第14話
5
通天閣の北側にある横町を入ると、ゲイバーばかりが立ち並ぶ怪しげな一角がある。ゲイバー〈蛸壺〉は、それらのなかでもマニアックさでは一、二を争うといわれる、ひときわ怪しい店だった。
淫靡さをいやがうえにも盛り上げる真っ赤な照明の下で、二人のニューハーフがカウンターの上に座っていた。二人とも一糸まとわぬ姿で、豊かな乳房をお互いの体に押し付けながら絡み合っている。わずかな客が、濃厚なキスを交わす二人を見てさかんに卑猥な声援を送っていた。
そこへ、作業衣を着たスキンヘッドの男がせわしげに入ってきた。彼はカウンターの上で行われている猥雑な行為を気にとめるでもなく、そのまま奥へ入ろうとした。ママの厚子が、あわててそれを制止した。
「あ、兄さん。待っとくんなはれ」
「電気の修理だすわ」
厚子が黙ってうなずくと、男は店の奥へ入った。そして積まれたビールのケースを横にどけ、床の一部を持ち上げた。そこには地下へ通じる階段が隠されていた。
地下には、人が一人、やっと立って歩けるほどの通路が通じていた。通路沿いにはいくつかのドアが設けられている。スキンヘッドの男は、そのなかの一つを一定のリズムでノックした。
なかから現れたのは、アベだった。
「悪心坊さん。遅かったですね」
「なかなか、君の要求どおりのものが見つからんかったんや。でも、ようやく手に入れたで」
悪心坊は、手に持っていたビニール袋を手渡した。アベは礼も言わず、袋の中身をテーブルの上に出して確認した。
「PS―525FKか。525FL2が良かったんだけど、まあ、いいか」
「せやけど、いったい何を作るんや、それで?」
「公安警察が使っている暗号通信を解読できるかもしれません」
「ほんまか。それができたら、こっちもラクになるなあ。君、たいしたもんやな」
アベは何も言わずにうつむいた。彼なりの、はにかみの表現らしかったが、悪心坊は気づかなかった。
「あいかわらず、愛想のない奴やな」
そう言うとタオルで汗を拭きながら、部屋の奥に置かれたパソコンに向き合った。アベは視力のある右目で悪心坊を一瞬睨みつけると、自分の仕事に戻った。
初めて見るB国の姿は、美沙にとって驚きの連続だった。見たことのないほど多くの人々と彼らが大声でしゃべり合う姿、我が物顔に行き交う自動車やバイク、そして数えきれないほど多くの種類の品物を並べる店々。目に映るすべてのものが、耳に届くすべての音が、そして鼻に入ってくるすべての匂いが珍しく、新鮮だった。
「うわあ」
思わず感嘆の声を上げた美沙に、イオは優しく言った。
「学ぶべきことは、たくさんある。だけど、ゆっくりとでいい。焦ることはない」
偽造パスポートでB国人に化けたイオは、武器の調達に美沙を伴った。「待っとくんなはれ」の仲間に依頼すると、すぐに彼女の偽造パスポートもできあがってきた。しばらくはB国に滞在し、ゆっくりと美沙を教育するつもりだった。
イオと美沙は表通りを抜け、一本の路地へ折れた。その先には、2階建ての民家が密集して連なっていた。それぞれは個別に建てられているが、家と家の間に隙間がないので、棟続きの長屋のように一つに繋がって見える。二人はその中のひとつの、2階に白いバルコニーがある小さな家に近づいていった。
二人が隠れ住む家は、スリという名の女性の持ち物だった。その女性は15年前、地雷原を突破したイオが行き倒れになっているところへたまたま通りがかり、彼を助けた。
「あなた、どうしたの? どこから来たの? なぜ手錠をされているの?」
「オレの名はイオ。日本から来たが、非国民だ」
「非国民? 非国民って、何のこと?」
