月の革命

月の使者達の心はすっかりすり減っていた。

身体の光は今や線香のように今にも消え入りそうだ。

目的の屋敷に入り込んだはいいがそこは広く、恐ろしげな闇が立ち込めていた。

外に出ればあのかつて仲間だった物体がいるだろう。

ここまで来るのにどれだけ仲間を失ったか。

正直、この地球から逃げ出したい。

平和な月へ帰りたいと全員が、月の使者の誇りを投げ捨ててまで切望していた。

文明社会から猛獣溢れる密林に放り込まれた気分だっあ。

しかし、あくまでも使者達の使命はかぐや姫を月へ取り戻すことだ。

仲間のことは後から考えるしかない。

この闇に向かって進むしかないのだ。

この決心を更に前向きにさせたのは、別行動をしていた琴奏者の報告だった。

あの最大の恐怖、狂った翁、媼は外で別の化け物に襲われているという。

あと、やはり使者達の光は奴らの目を眩ませることができる。

たちまち使者達の心は希望に輝きだした。

しかし…屋敷の奥に進むにつれて、すぐさまその希望は薄れていった。

臭い。

ものすごい臭いだった。

それは、血だろうか、糞だろうか、あるいはそのどちらもだろうか。

むわり、とほのかな温かさを含んでいる濃厚な空気が使者達にまとわりつく。

月に住む使者達に息を吸うという概念はないが、その空気をうっかり吸い込んでしまうととてつもない吐き気を催した。

屋敷内、畳が規則正しく広がる大広間は閑散としている。

こんな大屋敷に棲むのであればなにか高価な品々が飾られていそうなものだが。

ここでの視界は月の使者達自身が発する光のみであった。

翁と媼が中庭で四苦八苦しているとはいえ油断はできない。

皆背中を合わせるように注意深く進んでいく。

闇に何か潜んでいれば格好の獲物となるだろう。

念力だけには頼れない。

闇から敵の気配をいち早く察知するべく神経を集中させることこそ、この屋敷から無事に脱出するカギとなる。

しかし大きな屋敷だった。

真っ直ぐに伸びた長い廊下。

それに面して部屋があるが唐戸は全て開かれており、中にはがらんどうだった。

ただ、この屋敷に立ち込める悪臭はますます強くなるばかりである。

何人かはえづくような咳をしている。

こんなところに本当にかぐや姫はいるのだろうか?

かぐや姫をここで見つけるのは簡単だ。

彼女自身も発光しているからだ。

この闇の中、光ものがあれば遠くからでもすぐにわかるだろう。

遂に月の使者達は屋敷の奥に突き当たった。

その部屋の唐戸は閉まっている。

開けたくない。

今までよりもさらに濃い悪臭がそこから漏れ出ている。

いや、実際に何か泥のようなものが溢れている。

意を決して、しかし数歩下がって、念力で唐戸を開ける。

隙間からどろりと異臭を放ちながら何かが流れ出した。

鼻と目が同時に爆発したような悪臭に月の使者達は一瞬失神した。

地獄の扉が開かれたような、禍々しい闇の中、黄金色に輝く美女が佇んでいた。

茶色のどろどろしたものを十二一重に付着させて。

月の使者達はその輝きを見るなり顔色を変えた。

「か…かぐや姫!」

「うんこぉぉぉぉぉおおおおお!!!」

いきなり両腕を掲げ、股を開き、獣のような雄叫びを上げたかぐや姫に一同の心は一瞬で砕け散る。

一刻も早く逃げねば…という警報音が月の使者全員の頭の中で鳴り響いていた。

「あらあら、またうんこで遊んでいたのね」

「かぐやは昔からうんこ遊びが好きだからなぁ」

振り返ると翁、媼が揃って立っていた。

身体の至るところにある水膨れや血の跡は、焼け焦げた月の使者の人塊との戦いの戦果だろう。

ここで、月の使者達が老夫婦に向かって目潰しの光を放ち、かぐや姫を連れて屋敷を飛び出す…それを月の使者のリーダーはしようとしたのだが…。

実行しようとするのだが。

出来ない。

力が湧かない。

気がつけば尻が床に着いていた。

身体が重くて寒い。

力の源、自身が帯びる月の光が塵となり空気に舞って消えていく。

「月の民は本当に脆弱で浮薄な生き物ということをわたくしは前々より気づいておりました」

かぐや姫が糞にまみれながら花の咲くような声で言った。

その目が据わっている。

「月には苦しみも悲しみもありません。純度の高い極楽の空間で私達は産まれ、過ごしてきました。しかしそれが私達の致命的な弱点になるのです。月の民というのは恐怖に対抗する力を備えてはいません。それ故に大きな恐怖を感じると本来の力が抑えられてしまうのです」

