第15話

6


 部屋がわずかに振動し、天井から埃が舞い落ちた。

「なんや? 地震かいな」

 悪心坊が不安げに部屋のなかを見回した瞬間だった。地中から突き上げるような激しい縦揺れが、アジトを襲った。一瞬で家具がすべて倒れ、部屋全体がコンクリート・ミキサーのようになって、なかにいた人間といっしょくたにかきまぜた。人一人の力では、そこから脱出することなど不可能だった。

 揺れが収まったのは、二分ほど経ってからだった。

「ア、アベ君。生きとるか?」

 ちょうど倒れた家具の隙間に入り込んで助かった悪心坊は、アベを呼んだ。

「おーい、アベ君。生きとったら返事せぇ」

 再三の問いかけに、ようやく答えが返ってきた。

「大丈夫です。生きてます」

「そうか、よかった。君、そこからこっちへ来れるか?」

「待ってください」

 床に散乱したガラクタをどかしているのか、大きなものを動かす音がしだいに近づいてきた。

「悪心坊さん、どこですか?」

「ここや、ここ」

 横倒しになった棚の下から発する声で、アベに悪心坊の居場所が伝わったようだ。だが棚は重く、なかなか動かなかった。

「くそ、動かねえ」

 棚を軽くするため、なかに入っていたものを外に出す音が聞こえた。数分もしないうちに、頭の上から棚が取り払われた。

「ひゃあ、助かったわ。君がおらなんだら死んどったかもしれん。おおきにな」

 アベは、いつものようにちょっと照れたような表情を浮かべた。だが悪心坊はそれに気づくこともなく、次の指示を出した。

「みんなを連れて、ここを出るんや。いつ崩れるか、わからんよって」

 部屋の扉をなんとかこじ開け、通路に出た。アベも、そのあとを追ってきた。別の部屋にいた3人の同志は、打ち身程度の軽傷は負っているものの、全員無事だった。悪心坊は彼らを連れて階段をのぼり、床のフタをなんとか押しのけて店の外に出た。

「どこへ行くんですか?」

「通天閣や」

 5人の同志は一団となって、数十メートル先にある鉄の搭をめざして走った。鉄筋コンクリートの建物にはあまり被害はないようだったが、木造の古い建物は傾くか、倒壊しているものが多かった。路上には建物から落ちてきた瓦礫が散乱しており、屋内から逃げ出してきた大勢の人たちが、不安げにあたりを見回していた。

 通天閣はごった返していた。エレベーターは停止していた。悪心坊とアベを含めた五人は、展望台への階段を駆け上った。制止する係員は誰もいなかった。

 息を切らせ、やっとのことで展望台へ這いあがると、そこも人でいっぱいだった。すると、そのなかから大きな声が上がった。

「津波や!」

 悪心坊は人波をかき分けて窓ガラスに近づいた。

「あそこや。もう近いぞ」

 その指さす先、大阪湾の海の上に、不気味な海面の盛り上がりが見えた。そしてその盛り上がりは、坂道を転がる雪だるまのように大きくなりながら、大阪湾に浮かぶ島々に迫りつつあった。

「早よ、逃げえ!」

「ああ、もうあかん」

 水の塊は何の躊躇もなく島を呑み込むと、勢いを衰えさせることなく西淀川区、此花区、港区、住之江区などを進んだ。そしてさらに環状線を越えて市街地を水没させると、上町台地の裾で堰止められた。跳ね返された水は南と北へ流れたほか、もういちど低地の上を逆流して大阪湾へ戻った。

 惨劇を目の当たりにして、悪心坊はガラス窓を何度も強く叩いた。人間の力ではとうてい抗(あらが)いようのない大自然の脅威に、なすすべもなく見ているだけの自分が心の底から悔しかった。

 南海トラフ付近で発生した地震は西日本一帯を襲い、死者・行方不明者30万人以上、倒壊家屋200万棟以上の被害を出した。


 家の外で車を乗り捨てるように降りると、スリは体を揺らして家のなかに飛び込んだ。

「イオ!」

 テレビを食い入るように見ていたイオと美沙は、スリのほうに一瞬だけ視線を投げかけただけで、また画面に集中した。

「マグニチュード9.0だそうだ。西日本は壊滅状態らしい」

 冷静に話すイオに、スリは興奮した様子で大声を出した。

「イオ、日本に戻るべきよ。あなたの同胞を助けなければ」

「だが、まだ武器が調達できていない」

「そんなことを言ってる場合じゃないでしょ。テレビを見たでしょ?」

 この期に及んで武力革命にこだわるイオが、スリには信じられなかった。

「あなたがいまなすべきことは、日本に帰って困っている人を助けることよ。政府に対してテロを起こすことじゃない」

 まだ納得しない様子のイオに憤慨し、スリは美沙をたきつけた。

「美沙。イオに言ってやりなさい」

 美沙はイオの目を見つめ、ゆっくりとした調子で自分の考えを話しはじめた。

「私、日本に帰って、あの人たちを助けたい」

「いや、しかし、彼らは非国民から搾取して自分の暮らしを成り立たせている連中だぞ」

「イオ、前に言ってたよね。自分たちは人間が人間らしく暮らせる場所を作りたいって」

「あ? ああ」

「あの人たちはこれから、人間らしい暮らしができるかな?」

 美沙の問いかけに、イオは答えることができなかった。

「救助活動を非国民が手伝ったら、非国民と国民が仲良くなる機会になるんじゃないかな」

 美沙の言葉が胸を刺したのか、イオは沈黙した。このような災害に乗じてテロを起こしても、人々の支持を得られないことは明白だった。

「いろいろ勉強してわかったんだ。非国民と国民はもともといっしょに暮らしてたんだよね。それがある日、たった一つの法律が変わっただけで、貧乏だからという理由だけで別々に暮らすことになって、排除と差別の対象になっちゃったんでしょ」

「そのとおりだ」

「いまの政府が非国民プロジェクトを永久に続けようとしているのは、知ってる。そんなのはやめさせなくちゃいけないと思う。でもいまは、非国民と国民が手をつなぐのが先じゃないかな」

 この子はいつの間にこんなに成長したのか。スリは感慨深げに美沙を見つめた。

「手をつなぐことができれば、何かが変わると思うよ」

 テロ行為による暴力革命は、とうに行き詰っていた。美沙の言葉は、イオにとっても、彼を手伝うスリにとっても救いだった。

「それに」

 美沙はイオの前にひざまずいて、その手を握った。

「ニニと約束したんだ。みんなの居場所を作るって」

 美沙の瞳は、吸い込まれるような深さと強さを湛(たた)えていた。

「わかった。だが、具体的にはどうする?」

 スリが身を乗り出した。

「B国では災害派遣ボランティアを募集することになったわ。それに応募しなさい」

「良いアイデアだ。そうしよう。スリ、いろいろありがとう」

「何を言ってるの。私も行くわ」

「えっ」

「私に来られては、困ることでもあるの?」

「いやその、重量オーバーで飛行機に乗れないのではと思って」

 スリは、すべての体重をかけてイオの顔面にパンチを叩きこんだ。ないしょで美沙から習っておいた護身術のひとつだった。

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