大学院を出て弁護士として働くスリは、憧れていた日本の現状をイオの口から聞くと驚愕し、非国民プロジェクトの打倒を手伝うと約束した。そしてそれ以来、イオがB国に来るたびに、亡き両親の家を隠れ家として提供していた。
さらに大学院時代のコネで仲間を募り、武器を調達するなど、ひそかに後方支援を行った。彼の首に取りつけられた爆弾をはずしたのも、ナビゲーターを取りはずす機械を製作したのも、彼女の仲間たちだった。
開けっ放しの扉が一定のリズムでノックされた。それがイオの合図であることにスリはすぐに気が付き、太った体を椅子から持ち上げた。待ちかねた気分で玄関へ出てみると、イオは女を連れていた。少なからず、ショックを受けた。
「スリ。これは美沙だ」
スリは、あまりに若いこの女とイオがどういう関係なのかを疑った。ところが、ストレートな質問を発したのは美沙のほうだった。
「あなたは、イオとどういう関係ですか?」
それはこちらのセリフよ、という言葉をスリはかろうじて呑み込んだ。
「同志よ。非国民プロジェクト打倒の」
頬をふくらませて怒るスリに、今度は美沙が驚いた。
「なぜ、怒るのですか?」
「別に怒ってないわ」
二人の関係は、ぎこちなく始まった。
たどたどしい英語で、美沙は自分の生い立ちを語った。同盟国の軍隊とコミュニケーションをとるため、英語は戦闘員養成所の必修科目とされていた。
「私はこれまで、戦うことしか教えられてきませんでした」
純非として生まれ、国籍離脱者センターのなかに閉じ込められまま外の世界を知らず、ただ戦闘員になるためだけに生かされる人生。美沙の境遇を想像し、スリは涙を流した。
「なぜ、泣くのですか?」
スリは美沙を引き寄せ、抱きしめた。他人の辛さに寄り添うということを知らない美沙が、哀れだった。先ほどのぶしつけな質問も、どうやら美沙に悪意はなく、人との接し方を知らないだけだとスリは気がついた。
スリの腕の中で居心地が悪そうにしている美沙に向かって、スリはキスの雨を降らせた。
「もう大丈夫よ。このスリが、あなたのお母さんの代わりになってあげるからね」
「お母さんって、何ですか?」
「え?」
どう説明していいかわからず、スリはイオに助けを求めた。イオも、困った顔をしていた。二人の間には、何か複雑な事情がありそうなことが、その表情から伝わってきた。
「もしかして、美沙はイオの?」
「おそらく。でも、確かめたわけじゃないんだ」
「確かめなきゃ。DNA検査をしなさい」
「いや、でも……」
「違っていたら違っていたでいいじゃないの。この子が気に入っているんでしょう?」
スリは、ためらうイオを強引に説得して検査を受けさせることを承知させた。
「DNA検査って、何ですか?」
「イオとあなたに血の繋がりがあるかどうか、調べるのよ」
首をかしげる美沙に、イオが聞いた。
「美沙。お父さんやお母さんのことは、何か聞いているかい?」
「何も聞いてません。お父さんやお母さんって、何ですか? 私とどういう関係があるんですか?」
美沙の答えに、スリは愕然とした。
「もしかして、子供がどうやってできるのかも知らないの?」
「産院というところで発生すると聞きました」
「発生!?」
呆れたスリは奥の部屋へ入り、自分が学生時代に使った保健の教科書を持って戻ってきた。
「いい。子供というのはね……」
自分の目を見つめながら無心に話を聞く美沙を前にして、スリは心に不思議な感情が芽生えるのを感じた。なかば諦めていた、娘を産んで育てるという夢が、かたちは違うが実現しているような気がしてきた。
スリは、この娘が望むことはすべて教えることに決め、翌日からさっそくそれを実践した。自分で教えられるものは自分で教え、そうでないものは友人に頼んだ。仕事柄、自分のまわりにはいろいろな専門家がいた。
