第20話

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 岸辺は怒りにうち震えた。東京湾に任務のわからない自衛艦が碇泊して砲口をこちらに向けているというし、前線に派遣した自衛隊の部隊は少しずつ帰国しているという。そんな命令を出した覚えはなかった。

 総理大臣官邸の窓の外には、毎日デモ隊が押し掛け、自分の退陣を叫んでいる。その先頭に立っている少女の暗殺を命じたものの、派遣した非国民の部隊はあっさり武装解除されて帰ってきてしまった。

 だが岸辺は、こうした事態にめげるどころか、逆に対抗心を燃え上がらせた。退陣などする気は毛頭なかった。

「デモなど、3か月もすれば飽きて自然消滅する」

 官邸に、いわば籠城をすることで、このまま総理大臣臨時代理の座に居座るつもりだった。

 岸辺は官邸地下にある危機管理センターに立てこもった。ここには情報通信機器が充実しており、日本国内で起きているたいがいのことは把握できるとともに、必要な指令を出すこともできた。

 また食料の備蓄もかなりあり、万が一、電気や水道といったインフラが途絶したとしても数週間は持ちこたえることができた。セキュリティも堅固で、地上にいるよりはるかに安全だった。

 岸辺は日本国に関する全権を握ったまま、難攻不落の要塞の奥に閉じこもった。


 イオたちは、手詰まりを感じていた。

「どないする? 岸辺をあすこから引っ張り出さんことには、これ以上どうもならんで」

「わかってる。だから、拳銃をよこせ」

 イオは悪心坊に強く迫った。

「あかん。お前一人で行って何がでけるねん。相手は総理官邸やぞ。並みのセキュリティとちゃうぞ」

「アベを連れて行く」

「たとえアベ君がいっしょに行ってもやな、セキュリティの向こうに自動小銃を持った奴らがいてたら、それでしまいや。よう考え」

「いいから、よこせ」

 力づくで拳銃を奪おうと組み付いてきたイオを、悪心坊は投げ飛ばした。イオはすぐに起き上がり、再び組み付いた。二人は転がりながら殴り合った。

「ちょっとぉ、あんたら。仲ええのも、ええかげんにしいや」

 サナエが、二人の様子を見下ろしながら呆れたように言った。

「なんやオバハン、あとにせえ」

「誰がオバハンや。サナエさんとえ。て、何度言うたら覚えんのじゃ」

 他人に見られながらでは、殴りあいなどできるものではない。二人は拳をほどき、立ち上がった。

「あんたらを探しとったんよ」

「なんぞ、用か」

 殴られた頬を撫でながら、悪心坊が痛みに顔をしかめた。

「イオはんに、お客さんやよ」

 血のにじんだ唇を拭いながら、イオは訝しんだ。

「客? 誰だ?」

「会えばわかる、言うてはる」

 イオと悪心坊は顔を見合わせた。

「悪心坊、いっしょに来てくれ」

「おう」

 二人がサナエに促されて公園の入り口近くに歩いていくと、そこには白髪の小柄な老人が立っていた。

「よお、イオ君。元気かね?」

 白髪となり、口ひげを剃っていたために、イオには男の顔がすぐには思い出せなかった。老人はイオの唇にこびりついた血を見て揶揄やゆした。

「あいかわらず、血の気が多いと見えるな」

 そのとたん、記憶が蘇った。イオは何事かをわめくと、老人めがけて飛びかかった。

「ヨハン! 貴様、よくも!」

 イオの突然の行動に驚いた悪心坊とサナエは、あわてて老人からイオを引き離した。

「イオ、落ち着け。誰や、この人」

「落ち着いてなんか、いられるか。こいつは岸辺の手下で、オレを騙して首相暗殺の犯人に仕立て上げた奴だ」

 ヨハンは、起き上がって服の汚れをはたいた。

「つまらんことを覚えているな。一五年も前のことではないか」

「つまらんことだと!」

 制止を振り切ろうとするイオを、悪心坊は必死で抑えた。

「その岸辺の手下が、何の用や?」

「君ら、行き詰まっておるのだろう? ひとつ、儂が手を貸してやろう」

 意味ありげに笑うヨハンを、イオは怒鳴りつけた。

「誰が、お前なんかの手を借りるか!」

「まあ聞いてくれ、イオ君。15年前、確かに儂は岸辺を手伝った。中東での商売が危うくなって、日本に戻った儂をかくまってくれたのが岸辺だ。その借りもあって、あのときは奴を手伝ったんだが」

