つせずに微笑んだ。

「はいはい。そう来るだろうと思ったよ。話してみな」

 予想以上に簡単に承諾を受けて、少年は拍子抜けする。青年はそれを読んで、ふっと笑って言いのけた。

「君が自分の身をなげうって彼女を助けようとしているんだから、大人としてそれを助けないわけにはいかないよ」

 助けを出してくれるだけでなく、こんな暖かな言葉をかけられるとは思っていなかった少年は、涙が出そうにすらなった。しかし、すぐにはいと威勢よく答え、今日の出来事を細かに話した。

「――――成る程。街の何処を捜しても希ちゃんはいなかったと。捜索漏れがあった可能性はあるかい?」

 翔さんははさっきとは真逆の、真剣な鋭い眼差しで聞き受ける。

「無いです。この街のことは、なにも見なくても地図を書けるぐらいにはよく知っていますから。ちなみに、街中の知り合いにも訊いてみたんですが、目撃者は一人もいませんでした」

 そもそも街とは言えど、その実、人が行動できる地域はほんの百メートル四方程度しかない。それは、絶え間なく押し寄せる汚染を浄化する環境維持装置が機能する限界範囲だ。その中心は科学者たちが研究をする巨大なビルで、周りには元避難所が点在している。その先は生物兵器によって汚染されており、無防備で立ち入ればものの数分で細胞が破壊されてしまうような場所だ。

 それを聞いた翔さんは少し考えてから、深く頷く。

「全く………人間というのは良い方にも悪い方にも愚かなもんだ」

 そういって立ち上がると、地べたに座る少年の前まで歩いて、左手を差し出す。

 その手の意味が理解ができず、不思議そうに見つめる少年に一言、

「希ちゃんを迎えに行こう」


 ――――半開きの扉を抜けると、一番に雨上がりの冷たい陰風が体を包んだ。夕暮れに近い空は、雲の裏に太陽が隠れて非常に薄暗く、肌寒かった。

 翔さんに連れられてやって来たのは、なんと少年と希が住み家にしていたビルの屋上だった。灯台もと暗しと言おうか、あまりにも近すぎて考慮するに至らなかった場所だ。それにしても、口伝えの情報だけでこの推測が出来る翔さんには脱帽だ。

 塔屋を出てすぐに、少年は向かい端のフェンスに寄り掛かり座る小さな人影を見つけた。少年はその姿を確認するや否や、五体がボロボロなのも無視して、翔さんに貸してもらっていた肩を離れ駆け出す。

「希! やっと見つけた………」

 駆けた勢いそのままに、しかし優しく希の華奢な肩を抱き締める。すると、希の閉ざされた薄いまぶたが、僅かな隙間だけ開いた。

「お兄ぃ………ちゃん? 何でここに来ちゃったの………」

 隙間から覗く瞳孔は不安定に揺れていて、雨に濡れた体は酷く熱い。相当衰弱はしているものの、胸を通して感じられる微かな鼓動は希がまだ生きていることを証明していた。

「それはこっちの台詞だバカ………お前が居なくなって本当に心配したんだからな………早く帰ろう、な?」

 どっと溢れ出す安堵に、張り詰めていた緊張が解け、言葉に嗚咽おえつが混ざる。沸き上がる涕泗ていしでぼやけた視界を袖で拭い、改めて希の顔を焼き付ける。

 ――――だが、ようやく見ることが叶った希の顔には、ハッキリとした拒絶が刻まれていた。眼を見開いて、しっかりと、冷静に、心を抉る鋭さを持った瞳孔。双眸そうぼうが携える光に気圧され、少年は思わず身を引く。

