2、If you could grow me,




「う…………あ………ここ、は」


 目が覚める。頭痛が寝惚けたような思考に響いていた。

 倒れていた体を無理矢理に立ち上がらせて、周囲を見渡す。

 荒野。荒れ果てた土地だ。

 ただ、僕の目の前を除いて。

 

「なんだこれ……門?」

 

 それも、どこかのアミューズメントパークを彷彿とさせるようなものだ。

 しかしその扉は閉ざされている。そもそも、ここはどこなんだ。

 僕はあの紙切れと話していて、眠らされて――――。

 そうだ。眠らされた。なら、ここは…………。


「僕の夢の中……?」

『はい、正解です。まあ、正確にはあなたの、ではありませんがねぇ』


 ぽつり、と呟いたその言葉に反応する声が一つ。それも、すぐ隣から。

 勢いよく振り向く。

 そこには、人がいた。

 ――訂正。紙切れがいた。

 すごく整った容姿で、顔はにやり、と嗤っている。水玉模様の傘を持っていて、頭には手品師が被るような帽子を被っていた。服装はそれこそ、奇術師のようであった。

 胸の辺りには大きく『Ame』と書かれていて、一目でわかった。

 この巫山戯た、胡散臭い雰囲気はあいつしかいない。


『いやあ、すみませんね。なかなかに手荒くしてしまって。ええ。でも致し方なし。ええ、非常事態ですからね』

「……紙切れ」

『いやですねえ! こんな可愛い女の子に紙切れ呼ばわりとは。是非是非、愛情たっぷり篭めて親しい間柄の如く「レイン」と呼んでください』

「紙切れ、これはどういうことだ?」

『あ、そういえば言い忘れていましたね。ようこそ、私達の国へ。ウェルカムトゥ――ドリームランド!』

「……おい」

『ああご安心を。危険はありません。たまに悪夢が出没しますが、まあ。私にかかれば一発デスとも。……あなたは戦おうとかしないでくださいね。この世界において、夢の無いあなたの力なんてゴミ屑そのものですので』

「話を……………」

『ご安心ください。親玉が出てこなければなんとでもできますからね』

「聞………………」

『さあさあ行きましょう入りましょう。なんてったってここは夢の国。きっとあの扉の向こうは天国のような光景が広がっているに違いません!』

「……………」


 興奮したような、芝居がかったような様子でそのまま先へと進んでいく。呼びかけにも答えない。……いや、その理由はわかっているんだけどさ。

 仕方ない。負けたような気持ちにはなるが、ただそれだけだ。

 すぅ、と息を吸い込んで。

 苦々しい気持ちを精一杯に込めながら、名前を呼んだ。


「…………………レイン」


 紙切れ――レインは、それに答えるが如く高速で振り返った。

 笑みを浮かべている。さわやかなものではなく、もっと黒いモノ。


『はい、はい! なんでしょうか、カフカさん?』

「――ッ、なんで、僕の名前を………」

『いやまあ、お客様の名前も存じ上げないようではこの役は務まりませんので。嗜みですよ、嗜み。……で、どうかされましたか?』

「……この世界について、説明をしてくれ」

『ええ。勿論、よろこんで。とはいっても、そんなに説明することはございません』

「は…………?」

『現実で言ったでしょう? ここは夢ですよ――だれとも知らぬ、ね』


 口の端を釣り上げたその笑みは、どこか空恐ろしくて。呼応するかのように、はたまた虚勢を張るかのように、僕の口もつり上がっていく。

 多分、形作っているのは苦笑に似た何かだろう。


『さあ、入りますよ。一見は百聞にしかず、です。見た方がわかりやすいですし』

 