「そらみろ。やっぱり手下だったんじゃねえか」

「岸辺は、用が済んだとたんに儂を殺そうとしおった。辛くも逃れたが、ビアンカはそのときに……」

 悔しげに遠くを見つめるヨハンの目から、一筋の涙が流れ落ちた。

「え、死んだのか?」

 ポケットからハンカチを取り出し涙を拭う姿を見て、イオはからだの力をゆるめた。

「儂も岸辺には恨みがある。手伝わせてくれんか?」

「どうやるんだ? 岸辺は危機管理センターに籠城して、騒ぎが収まるのを待つハラだぞ」

「儂の話を聞く気になったようだな」

 ヨハンは「まあ座れ」と言って、手近な石に腰を下ろした。

「儂の専門は電子戦だということは、覚えておろう?」

「ああ」

「危機管理センターというのは、言うなれば電子の要塞だ。あそこへ行く情報はすべて電子化されとる。その情報を遮断し、別の情報と差し替える」

「そんなことがでけるんか?」

 悪心坊が感心したように声を上げた。

「できる。そうやって偽の情報を送ってパニック状態を作り出せれば、岸辺はかならず穴から出てくる」

「なるほど」

「よせ、悪心坊。こいつは信用できない」

 ヨハンは、イオのほうに向き直った。

「ではもうひとつ、耳よりな情報を差し上げるとしよう。岸辺は化学兵器を作っておるぞ。それがデモ隊の頭上に撒かれたらどうする?」

「化学兵器? 毒ガスか?」

「そうだ」

「なぜ、そんなことを知っている?」

「言ったろう? 儂の専門は電子戦だと」

「どこで?」

「川崎沖の人工島。すなわち、国籍離脱者センターのなかでだ」

 驚くべき情報だった。ヨハンの言うとおり、いまの岸辺ならA国どころか、デモ隊の頭上に毒ガスを撒きかねない。本当だとすれば、早急になんとかしなければならない。

「何が望みだ?」

「別に。岸辺に復讐できれば、それで十分だ」

 それを聞いて、悪心坊が話に割り込んだ。

「だけど、穴から出てきよった岸辺は、どないするんや? まさか、逃がすつもりやないやろな?」

「岸辺は煮るなり焼くなり、君たちが好きなようにするがいい。儂は、そこにはタッチするつもりはない」

 悪心坊はイオにうなずいた。

「必要なものは?」

「手に入る最高性能のコンピューターを複数台、そして、こうしたことに詳しい助手を一人。ビアンカがおらんのでな」

「わかった」

 イオは悪心坊に機材の調達を依頼し、サナエには町田と黒沢を呼んでほしいと頼んだ。


 海外から戻ったばかりの町田が駆けつけ、緊急の対策会議が開かれた。

「まずは川崎の化学兵器を何とかするのが先だ」

 黒沢の言葉に、御子柴が反応した。

「自衛隊は出せませんよ。総理の命令がない限り」

 それを聞いた黒沢は、言葉に少し怒りを込めた。

「その総理大臣臨時代理どのが、国際法違反の化学兵器を作っているんだ。これを放置したら、後世、自衛隊が何と言われるか知れたものではないな」

 御子柴は額に汗をにじませながら数分間逡巡(しゅんじゅん)した後、決断した。

「わかりました。専門部隊に出動準備を命じます」

「私も連れて行ってください」

 美沙が立ち上がった。

「たぶん、戦闘員養成所で訓練された非国民戦闘員が警護しているはずです。出身者の私がいっしょに行ったほうがいいと思う」

「私も行こう」

 黒沢も立ち上がった。

「非国民戦闘員には、戦闘服を着て、階級章をつけた人間が効くらしいからな」