「何でだよ………どうして………。ここまで希のためにここまで来たのに、どうしてお前はそんな冷たい目を向けるんだ………」

 しかし、希は目を背けるだけで答えようとはしない。悲しみにさいなまれた少年は、涙すらも失せ、ただ絶望のみが募っていった。

「――――お兄ちゃんの事が心配だったから、でしょ?」

 膠着している二人を見かねて、後ろで見ていた翔さんが声を掛けた。希は翔さんを見てしばらく迷っていたようだが、こくんと頷く。

 二人の間では通じているようだが、少年にはその首肯の意味が良く分からなかった。

 凍った声帯から空気が漏れるように、言葉を紡ぐ。

「僕が心配だったって、どうして。どこにそんな事を感じんたんだ? 僕の方こそ希が心配だったっていうのに」

 希はそれを聞いて悲しそうに目を伏せる。そして、消え入りそうな声で語りだした。

「お兄ちゃんには本当に感謝してるよ。――――でも、お兄ちゃんは優しすぎるから、私の事ばっかりで、お兄ちゃん自身の事を大事に出来てなかった」

「そんなことは無い! 僕はただ希のためを思って………」

「お兄ちゃんは分かってない。お兄ちゃんは私のために動いてくれるけど、それでいつも疲れて帰って来る。それでも私の前では平気な振りをして、優しく看病してくれるお兄ちゃんを見るたびに、どれだけ私が申し訳なくて、辛かったか、お兄ちゃんは分かってない」

 病体のせいでとてもか弱い声だったが、その中には真に迫った激情が響いている。声の代わりに、眼光が、唇の震えが、手先に入った力が、静かな怒りを表していた。

 余りの衝撃に声が出せない。

 少年は希を守りたくて、希の笑顔が見たくてそのために命を燃やしてきた。だが、その行動こそがそれが希を苦しめていたというのだ。希に対する言動が全て自分のエゴイズムで、希との軌跡きせきが望まれたものじゃ無かったとしたら? 自分の存在価値とは何だったのだろうか――――

 少年は自分の中で何かが崩れるのを感じた。

「違う! 私はお兄ちゃんには本当に感謝してる。でも、もうどうやっても死んじゃう私のために時間を使うなら、お兄ちゃん自身のために生きて欲しかったの」

 希が小さな腕で少年を抱擁し、顔を胸に顔を埋める。胸を濡らす熱い滴が、少年の心を優しく融かした。茫然自失して俯く少年は、ハッと顔を上げた。

 いままで自分が元気づける側で、守ってあげる側だと思ってきたが、本当は自分こそ希に元気づけられていたことに今更気付いた。

 全てを失った少年は希を助ける事で自分の存在意義を見出そうとした。捻じ曲げて言うなら、希に依存していたと言ってもいい。それを察していて、かつ自分の立ち位置の在り方が苦悶くもんだった希は、自分が消え失せるという方法でそれらを解決しようとしたのだ。しかし、それは実質少年が今まで希に押し付けていた方法と同じだ。だれも救われることのないまま互いに虚飾きょしょくを味わうだけに過ぎない。

「だから、もうさよなら」

 少年は、唇を固く結ぶ。初めて感じる希との距離感に、どうすればよいのか全く分からなかったのだ。本当は「このままずっと一緒に居たい」と言いたかったが結局何も言えないまま幾許いくばくかの時間が経過した。

「お悩み中悪いけど、考えられる時間はそうないみたいだよ」

 近くのフェンスに寄りかかり、二人の様子を見ていた翔さんが、近寄ってきて、再び少年に声を掛ける。

「時間が無いってどういう事ですか?」

 困惑して問い返す少年。翔さんを見上げてその意味をただそうとすると、その腕の中で希の力がガクっと抜けた。

「希? どうした。大丈夫か!」

 だが、少年の叫びは希には聞こえていないようで、糸の切れた操り人形のようにぐたっとしたまま動かない。希の額に手を当てると体温は四十度近い尋常じんじょうではない高熱で、明らかに普通の状態ではなかった。