 ドムがそう言えば、閉ざされた扉が開いていく。軽く、でも音は重く。

 こちらを一瞥して先に行くレインに遅れないよう、早足で歩いた。

 自分が思っていたよりも扉との距離は開いていたようで、また扉も大きかった。

 まるで巨人すら難なく通れそうな大きさ。自分が小人になった気分だ。

 どんどんと進む彼女に若干の苛立ちを覚えながら、扉を通り抜けた。


「――――うわあ」


 一面に広がる映画のような世界。活気ある商店街と、そこを歩く様々な人々。

 思わず間抜けな声が出たのは許して欲しい。それだけ、その光景が素晴らしかったのだ。

 

『呆けていますね? この街の威容に飲み込まれて唖然としていますね? ええ。いいでしょうそうでしょうとも! 何せここは天下の「夢の国ドリームランド」。ただの人間が平然としていられるような場所ではございませんからねぇ』


 一段階高くなったレインの声が、早口で紡がれる。呆然としていた僕は、その声によって現実――ここは夢だけれども――に引き戻された。

 ああ、確かに。

 これは夢のような街だ。

 笑い声が聞こえる。暖かで、賑やかな光が地面を照らしている。

 誰も彼も、皆笑顔だ。

 ……いやまあ、表情がわかりにくい人種(?)の方もいらっしゃるのだが。

 今見える範囲でも、魚、熊、タコ、猫、犬、カラス、蛇。それらがすべて、人型となって歩いている。勿論普通の人もいる。ただ、服装は普通じゃない。

 魔法少女、戦隊モノ、海賊、武道着にセーラー服。何故かは知らないが、野球のユニフォームなんてものを着ている人もいる。

 この中に僕が入ったら、逆に目立ってしまうのではないか。

 そう思ってしまうくらいに、全てが個性的だった。

 まるで一人一人すべてが夢のように。

 ギリ、と奥歯を噛み締めた。


「……すごいな、これ」


 それでも、口から零れるのは感嘆の言葉だ。どうしたってそれが紡がれる。

 

『ええ。ええ! あ、そういえばカフカさんはダサイ格好のままでしたね。――ということで、それっ!』

 

 レインが僕のつぶやきに反応したと思ったら、持っていた傘を振った。不覚にも可愛い、と思ってしまったかけ声と共に。

 僕の体が一瞬光の粒子に包まれる。

 そうして。

 

「…………は?」


 僕の服装は、先程までのユニクロ産コスチュームとは違い、学生服になっていた。

 良く見慣れた格好。少し違うが、大体いつも着ているモノと同じタイプだ。

 ちょっとの間思考が停止して、今の現象を正しく認識する。


「はあああああ!? 何これ、てかなんで学生服なんだよ!」

『いやまあ、さっきの格好だと逆に目立ちますし。あ、服装は私の趣味です』

「君の趣味かよ…………」

『あんなダサイ格好している人間なんていませんよ? ……まあ、人間はいませんが』


 その言葉に、少しだけ目を見開く。何となく予想できていたことだ。

 あまりにも


『あれ? あれあれ、あんまり驚きませんねぇ。面白くない』

「君が自分で言ってたろ、『ここは夢』だって」

『ええまあそうですが。そんなにすんなり信じられるような柔らかい頭してるとは思いませんでした』

「中学二年生なめんなよ」

『……別になめてはいませんが』

「それ、僕にも出来るのか?」

 

 彼女が今したことをさして、僕は言う。

 もし使えるのであれば、なんとなく使いたいと思う。ほら、それこそ夢のようだから。

 しかし返ってきた言葉は予想通りであり、僕を少なからず失望させた。


『できませんよ。夢も持っていない、夢でもないただの人間が使えるようなものではございませんよ。わかりやすく言えば……魔法のような物ですね。資格がなければ使えない類の』