聡明で乾いたスポンジのように知識を吸収する美沙に、スリはしだいに惹かれていった。美沙もスリの想いに応え、あらゆることを質問し、学び、自分の血肉としていった。
3人で街へ買い物に出たときのことだった。美沙は人込みのなかから自分に向けられた視線に気づいた。注意深くその視線のもとをたどると、1軒の家の戸口に、車椅子に乗った少女を見つけた。年齢は、自分と同じぐらいだった。
少女は美沙が自分を見ていることに気づき、手を振った。
「あの子が手を振っているけれど、どうしたらいい?」
イオは、美沙が指さす車椅子の少女を見て言った。
「そばへ行って話しかけてみたら?」
「そうしなさい」
美沙に友人が一人もいないことを心配したスリが促した。美沙はうなずくと、二人から離れて少女に歩み寄った。
自分の目に前に立った美沙の背が高いことに、少女は驚いたようだった。
「ハイ。私はニニ。背が高いのね」
差し出す右手を、美沙はとまどいながら握った。
「私は美沙。あなたは足が悪いの?」
「悪いのは、足じゃなくて心臓よ。こんなからだだから、学校へも行けないの」
「ふうん」
国籍離脱者センターでは、歩けないほどからだが悪ければ殺処分される。ここはセンターとは違うんだな、と美沙は感じた。
「だから、私が見られるのは、この戸口から見える景色だけなの」
「景色が見たいの?」
美沙はそう言うと小さなニニを軽々と肩の上に載せ、歩きはじめた。
「すごい、すごい。わあ、なんてすてきな景色」
その声に、ニニの母親があわてて戸口に出てきた。心配そうな顔をする母親に、スリが説明した。母親は納得した様子で、成り行きを見守った。
初めて見る街の様子にニニは興奮し、頬を紅潮させた。これまで話には聞いていても見たことのなかった物を実際に手に取り、その質感を確かめるニニの姿に、美沙は自分を重ね合わせた。二人とも、これまで外の世界を知らずに育ってきた者たちだった。
街をひと回りして戻ってくる頃には、二人は幼馴染のように親しくなっていた。
「美沙。私の初めての友だち」
「友だち? 友だちって?」
「なんにも知らないのね。いっしょにいると楽しくて、いろんなおしゃべりができる人のことを、友だちっていうのよ」
「そうか、それが友だちなのか」
「そうよ。それが友だちよ」
その日から美沙は毎日のようにニニを訪ね、肩に乗せたり車椅子を押したりして散歩に連れ出した。
そんなある日のこと。美沙はニニから唐突に聞かれた。
「美沙は将来、何になりたいの?」
「え?」
美沙はとまどった。そんなことを考えてみたこともなかった。
「ニニは、何になりたいの?」
考える時間を稼ぐために、同じ質問を返した。
「ニニはね、ニニは……」
大きな目を忙しげに動かしながら、ニニは嬉しそうに答えた。
「元気なからだになって、かっこいい男の子と恋をして、結婚して幸せに暮らすの」
「恋って、何?」
「本気で言ってるの?」
年頃の女の子なら誰でも知っているはずのことを、美沙は知らなかった。ニニはそのことに心の底から驚いた。
「恋っていうのはね」
呆れたニニは、自分が知っている限りのことを美沙に伝えた。
「わかった?」
「ようするに、心が乱れて平常心が保てなくなった状態のことだな」
自分の説明がうまく通じなかったことに、ニニは落胆した表情を浮かべた。
「で、美沙は将来、何になるつもり?」
しばらく考えてから、美沙は答えた。
「居場所を作る人、かな」
「居場所? 誰の?」
「私とイオとスリの。それから、日本にいるおっちゃんもいっしょに暮らせたらいいな」
「そこに、私の居場所も作ってほしいな」
「え?」