 準備のために出ていった美沙と黒沢を見送ると、町田は次の問題を口にした。

「官邸から追い出した岸辺を、どうするつもり?」

「それは、オレにまかせてくれませんか」

 立ち上がったイオに、町田は重ねて聞いた。

「何をするつもり?」

「ヘリを一機、貸してください」

 イオが自分の腹案を説明した。脱出すると称して岸辺をヘリに載せ、太平洋の上空で射殺し、海に突き落とすのだという。

「日本海溝には、岸辺によってたくさんの非国民が沈められていますから」

 すると御子柴は、ヘリの貸し出しを渋った。

「自衛隊員を犯罪に加担させるわけにはいかない」

「犯罪だって? 岸辺のやってきたことに比べたら……」

 気色ばむイオを、御子柴はさえぎった。

「もし君の言うとおりに実行するというのならば、君は殺人犯として裁かれるぞ。それでもいいのか?」

「かまいません。オレはどうせテロリストですから」

「待って。こういうのはどう?」

 町田は、思いついたアイデアを説明した。

「これならば、誰も裁かれないわ」

「いや、しかし……」

 なおも渋る御子柴は町田の説得を受け、ヘリを貸し出すことは承知した。だが乗員はどうしても出せない、と頑強に抵抗した。


 落ち込んだ様子で会議から帰ってきたイオと悪心坊を見て、サナエが近寄ってきた。

「どないしてん。元気ないやん。飴ちゃん、舐めるか?」

「いや。ちょっと困ったことになって」

「なんや。このサナエさんに言うてみい」

 藁にもすがる思いで、悪心坊はサナエに尋ねた。

「誰ぞ、ヘリの操縦がでける人、知らんか?」

「ヘリ? どんなヘリや?」

「自衛隊のヘリや。UHなんたら言う」

「そんなら、アテ、操縦でけるで」

「へ?」

「アテが操縦したる、言うとんのや」

「あんた、操縦でけるんか?」

「さっきから、そう言うとるやろ」

「ウソや」

 サナエの言葉を、悪心坊は冗談だと思った。

「ウソやあらへん。ダンナが生きとるときは、外国でよう乗っとったわ」

「自衛隊のヘリやで。遊園地のオモチャと違(ちゃ)うど」

「自衛隊のヘリやろ。UH―68やわ。その民間転用型に乗っとったんよ。買い込んだ食品を載せて、あちこち飛び回るのに便利やったわぁ」

「世界を股にかけた食料品卸、ちゅうのはホンマやったんか」

 ひゅうう、と悪心坊は口笛を鳴らした。


 川崎沖に浮かぶ人口島の上空にホバーリングしたヘリから、空挺部隊が次々に建物の屋上に降り立った。そのなかに、美沙と黒沢の姿があった。

 ヨハンの情報で、化学兵器を製造している施設の場所はすでに特定できていた。美沙は薄緑色のつなぎを着て部隊の先頭に立って走った。その姿を見た非国民たちは、気のない様子ですぐに道を空けた。自分の生活以外のことに関心がない非国民は、いつもと違うことが起こっていても気にとめなかった。

 長い迷路のような通路を、美沙は手に持った携帯端末を見ながら走った。表示された地図によれば、この先に国籍離脱者センターとは別の建物があるはずだ。

 スチール製の扉を開けると、視界が急に開けた。そこはセンターの末端で、数十メートル先に、コンクリートの巨大な箱のような別の建物があった。センターとは建築現場の足場のような通路でつながっていて、その突き当りに重そうな金属製のドアが見えた。ドアの両側には自動小銃を持った二人の戦闘員が警備していた。