『……そう』

『ここの住民は誰でも使えますけどね』

「夢だから?」

『ええ。……ここの人間は全て、誰かの夢です。海賊になりたい、魔法少女になりたい、野球選手になりたい、パン屋さんになりたい、などなど』

「随分年齢層が低いんだな」

『…………ある程度年をとると、人間あなたたちは夢を見なくなるでしょう?』


 一瞬だけ瞳の色を変えての言葉。少なからず、複雑な感情を抱いているようだ。ちら、とその整った顔に黒い煙のような影が差した。

 まあ、確かに。少なくとも自分がそうではある。

 夢を持っていないし、持とうとして諦めた。

 ……そんなことはどうでもいい。


「そうだな」

『ええ、そうでしょう。ところで、どこか行きたいところとかってあります?』

「いや、まず何があるかも知らないよ」

『知ってます。当たり前ですね。なので私が案内します』


 なら聞く必要も無いじゃないか。

 なんて思ったが、レインの愉快犯的な性格にも慣れてきた。

 まずはあそこですかねー、と楽しげに言う彼女の背中に着いていく。広場をゆく。

 人が、夢が多い。その事実を解釈して、少なからず僕は顔を歪めて、直ぐに元に戻した。

 群衆の中を華麗にすり抜けていく彼女とは対照的に、僕は人の流れにつまずいている。

 よくもあんなにスイスイと泳ぐみたいに進めるものだ。その能力が羨ましい。

 背中はすでに小さくなっていた。


「ちょ……レイン………」


 呼びかけて止まってもらおうとしたが、その声も満足に届かない。

 何とか抜けようとしている間に、あの華奢な背中が遠ざかっていく。

 そうして、人々の影に紛れて見えなくなった。

 こちらに気づいていないのか。いや、気づいている上での行動か。


『そういえば、聞いたか?』『今日はとことん飲んでやるぞー』『綿雲と空魚、ある?」

『なんだよ。誰かが悪夢にでもなったか』『さあさあよってらっしゃい見てらっしゃい』

『次どこ行こうかな』『がっはっはっはっは!』『違う。あいつが、帰ってきているらしい』 

『……まさか』『いいっやっっっふううううううう!』『新入りが入ってきたらしいぜ』

『ねえねえ、アレ欲しいな』『残念ながら、非売品だ』『ああ、「メア」。あの悪魔だよ』


 騒々しい。内容も人もごっちゃになっているその喧噪が耳を通り抜ける。

 だが、何故か「メア」という言葉だけが脳裏に残っていた。知らない。どうでもいい。

 足が止まる。迷子、という言葉が脳裏をよぎった。もしそうなったら、レインが喜々として僕を捜しそうだ。この街全体に聞こえる放送でも何でも使って。

 簡単に想像できたその光景に、冷や汗が流れる。

 さすがにこの年で迷子にはなりたくない。

 そう僕が焦っていると、不意に影が落ちた。

 僕の周り、ではなく。見渡してみれば、この広場全体にだった。

 太陽が雲に隠れたように暗くなる。どうやらこの世界にも、雲はあるらしい。

 よくあることだ、とまた群衆をかき分けて進もうとする――――が。

 何か、変だった。さっきまであんなに流動的だった人の波が、止まっている。それどころか、すべての人が上を、真上を見上げて焦っているような―――――――。


『………リ、』


 ぽつり。誰かが切った口火が、いやに耳に浸透した。

 僕も上を見てみる。そして、絶句した。

 ――――ああ、確かに。これは、夢なのだろう。

 確信した。誰とも知れぬ夢。もしもアイツが言ったようにこの周りの人々が夢なのなら。

 アイツも、夢なのなら。

 喉が固まって、言葉が出て行かない。これは恐怖だ。得体が知れなくて、得体が知れないからこそ。根源的な、気持ち悪いほどの恐怖が溢れてきた。

 なんだ、あれは。

 なんなんだ、あれらは。

 理解できない。理解しようと思えない。

 違う。認めたくないのだ。あれが、あの正体が。

 なのだと、認めたくないのだ。

 

『――――リアルだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!』


 誰かの叫び声。ここに至って何故自分はこの人達の言葉がわかるのだろう、と疑問を持ったが、それを今抱く自分はどうかしている。

 恐怖で頭をやられたか。どうやら僕の頭は冷えているらしい。

 「リアル」、と言った。

 現実。現実が襲ってきたということだろう。

 夢の世界に、現実が殴り込むなんて、随分皮肉が効いている。


『逃げろ! 彼奴等にやられたら、もう終わりだ。棄てられて、悪夢になるぞ殺されて、死んでしまうぞ!』

  

