夢旅

斑鳩彩/:p

第1話

 深山幽谷にそびえる無数の巨峰の一角に、まばゆい朝日が降りかかる。山陰に蔓延る闇は鮮烈な天日にさらされて霧散し、暗い夜の気配が完全に消え去った後には、目覚ましい朝焼けのみがそこに残った。それは山火事とも見間違うかの如く激しい赤で、直視すれば目が焼き付いてしまいそうである。彼方から来る、鮮紅に染められた光の粒は、露の珠に反射し、地上に輝く綺羅星となって一日の始まりを告げていた。

 天下を駆ける朝嵐あさあらしは、轟々と唸り声を上げながら耳元を掠めて飛び去る。鎌鼬かまいたちの如く荒れるそれらは、燃え盛る木々をそよがせ巻き上げ、地獄を彷彿ほうふつとさせる情景をつくりだしていた。一際大きな波が通り過ぎると、青臭い濃密な森の大気が肺を一杯に膨らませて、思わず咳を吐き出した。

 生の気迫溢るる超自然のど真ん中。

 少年は、ただ一人、場違いにも思えるこの場所で太陽を正面に臨んで、立っていた。

 ――――いや、そうではない。

 正確に記すならば、視界を埋め尽くす美しい風景に魂を奪われ、足がすくんでしまったというのが正しい。風に髪をもてあそばれ、風に舞う葉が頬を叩いても、手足は詰め物にでもなったかのように動かすことができなかった。

 そうこうしている内に太陽は地平線から完全に抜けだし、先ほどまでの様相は跡形も無く消え去ってしまい、地上には微かに光の残滓ざんしが残るのみだ。あれだけ吹き荒れていた風も、いつの間にか何処かへ去ってしまった。

「おーい。話したいことがあるから帰ってきてくれ」

 ピンと張った空気が一気に解けてへたり込んでしまった少年の下へ、何処かからか彼を呼ぶ声が聞こえてくる。少年は慌てて立ち上がると、気概無い脚に力を込めて一歩を踏み出した。

「はい! 今行きます!」

 もつれる足を走らせ、山の頂上に向かって歩き出す。

 少年が立っている山の頂上には、ワンポールテントがぽつんと立っており、声はその中から発せられていた。テントはデザイン性など全く感じられないオレンジの単色で、その上布が薄いために中で誰かがゴソゴソと動いているのが透けて見えている。

 少年はその影が動くのを不思議そうに眺めながら、テントの幕を潜った。

「あれ、今日は珍しく早起きなんですね、かけるさん。どういう風の吹きまわしでしょうか?」

 入り口の布を開くと、そこには一人の青年が椅子に座りながら、テントの支柱を取り囲むように作られたドーナツ型のテーブルに身を預けていた。

 こちらに気付いて微笑みを向ける青年は、全身を深藍ふかあいのローブで包み、長く伸びた黒髪を背で縛っていて、ファンタジーの世界に登場する魔法使いのような風貌をしていた。そんな外見とは裏腹に、眼差しがお人好しそうで柔らかいので一見何ともちぐはぐな印象与えられる。所々絵の具がこびり付いた手は男性とは思えないほど白くて美しく、顔が整っているのも相まって中性的な雰囲気を醸し出していた。

「やぁ。おはよう。清々しい朝だね」

「おはようございます………って、会話が、繋がってそうで繋がってないんですよね………」

 少年はやれやれとばかりに溜息を吐くと、翔さんと向かい合うように作られた椅子に腰かける。その間、翔さんは朗らかな顔でお茶をすすっていた。

 こうして他愛も無い談笑をして朝を過ごすのが二人の間にできた日課だ。ただ、翔さんは朝が苦手で、普段は日が昇ってしばらく経った時間まで起きる事が無いので、それまでの間に、少年が朝食を作って一緒に食べるのがもっぱらである。そういう点では今日はイレギュラーな日だと言えるだろう。

「それで、話というのは何ですか? こんな朝早くに呼びかけるくらいですから、さぞかし大事なことなんでしょうね」

 少年は試すような口ぶりで問いかける。

「まあね。こんな機会に巡り合えることはそうそうないよ」

 翔さんは机に置かれていたノートパソコンを開き、画面を前にして少年に差しだす。

 パソコンの画面には何色かの線が何千と伸びており、それら一つ一つに細かな字で数字らしきものが書かれていた。中でも、画面中央の緑の線には、灰色で塗られた人型が乗せられているのが分かる。

 ――――これは世界線変動予測アプリと呼ばれるもので、現在世界最高峰のA.I.を最新式のスーパーコンピューターに組み込んで初めて可能になる、まさに英知の結晶と言っても過言ではない程の代物である。

 線の一つ一つは世界線――――俗称、異世界の存在する座標を記していて、このグラフを見る事で、自分が今いる世界線と周囲にどのような世界線が存在しているのかを簡単に把握できるようになっていた。

 世界線転移をするときには、この座標を使って転移先を決める。

 翔さんは、人型の乗った世界線のすぐ隣に伸びる緑の線を指さす。

「人型のいる世界線が私たちが居るものだって言うのは説明したよね。さっきこれを見ていたら、どうやらいま私たちが居る世界線に急接近する世界線があったんだ。それでこの世界線について少々調べてみたんだけど、そしたら面白そうだったからちょっと行ってみようと思ったんだ」