 強硬に突入すれば狙い撃ちにされる。しかし、裏口にまわるには設置された鉄条網を撤去しなければならない。それにはさらに危険がともなった。

 黒沢の命令で麻酔銃が発射された。二人の戦闘員はその場に崩れ落ちた。続いて空挺隊員たちが通路を走りぬけ、ドアを開けた。

 黒沢が開けたドアの向こう側に立った。

「戦闘をやめよ!」

 その号令に応じる代わりに、どこからか数発の銃弾が飛んできた。あわててドアのこちら側に戻ってきた黒沢は、美沙に耳打ちした。

「ここでは、階級章は効かないようだな」

 空挺隊員が、黒沢の命令を促した。

「反撃しますか?」

「いかん。ドアの向こうには大量の化学兵器が貯蔵されている。銃弾でタンクに穴でも開いたらことだ」

 空挺隊員がファイバースコープを使って建物のなかの様子を探った。工場内には高さ10メートル以上はあろうかというステンレス製の巨大タンクがいくつも立ち並んでいた。タンクとタンクの間には通路がかけ渡されており、戦闘員たちはそうした通路の陰に潜んでいるようだった。

「では、どうしたら?」

「私が行く」

 美沙は閃光弾の安全ピンを抜き、ドアの向こうにほうり投げた。そしてドアの陰に隠れて閃光をやり過ごし、毒ガス製造工場のなかに走り込んだ。

 ドアの先は、広い工場の内壁を高い位置で一周する回廊へ通じていた。タンクの間には無数のパイプが血管のように張り巡らされていた。ときおりタンクの向こう側から白い蒸気が立ちのぼるのが見え、ポンプが稼働する低い音が建物内のあちこちから聞こえていた。薬品でも漏れているのか、鼻をつく異臭が強く漂っていた。

 煙が薄れてきた工場内を見渡すと、いくつかの人影がドアのほうへ向けて発砲してきたのが見えた。

「6人か」

 すぐに行動に移った。銃器を要求したにもかかわらず、美沙に支給された武器は閃光弾と麻酔銃だった。

 警護を行っている非国民戦闘員は、養成所を出たばかりなのだろう。チームとしての統制もとれておらず、隙だらけだった。あっという間に、通路の影にいた四人に麻酔銃を撃ち込み、戦闘から脱落させた。

 無線の応答がなくなって不安になったのか、通路の先から一人の戦闘員が大声を出した。

「どうした。何があった?」

 養成所で何を習ってきたのだろう、と美沙はため息をついた。居場所がわかった5人目をやすやすと倒すと、彼の自動小銃を拾い上げた。

「味方はすべて倒した。これ以上の戦闘は無駄だ。降伏しろ」

 美沙の声が、工場内に反響した。その反響が消えないうちに、前方のタンクのうしろから両手を挙げた戦闘員が出てきた。美沙の声を合図に駆け込んできた空挺隊員にヘルメットを脱がされた戦闘員は、美沙と同じぐらいの年齢の少女だった。

 そのとき、目の端に何か動くものが見えた。工場の窓の外で、何か大きなものがゆっくりと動いている。船だ。美沙は少女に聞いた。

「あの船は何を積んでいる?」

「化学兵器です」

「貸して」

 手近な空挺隊員から手榴弾をもぎ取ると、美沙は階段を駆け下り、工場建屋の外に出た。船体はすでに岸壁から離れ、係留ロープが巻き取られつつあった。美沙は迷わず海に飛び込み、ロープにしがみついた。

 ロープを登り、舷側の手すりを越えて甲板にあがると、美沙はブリッジを目指して走った。階段を駆け上がり、体当たりしてドアを開けた先がブリッジだった。白いペンキが塗られた室内で、数人の男たちが操船作業をしていた。そのなかでたった一人、戦闘服を着た大男が美沙を見て唸るような声を発した。