ニニがなぜそんなことを言うのか、美沙にはわからなかった。
「男の子と恋をして結婚するって、さっき」
「それは夢。こんなからだだからね。せめて、美沙の作る居場所に私も連れていって」
ニニは、それきり黙りこくってしまった。どうしてよいかわからなくなった美沙は「また明日」と小さく言って別れを告げ、隠れ家に戻った。
2両編成の短い列車が通り過ぎたあとの線路の上は、すぐに市場と化した。人々はあわただしく店を広げて商品を並べ、大きな声をあげて客を呼び込みはじめた。無限と思えるほどバリエーション豊かな洋服、新鮮な野菜や果物、プラスチックや金属でできた日用品、これまでに嗅いだことのない匂いを発する食べ物などが足の踏み場もないほど、地面や台の上に置かれていた。
コンクリートに塗りつぶされていた戦闘員養成所に比べ、この国は何と色彩が豊かなことか。常に緊張を強いられ殺伐としていた雰囲気に比べ、ここは何と笑いに満ちていることか。この場所に集まっているすべての人間が自らの意思を持ち、自分の人生に満足はしないまでも納得して生きているように見えた。美沙は、自分がここにいることが現実だとは、なかなか信じられなかった。
市場を抜け、美沙は一軒の古い家に入った。
「ニニ」
「ハイ、美沙」
ベッドのなかから、ニニが弱々しく手を挙げて答えた。
「からだの調子は、どう?」
「あまり良くないの」
「そう」
美沙はベッドの横に座り、ニニの手を握った。このところ彼女の体調は悪くなる一方で、散歩に出られない日が続いていた。イオやスリに相談すると、ニニの回復には難しい手術が必要で、それには莫大な金がかかると言って悲しそうな顔をした。
そこへニニの母親が部屋に入ってきて、美沙に微笑んだ。彼女は洗面器をベッドの傍らに置くとニニの服をはだけ、からだを濡れたタオルで拭いはじめた。美沙は、その様子を見るのが好きだった。母と娘の間に会話はなくても、強い繋がりがあるのが感じられた。母親というものをよく知らない美沙に、それは憧れにも似た感情を呼び起こした。
やがてニニは目を閉じ、美沙が話しかけても返事を返さなくなった。浅く小さな呼吸音が耳に届くたびに、壊れゆくニニの夢のかけらが、部屋のなかに埃のように積み重なっていくように感じられた。
「また明日、来るよ」
ニニの母に挨拶し、美沙はニニの家を出た。
ヤシの木が立ち並ぶ通りを歩きながら、美沙は考えた。この国では、子供は親と呼ばれる大人といっしょに暮らしている。親と子供は心で強く繋がっているように見える。それに、病気になっても殺処分されない。非国民の扱いとは大違いだ。
どうして、このように違うのだろう。どちらが正しいのだろう。いくら考えても結論は出なかった。考えているうちに、隠れ家についた。
ちょうど昼食を作っていたイオが出迎えた。
「おかえり、美沙」
「ただいま。ご飯を作ってるの? 手伝おうか」
「いや、大丈夫だ。もうすぐできるから」
イオはあわて美沙の申し出を断った。数日前、美沙が作ってくれた料理は、塩の塊を食べているような味がした。
「ニニはどうだった?」
「調子が悪い、と言ってた」
「そうか。心配だな」
「心配って?」
「ニニに早く良くなってほしいと思うだろう? それが、心配するということさ」
「ふうん」
「市場は楽しかったかい?」
美沙は、ちょっと困ったような顔をした。自分の感じたことをうまく言葉にできないようだった。
「あまり活気があるんで、びっくりしたか?」
「ああ、そう。そういう感じ。たくさんの人がいて、笑っていた」
イオは料理を盛った皿を美沙と自分の前に置いた。
「なあ、美沙」