 ひとえに世界線とは言っても、その環境は千差万別で、緑豊かなものがあれば、火山噴火が絶えず生物が生存できないものもあり、更には一切の原子が存在せず無限に何もない空間が続くようなものもある。

 緑色の線は基本的に地球と似た環境が構築されている。つまりこの世界線は人間が生存できる可能性が高いという事だ。

「へぇ、それはどういう世界線なんですか?」

「それを言っては楽しみが無いだろう。行ってみれば分かるさ」

 少年はテーブルに身を乗り出して聞き出すが、翔さんは含みのある笑みを浮かべるだけだ。質問をはぐらかされた少年はムッと頬を膨らませる。納得がいかずに、物言いたげな目で翔さんを見つめるが、彼は涼しい顔で流すのみだった。

 翔さんはグッと湯飲みを傾け、鈍い音を立ててコップをテーブルに打ち付ける。そして、話はお終いとばかりにすっくと立ち上がり出口に歩き出した。

 しかし、二、三歩進むとふっと立ち止まる。その場でくるりと振り返ると、人差し指を立てて口を開く。

「ああ、そうそう。もうすぐに出発するから、早めに荷物まとめておいてね」

 それを聞いた少年はひどく驚いて声を上げる。

「えっ!? それはまた唐突な――――まだ絵も完成してませんよね?」

 少年はテント内を見渡し、まだ線画の状態で放っておかれている一枚の絵を見つけだす。

 それはテント前から見られる景色を描いたもので、まだ色の塗られていないモノクロームな線画ではあるものの、下手な写真よりはリアルに描きこまれている。山々の深い陰影に始まり、木の葉の一枚一枚の動きまで、ミリメートル以下にまでこだわりきったそれは、彼にのみ体現できる極致と言って差し支えない。

 彼の作品を好む芸術愛好家は、その精確で繊細な絵を、『まるで紙の中に一つの異世界を創り出しているようだ。』とさえ表現するのだ。

 翔さんの絵に対する情熱は並々ならぬもので、絵を描く参考にしたいと言っては世界線移動装置なる超高額機器を手に入れ、自分が気に入らないなら何十時間だろうとイーゼルの前に立ち続ける。素晴らしい絵を描くためにならば異世界にだって赴く彼が、一度走らせた筆を収めるなんて、驚き以外の何物でもない。

 少年が驚きに目をしばたたかせているのを見て、翔さんは肩を竦めてあっけらかんと、

「まぁ、致し方ないことかな。この世界線は移動速度が早くて、早くしないと転移できなくなりそうなんだ。本意では無いけど、良い選択だと確信しているよ」

 そして、少年の返事も待たずにさっさと外に出て行ってしまった。

 少年は浅く溜息を吐く。

 翔さんの奔放ぶりは今に始まった事では無いので、今更文句を言うようなことは無い。それに何より、少年は彼のそんなところが好きでこうして旅を共にしているのだから。

 溜息の余韻に少しの微笑みを添えて少年は顔を上げる。

 荷物をまとめろとは言われたものの、実際少年はまとめるべき私物を、全くと言っていいほど持っていない。壁際に小さく縮こまって置かれた、彼のぺしゃんこのバッグには、最低限の衣服と非常キットが入っているのみで、趣味で使う道具なんてカメラただ一つだけだ。

 すべきことがなくなり、完全に暇な状態となってしまった少年は、ただ待ちぼうけて机にだらりと体をあずける。テントの片づけをしているであろう翔さんの手伝いをしようかとも考えたが、きっと彼は笑顔で遠慮するだろうと考え、やめた。

 体はそのままに首だけ傾げて横を向くと、机の上にひっそりと置かれた一つの写真立てが目に入る。これは少年が翔さんと出会った最初の頃、少年が翔さんに貰ったカメラで初めて撮った写真を見て彼が何処からか買ってきてプレゼントしてくれたものだ。

 これといった装飾も無く、何処にでもありそうな白樺の写真立てだが、そのシンプルさこそが内の写真を引き立たせるのだと翔さんは語る。事実、写真立ての中に咲き誇る、青空臨む花畑は今にも花弁を散らしそうな程生き生きして見えた。

「テントを畳むから外に出て!」

写真を鑑賞していると、翔さんに警告を出され、慌てて写真立てをポケットに仕舞って外に出る。

入り口に立っていた翔さんがそれを確認すると、足下のスイッチを押す。すると、たちまちテントは自動的に畳まれていって、小さな円筒型に収まった。

翔さんはそれを拾って大きなボストンバッグに詰め込むと、少年の方へ向き直る。

「準備完了。さあ、行こうか」

外には、先程まではなかった衣装鏡のようなものが置いてある。これこそが世界線転移装置の本体だ。

鏡面がある場所には半透明な光の幕があり、風が吹く度に小さな細波さざなみを立たせている。いつ見ても摩訶不思議で理論は全く理解できないが、それが魅力的で好奇心をくすぐられる。

「それじゃ、お先に」

翔さんが先頭を切って光の幕へ飛び込む。その姿は幕の反対から現れることはなく、転移に成功したことが分かった。

続いて少年も装置の前に立つ。一つ深呼吸をすると光の幕の中へ足を踏み入れた。

眩しすぎる光の粒子から逃れるために、目を閉じる。音一つ無い孤独な境界の中で少年は、翔さんと初めて会ったあの日を思い出した。

――――あれは、暗い、暗い日暮れのことだった。

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