「またお前か。F6731号」

 M6657号だった。

「お前は、よっぽどオレに殺されたいようだな」

「日比谷公園で、かなりの傷を負ったはずだが?」

「あんなもの、オレにはかすり傷だ」

「この船をどうする気だ?」

「岸辺総理から直々の命令だ。この船を全速力で陸にぶつける。そうすりゃ、お前も、お前の仲間もおしまいだ」

 それを聞いたほかの男たちは驚いてブリッジから逃げ出し、先を争うように海へ飛び込んだ。

「やめろ。私たちといっしょに人間らしく暮らせる世の中を作ろう」

 M6657号は、大声で笑った。

「笑わせるな。そんな世の中で、オレは何をするんだ。オレのような人間は戦争がなくちゃ生きていけねえんだよ」

 M6657号は握っていた舵輪を引き抜き、美沙に投げつけた。直径50センチほどの金属製の舵輪は、しゃがんで避けた美沙の頭上を通り、窓を破って海に落下した。

「これでもう、この船の進路は変えられねえ。エンジンもロックした」

 とびかかってきたM6657号を寸前でかわし、転がって反対側へ逃れた。だがM6657号の動きは素早かった。すぐにからだをひねり、美沙の右足をつかんで引き倒した。左足で相手の顔面を蹴って逃れたが、今度は背後から体当たりされてブリッジ後部の棚にたたきつけられた。

 その隙にM6657号は立ち上がり、ブリッジのなかを見まわした。そして消火器を見つけると、それを片手で頭上に振り上げた。顔に残忍そうな笑みが浮かんでいた。獲物をどのようにいたぶれば長く楽しめるか、と考えているような笑みに見えた。

 床に倒れた美沙もあたりを見まわして、何か武器になるものがないかと探した。すると、レーダースコープの下に拳銃のようなものが転がっているのが目に入った。信号弾だった。いまの衝撃で棚から落ちたらしい。

 美沙はM6657号が振りおろした消火器をよけながら素早くレーダースコープの下にからだを滑らせ、信号弾を拾いあげた。勢いを利用してブリッジの反対側まで転がり、照準ももどかしく引き金を引いた。

 弾丸は煙の尾を引いてM6657号の腹部に命中した。

「なんだ、これは? ちっとも効かねえぞ」

 凄みのある笑みを浮かべたM6657号が、再び美沙に飛びかかろうとしたときだった。花火がはじけるような音とともに、すさまじいオレンジ色の炎があたりに充満した。美沙は、とっさに腕で目を覆った。

 炎がおさまり、目を開けてみると、無残に焼け焦げたM6657号の死体が床に転がっていた。

 すぐにコンソールに駆け寄りレバーを操作したが、エンジンは減速も停止もしなかった。美沙はポケットから携帯端末を取り出した。

「黒沢だ。どうなった?」

「敵は制圧。船は全速力で陸へ向かっている。コントロール不能。どうすればいい?」

「船底に行ってキングストン・バルブを開け。船を沈めるんだ」

「でも、化学兵器が漏れ出したら……」

「その位置なら水深が浅い。着底しても漏れることはない」

「場所を教えて」

「探して、すぐに送る」

 しばらくすると、美沙の携帯端末に場所を示す図面が送られてきた。傾斜のきつい階段を駆け下りるように船底に降り、キングストン・バルブのある場所へと急いだ。

 バルブはすぐに見つかった。だがバルブは堅く締まり、美沙の力では開かなかった。まわりを見回したが、テコに使えるような棒は見つからなかった。

「どうする」

 美沙の決断は早かった。ポケットから手榴弾を取り出し、ピンを抜いて船底に転がした。爆発と同時に、激しい水流が船内に流れ込んだ。美沙は速い深呼吸を4、5回繰り返すと、ためらうことなく水のなかに飛び込んだ。水流に逆らい、破孔を目指して泳いだ。

 破孔を通り抜ける途中、めくれあがった船底に、着ていたつなぎが引っ掛かった。力いっぱい引っ張ったが、はずれない。このままでは海底に引きこまれてしまう。美沙はつなぎのファスナーを降ろし、脱ぎ捨てた。