美沙の正面に座り、イオは勇気をふるった。ジムで出会ったとき、イオはすぐに美沙が自分の娘であると確信した。美沙の顔は、理沙のそれに瓜二つだった。できれば今回のB国滞在中に、自分が父親であることを打ち明けたいと考えていた。
「何?」
自分を見つめる美沙の目には、何の疑念も持っていないように見えた。自分が父だと打ち明けたら、美沙は何と思うだろうか。政府から追われるテロリストが父だとしたら、失望どころか嫌われるのではないか。告白する勇気が急速にしぼんでいくのを感じた。
「いや、いいんだ」
ためらう自分を不思議そうな顔で見つめる美沙から、イオは視線をはずした。
そこへ、スリが大量の食糧を抱え、太ったからだを揺すりながら家に入ってきた。
「やあ、スリ。仕事はどう?」
「もう、忙しくてやんなっちゃう。戦争中だから、外国企業との取引にはいろいろ面倒な規則があるのよ」
美沙もスリを見つけて駆け寄った。
「ハイ、スリ」
「ハイ、美沙」
スリと美沙は、ハグをし合った。
「今日は、これを持ってきたの」
スリは、バッグから一通の書類を取り出した。
「結果が出たのか?」
「そう」
「どうだったんだ?」
「自分で読んでみなさい」
スリが差し出した書類には、DNA鑑定の結果がかかれていた。
《この二人は、99.8%の確率で親子であると鑑定する。》
確信はしていたものの、抱いていた一抹の不安が淡雪のように消え去るのをイオは感じた。さきほどの逡巡などさっぱりと忘れ、美沙を抱き寄せ、その髪にキスをした。
「何?」
美沙は困った顔をした。その表情に、どうしてこのような意味のない接触をするのか、という抗議を読み取ったが、イオは無視した。
「お前は、やっぱりオレの娘だった」
「ああ、この前スリが言っていた血の繋がり、ということ?」
「そうだ。お前はオレと理沙の子なんだよ」
イオは、美沙に頬ずりをした。スキンシップは、親子の概念を知らずに育った美沙に父というものを教えようとする、イオなりの教育だった。そのたびに美沙は迷惑そうな顔をしたが、親子がこうした皮膚の接触を伴う関係だということは理解できたようだった。
二人の様子にちょっと妬けたのか、スリは全く違う話題を持ち出した。
「今日は美沙に、本を持って来たわよ」
スリが手渡したのは19世紀の政治思想家、トクヴィルの英訳本だった。
「専門書じゃないか。そんなもの、読めるのか?」
心配するイオに、美沙は平然と答えた。
「日本語の本よりは、読みやすいよ。難しい漢字がないからね」
驚いた顔を見せるイオを、スリは笑った。美沙はすでに表紙をめくり、内容に没頭していた。
暗い海上遠くに、ほのかに灯火が見えた。やがて低いエンジン音とともに、漁船の姿が月明かりに浮かび上がってきた。フラッシュ・ライトを点け、三回大きく回すと、向こうの漁船でも同じ合図を返してきた。エンジンを低速で回転させ、相手の船と接舷した。
「悪心坊、待ったか?」
「丸二日も待ったがな。低気圧かいな?」
「そうだ。迂回せざるを得なかった」
「無線が使えんちゅうのは、こういう時に困るな」
「すまん」
イオが謝ると、悪心坊は慰めるように肩を軽く叩いた。
「今回は、どんなもんや?」
「拳銃が3丁と、爆薬が少し」
「少ないな」
「なにしろ、コネもなければ金もないからな」
「かれこれ10年近くもあっちにおって、武器商人一人見つけられへんのかいな」
「そう言うな。次は何とかする」
「拳銃3丁では体制の打倒なぞ、できひんぞ」
「そう言うそっちは、どうなんだ。同志は増えたのか?」
「あかんな。四国と大阪の国籍離脱者センターには、しょっちゅう侵入しとんのやけど……」
「人のこと、言えねえじゃねえか」
「すんまへん」
頭をかく悪心坊を見て、イオは苦笑した。武器の引き渡しが済むと、2隻の船はそれぞれ、もと来たほうへと戻っていった。