 それを皮切りに、群衆がちりぢりに逃げていく。叫び声、悲鳴、怒号。

 当然パニック状態では上手く逃げられるはずもなく。

 未だ大多数が蠢いているこの広場に、彼らが着陸した。

 黒くて、金属のようで、灰色で、蛍光色で、虫のようで、肉食獣のようで、魚のようで、人のようだった。全てが生物的で、また非生物的であった。

 それが、複数。統一感も何もなく、ただ不気味であることだけが共通の「群れ」。

 一番最初に降りてきた黒い鳥人間が、その触手をもって近くにいた熊の男性の首を消し飛ばした。

 頭が無くなった胴体は、前のめりに倒れ込んだ。その体を、黒い煙が包んでいる。

 既視感と共に、その光景を眺めていた。

 一拍おいて、一段と高い悲鳴が聞こえる。あの男性の奥さんだろうか。

 だが、それもすぐに止まった。

 先程と同じく、首から上を無くすことによって。


『う、うわああぁぁぁぁ!』


 一斉に「リアル」から離れようとする人々。勿論、その中には僕も入っている。

 次々と降りてくる。真上を見上げてみれば、成る程、穴が開いていた。黒く、暗い、大きな穴が。

 そこから「リアル」は出てきているようだ。そのそばに人影が見えたような気がした。が、気のせいだ。あんなところに誰かがいるわけがない。

 視線を降りてきた「リアル」に戻す。走って距離を取りながら、その動きを観察していた。

 戦隊ヒーローのようなコスチュームを纏った人が近づいていくのが見える。

 誰かの夢。ヒーローになりたいという、幼い子供の夢。

 だが、それは一撃も彼等に加えることなく、砕かれた。

 そのほかにも立ち向かう人はいる。

 魔法少女だったり、武闘家みたいな人だったり、仮面ライダーのような人だったり。

 彼等は戦うことがメインの「夢」であるから、「リアル」に対しても戦おうとしているのだろう。

 誰かを、守るために。

 ――――だが。

 酷く、あっけなく。 

 さっきの繰り返しのように砕かれていく。棄てられていく。殺されていく。

 戦おうと立ち向かう人はたくさんいるけれど、そのどれもが例外なく。 

 巨大な蛍光色のクラゲに、飲み込まれていく。

 おぞましいカマキリのようなバッタのような何かに、貪り食われていく。

 鋭利な牙を全身から生やした獣に、細切れにされていく。

 ピンク色の肉塊がブドウのように連なった怪物に、取り込まれていく。

 色とりどりなムカデの集合体に、千切り殺されていく。

 まるで地獄だ。

 目を疑うほどの凄惨な映像が広がっている。

 血が出ていないのでまだ軽いと言えば軽いのかも知れないが。

 