 安直に考えれば雨に降られたことによる風邪だが、それにしてはこの症状は酷い。どういう事かと希の体に触れると――――今更ながら気付いた。

「服が濡れてない――――翔さん、僕が寝込んでいたのは何時間ですか!?」

「………約二日。私が君を見つけたのとほぼ同時刻に起きたよ」

「そんな………、それじゃ薬の効果が完全に切れてる………」

 屋上にたまる水溜りの量から考えて、恐らく希は半日以上雨に打たれ続けたのだろう。薬の効果が切れ免疫力が低下している今、風邪をひくという事は、インフルエンザに罹るよりも重い症状を引き起こすということだ。

 少年は反射的に立ち上がり扉に向かって駆けだす。

「薬を取って来ようっていうならもう遅いと思うよ。間に合うなら君の話を聞いた時点でやっているさ」

 すれ違った瞬間に翔さんがそう言って少年を引き止める。少年はやるせない気持ちを胸に、翔さんの背に向かって吐く。

「なら………なら僕はどうすればいいんですか………希が死んだら、僕には何も残らないんですよ………」

 少年は目を落とし、歯を食いしばる。

 その間にも希は白血病に殺されていく。心音を確認せずともわかる。希はもう手遅れだった。

 心に積もる辛苦がおりのように少年に絡んで沈めていく。見下ろした地面がグニャリと歪んで吸い込まれていく気がした。

 翔さんは少年の方を振り返って、正面に歩み寄る。黙りきった少年の顎を手でつまみ上を向かせた。

「君は希ちゃんが言った事を聞いていなかったのかい。君はいつまでも彼女に固執こしつしている訳にはいかない」

「………それは分かってます。分かってますけど………」

 希の方を見遣ると、倒れた襤褸ぼろの下裾から青黒く変色した肉の少ない足が出ていた。希がここまでして伝えたかったもの。少年の生きる道。

 ――――少年は、自分の〝夢〟が見えなかった。

「自分がやりたいことを見つけられないんだろう」

 翔さんは優しく、とても広い声で心に訴える。今まで様々な人に会ってきたが、こんなに不思議な響きを持つ声は初めてだった。全てを知っているような底知れなさと、人間的な温かみをあわせ持った声。恫喝どうかつされたわけでも無いのに、その声は鼓膜を強く揺す振った。

「それならやりたいこと――――君の夢を一緒に探しに行こうじゃないか。地球なんて枠に囚われずに旅をしてみれば、その中で君が望む何かが見つかるかもしれない。もちろん、君が望むならだけどね」

 少年は何も言えない。そんなこと言われても何も思うことは無かった。翔さんに流されるままに承諾するのは簡単だが、それ自体に意味を見出せない。

 ――――ただ、一つ望むとするならば、

「今一番したいのは――――希の墓を作ってやりたいです」

 翔さんは大きく頷き、少年を放す。

 そしてポケットから手の平サイズの映写機のようなものを取り出してスイッチを入れる。

 すると、機械から煙の塊が黙々と立ち、その煙に向かって高解像度の映像が投射された。映像は壮大な花畑のもので、見たことも無い可憐な花々が咲き誇っている。

「………これが異世界転移装置ですか。初めて見ました」

 少年は花畑をまじまじと見つめる。それはまるで天国のように華やかで、翔さんがこの場所を選んだのも頷ける。

「ん~、若干違うけど、同じような物かな。これは記憶された座標にだけ行ける代わりに、低電力で作動するんだ。私が希ちゃんを運ぶけど、君は大丈夫かい?」

 翔さんは心配そうに少年の方を向く。少年は屋上まで登るのに、翔さんの手を借りなければならないほど弱っていた。

 しかし、少年は首を振る。錆びた絡繰からくりのように軋む骨に鞭打って一歩を踏み出した。

「いいえ。希は僕が運びます。これが兄としての最期のけじめです」

 翔さんはにこりと笑って手招きする。

「了解。夢の旅の始まりだ」

 翔さんはそう言って霧の中へと入ってゆく。少年もその後に続き異世界へと飛び込んだ。

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