イオが漁船を降りると、美沙が出迎えに来ていた。安物のワンピースに身を包み、少し伸びた髪を風にゆらめかせる姿は、地元の少女たちと少しも変わりがなかった。
「おかえり。おっちゃんは元気だった?」
「ああ。あいかわらず、減らず口ばかり叩きやがる」
「減らず口って、何?」
「人に文句ばかり言う、という意味さ」
並んで歩き始めると、美沙が手を伸ばし、イオの手をとった。以前はイオが強引に美沙の手を握っていたのだが、最近は美沙のほうから手をつなぐようになってきた。
「ねえ、イオ」
「何だ?」
「私の名前は、どうして美沙なの?」
「お母さんの理沙から一字をもらったんだ」
「どういう意味?」
イオは答えに詰まった。意味など考えたこともなかった。ただ響きが美しいと思って付けただけだった。
「きれいな心を、一生をかけて磨き上げていく。そんなような意味だ」
「ふうん」
口から出まかせだったが、美沙は納得したようだった。立ち止まってイオの顔をじっと見つめ、嬉しそうに微笑んだ。
彼女が父親として受け入れているかどうかは、イオにはわからなかった。なにしろ彼女は、親というものを知らないのだ。概念として学ぶ機会すらもなかった。だが、この地の家族たちが生活する姿を見て、父親がどういう存在であるかは、おぼろげに感じ取っているようだった。
隠れ家に戻ると、一人の少年が家のなかを覗いていた。
「誰?」
美沙が声を掛けると、少年はニニの弟だと名乗った。
「早く来て。ニニが呼んでる」
すぐに美沙の手を取って走り出した。夢中で通りを走り、ニニの部屋に飛び込んだ。彼女は死に瀕していた。
「ニニ!」
「美沙。私の初めての友だち」
生まれたときからからだの弱いニニには、友人がいなかった。
「最後に会えてよかった」
「ニニ、死なないで」
死というものに醒めた感覚しか持っていなかった美沙は、初めて得た友人を失いつつあることに恐怖した。
「覚えていて、美沙。あなたが覚えていてくれる限り、私はここで生きているから」
ニニは最後の力を振り絞って、美沙の心臓を指した。
「覚えている。ずっと覚えているから」
ゆっくりと目を閉じ、ニニは息絶えた。美沙はまだ温もりが残るニニの手を握りしめ、号泣した。心の底から湧きあがってくる悲しみは、自分の力ではどうやっても押しとどめることができなかった。
ニニの葬儀には、ニニの家族のほかに大勢の近隣住人が参加した。音楽が奏でられ、人々は踊った。まるで、この世での生を成し終えたことを寿(ことほ)ぐかのように、参加したすべての人が陽気にふるまった。
美沙とイオは、それを少し離れた場所から見守った。美沙はどうやっても止まらぬ涙に困惑していた。左腕を折られたときは涙が一時にあふれ出たが、今回は拭っても拭っても、にじみ出るように涙が湧いて出た。
すると、その様子に気づいたニニの母が弟の手を引いて歩み寄った。
「美沙、泣かないで」
ニニの母は美沙を抱きしめ、優しく諭した。
「ニニはこの世での勤めを終えて、天国へ行ったの。悲しいことじゃなくて、喜ばしいことなのよ」
「勤め?」
「そう。人間の生は長い短いが問題じゃないの。たとえ与えられた生が短くても、人は自分の生を生きることが勤めを果たすことになるのよ」
だが、涙は止まらなかった。
「あなたも、与えられた自分の人生を生きなさい。美沙」
ニニの母に抱き寄せられた美沙は、絞り出すような声で泣いた。優しく髪を撫でてくれる手の温もりに美沙は、母とはこういうものなのかもしれない、と感じていた。
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