 水面から差し込む太陽の光が、オーロラのように帯状になって踊っていた。その間をくぐり抜けながら、美沙は黒い鉄の塊がゆっくりと海底へ向かって下降していくのを見た。

 海面に浮かび上がると、細かな水しぶきが太陽の光を受けてキラキラと輝いていた。これまで、そんなものにはまるで興味が湧かなかったのだが、いまはその光景がとてもいとおしく、美しいものに感じられた。

 しばらく見入っていると、上空にヘリの音が聞こえてきた。ワイヤーの先につかまったレスキュー隊員が海に飛び込み、美沙を支えた。やがてワイヤーが海面まで降ろされ、下着だけになった美沙を救命具にキャッチするとヘリに引き上げた。


 総理官邸の地下にある危機管理センターでは、岸辺がパニックに陥ろうとしていた。16面のモニターには、絶望的な状況が刻々と映し出されていた。各地の前線で突然A国の大攻勢が始まり、陣地の喪失が相次いで報告された。戦地近くを遊弋ゆうよくしていた自衛艦へもミサイルが発射され、多くの艦艇が戦闘不能に陥った。

 さらに爆撃機部隊が東京近郊の自衛隊基地を爆撃し、陸上と航空の自衛隊は壊滅状態に陥っていた。九十九里浜の沖には、大規模な上陸部隊が迫りつつあった。

「臨時代理。東京はもう時間の問題です」

 指揮官の悲壮な顔が映し出されたモニターを見つめながら、岸辺は大きな歯ぎしり音を立てた。

「くそっ」

 近くのコンソールを蹴りつけると、岸辺は激しく指を吸いながらデスクのまわりを早足で歩きまわった。


 官邸からやや離れた建物に、急ごしらえの作戦室が設けられていた。ブラインドをすべておろして照明を暗くした会議室に多数の高性能パソコンが運び込まれ、お互いに接続されて臨時のオペレーション・システムが構築されていた。部屋の中心では、ヨハンがアベのアシストを受けて偽の情報を送り込む作業に没頭していた。

「だいぶ、あわてとるようだぞ」

 二人のうしろから、町田と御子柴、そして自衛官の制服に身を包んだイオと悪心坊、そしてサナエが見つめていた。ヨハンのモニターのひとつには、別の場所で撮られた映像が映し出された。

「臨時代理。こちらは護衛艦『えちご』です。ヘリを回しますから、こちらへご移乗を」

 もちろんその映像は、ヨハンとイオたちが用意した偽物だった。

「このアベ君という若いのは優秀だな。儂の技術をあっという間に習得してしまいおった」

 アベはその言葉に、はにかんだような笑みを見せた。

「そのうえ、自分の技術を加えて完璧なシステムを作り上げた。これなら岸辺も疑うまい」

 嬉しそうなヨハンの様子を見て、イオがたしなめた。

「浮かれていないで、仕事をしろよ」

「仕事はきちんとしとるよ。現に岸辺は、いよいよ脱出する気になっとる。そろそろ君たちの出番だぞ」

 その言葉が終わらないうちに、危機管理センターから連絡が入った。「臨時代理が『えちご』に移乗するのでヘリをまわせ」という内容だった。

「きたぞ」

 イオは悪心坊とサナエを促し、建物の屋上にあがった。そこには、陸上自衛隊から借りたヘリコプターが待機していた。

「壊さないで返してくださいよ」

 機体を運んできたパイロットが心配そうに言った。サナエはそれに軽く手を振り、軽い足取りで乗り込んだ。機長席に陣取ったサナエは、さっそく計器を確認し始めた。

「ええと、このスイッチは何やったかいな?」

 悪心坊の顔が青ざめた。

「お、おい、サナエさん。あんた、ホンマに操縦でけるんか?」

「冗談や」

 真顔に戻ったサナエは慣れた手つきでエンジンを始動させ、操縦桿を操作した。ヘリは軽快に空へと舞いあがった。


 あたりを圧する爆音を立てて、総理官邸の前庭にある緑地にヘリコプターが着陸した。自衛官に化けた悪心坊がスライド・ドアを開けると、官邸の玄関から5人のSPに護衛され、岸辺が駆け寄ってきた。服に手をかけ、岸辺を機内に引っ張り上げた。