確かに、糞まみれの美女と戦闘力の高い老夫婦に挟まれて、逃げ場もない月の使者達は恐怖のどん底である。

使者達は血走る目でかぐや姫を見つめている。

彼女がもはや手遅れなことは一目瞭然である。

糞まみれの顔は無表情に語りかけてくる。

話しているだけだが、そこか数々の修羅場を乗り越えてきたかのような凄まじい威圧感を感じさせた。

「わたくしはそのことを王に相談しました。月が侵略されるようなことがあれば、わたくし達に対抗する術は無いと。しかし、王はわたくしの話を戯れにとらえるだけではなく、わたくし自身を求めようとしたのです。それでも聞き入れてくれるならとわたくしは身を投じましたが…。それが露見し、罪を課せられ、この地に堕とされたとき、わたくしは密かに心が解き放たれるような心地でした。」

「ひでぇ話だなぁ…」

翁が相槌をうった。

急に父親の顔になっている。

「かぐや姫様…」

リーダー格が震える声で言った。

「かぐや姫様は月をお恨みになってらっしゃるので…」

その問いにかぐや姫は少し微笑む。

「いいえ、わたくしはむしろ月を救おうと考えています。その為、月の使者は糞を食わなければなりません」

その言葉に月の使者達の背筋がいっせいに凍りついた。

ぐちゃり、ぐちゃり

かぐや姫が糞の中こちらに向かってくる。

長い髪が引きずられ、糞の床に通った軌跡をつけるのは気にならないようだ。

「前々からわたくしは苦しみや悲しみのない世界から解き放たれることを望んでいました。わたくしは強くなりたかった。その為に糞を喰らい身も心も汚れなければならなかったのです。食べるときはそれはもう苦痛でした。それでも月を守るために食べました。何度も何度も死にたいと思いました。母上に止められていなければ本当に死んでいたかもしれません。しかし私の身体の中に糞が入ってくるごとに、恐怖というものが無くなっていくのです。何も怖くなくなるのです。こんな素晴らしいことは他には無いでしょう」

「最初は私達は止めたんだけどねぇ…そんなことしたら普通は死んでしまうわ。でも我が子の夢を手助けしない親はいないものね」

誇らしげに媼が言う。

「かぐやは最初から他人と気が違ったんだなぁ…でっかいことをやると昔から思ってたんじゃ。帝のとこに嫁にやるのなんざもったいねぇや」

しみじみと呟く翁である。

謎の親子愛を見せつけられ月の使者はますます訳がわからない。

「月から来たか弱き者。さぞかし恐怖を感じていることでしょう。こんなにも光が小さくなって…」

かぐや姫が月の使者の一同に近づき、手を伸ばす。

その手は汚物で汚れている。

ひいいいと一同が一気に後ずさる。

「これぐらいで恐怖を感じていては立派な戦士になれませんよ」

戦士?

突然のことにきょとんとしていると、糞まみれの手が伸びて頬に触れた。

触れられた琴奏者の身体を冷たい稲妻が這いあがっていく。

「わたくし一人ではやり遂げることができません。仲間となる戦士が必要となります。あなた方がなるのです」

かぐや姫の顔が近づいてくる。

その瞳は美しさと力強さ、そして決心に満ちていた。

「な…な…何を、なさるので…」

かぐや姫から放たれる邪悪な魅力に絡まれた琴奏者は、自分の背後で仲間達が次々に竹で腹を貫かれ、団子のように連結していく様に気がついていない。

かぐや姫と琴奏者の唇が触れそうになるほど近い。

「月の革命」

かぐや姫は囁き、唇を重ねた。

同時に口の中に猛烈な苦味と悪臭を感じ、琴奏者は意識を失った。


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