「………………」


 気づけば足は止まっていた。呆然とする。食い入るように眺めていた。

 「リアル」は空を飛んで、移動していった。僕に見向きもせずに。 

 何故僕を狙わないかは知らないが、助かった。

 周りを見る。もう僕しか生きている人間はいない。

 広場には、死体だけ…………と、目をやると。

 彼等の死体が、黒い霧に包まれていって、やがて黒い球体になった。

 脈動している。

 その内の一番大きなものに、ひびが入った。ピシ、ピシ、と。

 何かが生まれ出てくるような、そんな感覚だ。

 不意に誰かが言ったことを思い出した。

 『棄てられて、悪夢になるぞ』。

 しだいにひびが多くなっていく。殻が剥がれ落ちて、中身がこぼれ落ちた。

 それは、獣だった。

 「リアル」のように気味悪く、醜悪ではないが、それでも恐怖を沸き立たせる。

 熊のような、巨大で、人一人くらい簡単に殺せるであろうケモノ。 

 ――――「悪夢」だ。

 そう直感した。

 生まれ出たソレは、鼻を動かしている。そして、こちらを向いた。


「――――やば」


 「リアル」はこちらに見向きもしないのに、あいつだけは僕を狙っている。

 その四肢は力強く地面を駆って、ぐんぐんとこちらに迫り来る。

 開いた口からは唾液が滴り落ちているし、白目をむいている。どう考えて普通じゃない。

 ぼうっと突っ立っていては殺されてしまうので、逃げる。

 体力に自信はない。土地勘もない。でも、生き延びたい。

 他の人々が逃げていった方向とは別の方向へと逃げる。

 

「ああ、もう…………!」

 

 走りながら、悪態をつく。どうなっているんだ。案内役とか自称していたレインはいないし、なんか狙われないと思ったらやっぱり狙われたし。

 この街の構造なんか一ミリも知らないので、とにかく小さな横道があったらそこに入る。

 直線じゃあすぐに追いつかれる。せめてもの時間稼ぎとして、曲がりくねったコースでいかないと。

 どこかの家の庭を横切った。

 洗濯物とかが干してあって、妙な生活感があった。

 どこかの路地を駆けた。

 店だった残骸が落ちている。それに、黒い球も。まだ小さくて生まれる気配が無いので、少し安心した。

 これらも全部、夢だったモノだ。

 それらを見て、暗い感情が湧き上がってくるが、押しつぶした。

 今はいらない。逃げることのみを考えろ。

 後ろを振り返れば、そこら中の物を破壊しながらに追ってくる巨大熊の姿。

 獰猛だ。凶暴だ。いっそ清々しくさえある、暴力の塊だ。

 その姿を見ながら、ふと、考えた。

 彼が「悪夢」だというのなら、それは誰に対しての物だろうか。

 通常「悪夢」とは誰か一人が見る夢であって、その他大勢が見る物ではない。

 何かを比喩のように指して使うならまだしも、今回は違う。

 では。

 まず真っ先に考えられるのは僕自身だ。ここに夢を見られるような人間は僕しかいないだろうし、何よりも彼は僕を狙っている。

 でも、なんとなく違うような、そうであるけどもそうではないような気がする。

 白目をむいた、人型であった頃の姿など欠片もないあの姿。

 狂っていて、苦しんでいるようなあの姿。

 白濁とした目に映る色は、救済を求めているようだった。


「まあ、これは僕の主観なんだけど」


 なんとはなしに呟いて、瓦礫を飛び越える。

 彼がもし救われることを求めていたとしても、僕にはなにもできない。

 夢の世界なんだから、夢のない僕には何の力もない。それはレインに教えてもらったことだ。

 彼女なら何とかできるかもしれない、と思考して、苦笑する。

 この世界で唯一の知人……とまではいかないかも知れないが、似たような物だ。

 

「いや、それよりも…………今は現状をどうにかしようか」

 

 端的に言って死の危険がありそうなこの状況をだ。

 大分体力も消耗してきて、きつくなってきた。多分もうすぐ追いつかれる。そうなったらどうなるんだろうか。死ぬんだろうか。いや、ここは夢の世界だから死なないのかもしれない。

 でも、思い込みってすごいらしいし。死んだと強烈に錯覚してしまえば、本当に死んでしまうのかもしれない。

 そんなことを暢気に考えていれば、ほら、直ぐ後ろに追いつかれた。 

 荒い吐息の音が真後ろから聞こえるのは結構ホラーだ。

 だからと言って足を止めるなんて事はしない。できない。

 ああ、どうしよう。

 彼がその凶悪な爪を備えた強靱な腕を振るう。僕はなんとか無様に避ける。勿論完璧にとはいかなくて、かすった。

 