 SPが続けて乗り込もうとするのを、悪心坊が制止した。

「あとは、こちらにおまかせを」

「いや、しかし」

「5人も乗ったら定員オ―バーや」

 それでもなお「乗せろ」と要求するSPたちを、悪心坊は蹴り倒した。その隙に、ヘリは再び舞いあがった。


 シートに座った岸辺に、イオが近づいた。

「臨時代理。これをお付けください」

「何だ、これは?」

 荒い息を吐く岸辺の姿を、イオは上から見つめた。そこにいたのは、深い皺を顔に刻み、背中が少し丸くなった初老の男だった。異常なほど見開き、肉食獣のようにあたりを睥睨(へいげい)する目の鋭さ以外は、これといった特徴が見当たらなかった。

 これが非国民プロジェクトを作り上げ、15年間にわたって日本を牛耳ってきた男かと思うと、なかば気落ちがするような気分になった。

「パラシュートです」

「そんなものは、いらん。邪魔だ」

「万が一の時のためです」

「万が一?」

「何が起きるかわかりませんので」

「何が起きるというのだ。『えちご』に移るだけだ。何分もかかるまい」

 イオは粘った。パラシュートをつけさせるのは、この作戦の重要なポイントだった。

「大事なおからだです。この先の指揮を執る人間がいなくなったら、この国はどうなりますか」

 岸辺はしぶしぶ立ち上がり、イオにパラシュートをつけさせた。装着を終えると岸辺は再びシートに座り、窓から外を見た。

「いったい、どこを飛んでいるんだ。東京湾の『えちご』に行くのではないのか?」

「敵が近づいているという連絡がありました。東京湾からはもう脱出できません。もっと南にいる艦艇へ向かいます」

 一時間ほど経ったときのことだった。ヘリが突然降下を始めた。窓の外では、黒煙が後方に向かって噴き出している。

「敵の攻撃です!」

 サナエが操縦席から大声で叫んだ。降下する機体のなかで、イオは岸辺のからだを支えた。悪心坊が怒鳴った。

「臨時代理。被弾しました!」

「くそっ。ドアを開けろ。飛び降りる」

「危険です。敵がいます」

「このまま墜落したら確実に死ぬ」

 ヘリコプターは降下の角度を増し、刻一刻と海面へ近づきつつあった。

「おやめください、臨時代理。着水を試みますから」

「うるさい、手を放せ! このままでは死ねん。A国に一矢報いねばならん」

 岸辺はイオの手を振り払い、自分でドアを開け放った。

「パラシュートはどうやって開くんだ?」

「自動的に開きます」

「救命ボートは?」

「すぐに投下します」

 それを聞いた岸辺は、ためらうことなく空中へ身を踊らせた。くるくると回転する岸辺を追うように、ヘリから救命ボートが投下された。

 やがてパラシュートが開いて岸辺のからだは安定し、ゆっくりと下降をはじめた。先に海面に達した救命ボートが自動的に膨らんだ。そこからやや離れた場所に着水した岸辺はパラシュートをはずすと、抜き手を切って救命ボートに泳ぎ着いた。

 それを見届けた悪心坊は、サナエに合図した。

「もう、ええで」

「はいな」

 黒煙が止まり、再び上昇に転じたヘリは、もと来た方向へ進路を変えた。開け放したドアから、イオと悪心坊は後方に流れていく海面を眺めた。

「うまくいったな」

「自分で勝手に飛び降りよったんやからな。ワシらが突き落としたのと違(ちゃ)うで」

「オレたちは、止めたよな?」

「そやったか? ところで、救難信号発信装置が故障していることは、ちゃんと伝えたんやろな?」

 悪心坊のわざとらしい問いに、イオは意味ありげに笑った。

「言い忘れた。運が良ければ、どこかの船に拾ってもらえるだろう」

「悪運が強ければ、やろ?」

「サナエさんのおかげやで。やっぱりアテ、幸運の女神やな」

 自分たちの背後にサナエがいるのを見て、二人は叫んだ。

「うわああああ」

「操縦せんで、ええんかっ」

 サナエはそんな二人を面白がるように微笑んだ。

「オート・パイロットに、してあるがな」

 青空の下を、ヘリコプターは爽快な爆音を響かせながら北へ飛んだ。


 任務から戻ったヘリを、町田や御子柴が出迎えた。川崎沖の人工島から、黒沢と美沙も戻ってきていた。下着の上に、黒沢から借りたジャケットを羽織っただけの美沙を見たイオは驚いた。

「美沙! どうしたんだ、その格好は」

「ちょっと泳いだから」

 イオは、何か着るものを借りてきてほしいと悪心坊に頼むと、美沙を抱きしめた。

「無事だったか。良かった」

「イオのほうも、うまくいったみたいだね」

「ああ。これでオレの仕事もすべて終わりだ」

「イオは、これから何をするの?」

「オレか? オレはな……」

 突然、背中に衝撃を受け、あとの言葉が続かなくなった。

「どうしたの?」

 急に沈黙したイオに、美沙が問いかけた。

 イオは、自分のからだから急速に力が抜けていくのがわかった。立っていることができず、ゆっくりとひざまずいた。

「イオ?」

 背中に手をやると、何か固いものに手が触れた。ナイフが深々と突き刺さっていた。力を振り絞ってうしろを見ると、薄笑いを浮かべたアベが立っていた。何が起こったかを察した美沙が間髪を入れずにアベに飛びかかり、うつぶせにして組み敷いた。

「なぜ?」

 美沙に馬乗りにされ、身動きできないアベは愉快そうに笑った。

「父さんと母さんの仇だ」

「仇?」

「そうだ。こいつのせいで父さんは行方不明になり、母さんは頭がおかしくなって自殺したんだ。こいつが、自分のガールフレンドを追っかけて非国民になったりするから」

 地面に倒れこんだイオは、次第に遠くなりつつある意識を必死に保った。

「お前、もしかしてマオか?」

「これだけ長い時間いっしょにいて、今まで、実の弟だと気が付かなかったのか」

「そうか。マオだったのか。あまり顔が変わっていたんで……」

「お前に復讐しようとセンターに入ってから10年目だ。お前を見つけたときは、天に祈りが届いた気がしたぜ。思い知ったか、この身勝手野郎!」

 マオは美沙にのしかかられながらも顔を上げ、イオを罵り続けた

「お前さえ、お前さえ勝手なことをしなければ、ウチはずっと平和なままでいられたのに。お前さえ勝手なことをしなければ……」

 同じことを繰り返しわめくマオを殴りつけようとする美沙を、イオは止めた。

「美沙、やめろ。いいんだ」

「よくないっ」

「いいんだ。マオの言うとおりだ。オレは家族のことも顧みず、感情にまかせて行動した。その報いは、受けなければならない」

「イオ!」

 美沙がイオに駆け寄って抱き起した。

「イオ! 死んじゃイヤだ。死なないでっ」

 美沙が握る手を、イオは弱々しく握り返した。

「美沙。お前に会えてよかった。これからは自分の生を生きろ。やりたいことは全部やれ。行きたいところへは全部行け。好きなことをして生きるんだ」

「イオ!」

 自分のからだが、しだいに軽くなっていくように感じた。

「すまなかった、マオ。向こうで父さんと母さんに謝るよ」

「イオ―っ」

「理沙と、桃香にも会えるかな」

 柔らかな微笑みを浮かべながらイオは「美沙」とつぶやき、そして動かなくなった。

 静まり返ったなか、繰り返しイオの名を呼び続ける美沙の声だけが、まわりにいる者の耳に突き刺さった。その場からヨハンが姿を消したことなど、誰も気に留めなかった。

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