「――い゛ッ」


 熱い。痛みが全身を駆け巡って、足が止まる。いや、倒れ込んだ。視界の端に赤い物が見えた。なんだ? ああ、自分の血だ。

 心臓の音がやけに大きく聞こえて、汗が尋常じゃなく流れる。

 ドス、と音と共に、衝撃が背中に伝わった。重い。多分、彼が足を乗せたのだ。

 身じろぎも出来ない。逃げられもしない。すぐ目の前に砕けたガラス片が見えるけど、それも掴めやしない。

 頭上で何かが動く気配がした。ああ、多分彼が前足を持ち上げて、僕の頭を踏みつぶそうとしているのだろう。

 すぐに振り下ろされる。それで、僕は終わりだ。この黒球ばかりの道に、赤い花が咲くだけ。

 …………ああ、死にたくないな。

 …………ああ、死ぬんだろうな。

 これが創作物ユメなら、逆転策が思いついて、華麗に脱出だ。 

 でも、僕に夢はない。僕は夢が無いから、自分で何とかするしかない。

 ――――それか、誰かの助けを得るか。

 ピチャ、と顔の横に滴が落ちた。それは、彼の唾液か、それとも。

 ともかくそれが合図となったかのように、彼はその前足をもって僕の頭を砕き、僕はこの世界からさようなら。


『―――グ、ア…………!?』

 

 そう、なるはずだった。

 鈍重なうめき声は、断末魔だ。そのまま彼は力を失って、僕の上に崩れ落ちた。

 血は流れ出ない。夢だからだろう。重さにもがいているところに、聞き覚えのある声が届く。


『……はぁ、まったく。乳幼児レベルに手がかかりますねぇ、カフカさん。まだあなたに死なれちゃあ困るんですよ、とってもね』


 呆れたような顔で、彼女は僕の上の彼を蹴り飛ばした。そのおかげで僕は動けるようになる。念のため、眼前にあったものをポケットに入れておいた。


「――――レイン」


 その頬は返り血で濡れていて。引き上げられた口角は、どこか猟奇的だった。

 その手に持つ傘は閉じられていて、先端から血が滴り落ちていた。


『ええ、ええ。あなたさまの案内人、レインでございますとも。ご無事ですか? ご無事ですね。地上ここは危ないので、空中うえに行きましょうか』


 え、と疑問のつぶやきを僕が漏らすが早いか、僕の体は空に浮いていく。

 ふわふわと浮いていって、街を一望できる高さまでに達した。

 浮力が消えて、空中に半透明な板が形成された。

 危なげなく立つ。端っこなので、落ちそうで怖い。


『はい、ここらへんで良いでしょう。彼等の足掻く姿が良く見えますからねぇ』


 ほら、と彼女が指さしたのは、煙が立ち上る一角。かすかに触手のような物が舞っているのを確認できる。

 ――彼等、とは街の住民だろう。


『ほらほら、滑稽ですねぇ。誰かを守るとかほざいていた夢どもが、あっけなく殺されていきますよ』


 楽しそうに、愉しそうに嗤う彼女の横顔を眺めて、一つ、言葉を吐いた。


「君は、何だ?」


 彼女の顔に表情が浮かばなくなる。ガラス玉みたいに無機質な瞳が、無感情にこちらを向いた。

 嘘みたいに破顔する。

 

『……はは、何をおっしゃいますか。私は夢ですとも。誰かの、ねぇ』

「―――君は、何だ」


 嘘みたいに無色が顔に浮かぶ。


「もう一度言おうか。………君は、?」

『――――へぇ! まさか、まさかねぇ! 夢すら持っていない人間如きに暴かれるとは!』

「隠していたか?」

『全然? むしろさらけ出しまくりでしたしねぇ』


 狂気的な愉悦の籠もった笑顔。

 それを見て、確信した。


「――――――『悪夢』」

『――――――ご名答! 改めて自己紹介しましょうか』


 空中に開いた穴を背負って、まるでラスボスみたいに、彼女は言った。

 芝居がかって、腕を広げて、この世界に宣言するように。

 僕に、宣言するように。





『私の名はメア! 悪夢であり――――今夜、この世界を壊すものである!!』





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