第12話
3
スーパーバイザーから申し渡された仕事場所のひとつが、場末にある古びたスポーツ・ジムだった。清掃道具一式をもって送迎車から降りたF6731号は、まわりを見回した。初めて見る、ほんものの日本国の姿だった。
だがすぐに、戦闘員養成所で繰り返し見せられたあの美しい日本国の映像とは、だいぶ様子が違うことに気がついた。通りの両側にはシャッターを下ろした店が立ち並び、人通りも少なかった。一帯に、淀んだような空気が漂っていた。戦闘員養成所のほうが、よほど活気に満ちていたように思えた。
F6731号は、目の前にある3階建てのビルの狭い階段を地下へ降りた。180センチを超える長身で、体格もがっしりしているF6731号にとって、この階段は狭すぎた。
途中で何回か、肩に担いだ清掃道具が壁に当たって大きな音を立てた。武器を持って侵入するには不利だな、と感じたが、すぐにその考えを頭から振り払った。戦闘員の癖が、まだ抜けていなかった。
「おはようございます。清掃に参りました」
教えられたとおりに挨拶し、仕事に取りかかった。道具のなかから箒を選び出し、床を掃き始めた。
非国民プロジェクトが日本国民に知られるようになってから、15年が経った。この間にも非国民の数は増え続け、それらを労働力として活用する企業も大幅に増加した。低賃金のおかげで企業業績は目に見えて改善したほか、福祉関係予算の低減によって国家財政はゆるやかに回復した。いまや日本国の経済は、非国民なしでは成り立たない状況になっていた。
非国民を使う企業が増えるにつれ、これを一手に扱うグッドジョブ社は日本有数の大企業に成長した。日本各地に国籍離脱者センターが作られ、その内部での作業は言うに及ばず、外部での作業も珍しくなくなった。F6731号が命じられたジムの清掃も、こうした外部での請負作業の一つだった。
たくましいからだをしたスキンヘッドの男が、F6731号の前に立った。
「お、新しい掃除の人かい? かわいいお姉ちゃんやな」
黒く日焼けした上半身に、薄手のタンクトップ一枚を身にまとっている。その下からのぞく太い筋肉はよく鍛えられていたが、はたしてどのような戦闘に役立つのだろうか、とF6731号は訝った。
「ワシは、ここのオーナーや。ワシのことは、おっちゃんと呼んだって」
男は人懐こく微笑むと、手を差し出した。
「姉ちゃん、よろしくな」
F6731号が差し出された手を握ったとたん、手首から先が袖から抜け落ちた。男の手を見た瞬間からそれがフェイクだとわかっていたが、これまでそんなイタズラをされた経験が一度もなく、どんな反応を返すべきかがわからなかった。
「姉ちゃん。『きゃあ』とか何とか言うてえな。愛想ないなあ」
おっちゃんが、残念そうな顔をした。
「きゃあ」
命じられたとおりに言ったが、なぜ「きゃあ」と言わなければならないのかが、わからなかった。戦闘員養成所では、そのようなことは習わなかった。
「仕事に戻ってよろしいでしょうか? おっちゃんさま」
「おっちゃんで、ええねんて。〝さま〟は、いらんさかいな」
承知いたしました、と言ってF6731号は箒を握り直した。
一般国民は、薄緑色のつなぎを着た非国民を遠くから眺めるだけで、近づいたり話かけたりしようとはしなかった。忌まわしい存在として嫌悪し、できるだけ接触を避けようとした。「15年間に起きたテロ事件の犯人」という偽報道による刷り込みが、まだ消えていなかった。
そうしたなかで、このおっちゃんのような親しさは例外的に珍しい、ということをF6731号はまだ知らなかった。
ジムへ清掃に行くようになって数日経った日のことだった。いつもは
サングラスの男は黙々とベンチ・プレスに取り組んでいた。仕事が終わりかける時間になっても、その男の周囲だけが清掃が済んでいなかった。男がバーベルをラックに戻したタイミングを待って、F6731号は声をかけた。
「申し訳ありません。清掃をさせていただきたいのですが」
スーパーバイザーに習ったとおりに申し出ると、男は荒い息を吐きながらF6731号を一瞥した。
「おお、すまん」
ベンチから起き上がろうとした男は、F6731号の顔を見て動きを止めた。そして、何かとまどいのような表情を浮かべながら尋ねた。
「君は、いくつだ?」
「15歳です」
答えを聞いた男は、さらに動揺した様子を見せた。
「もう少し、君の顔をよく見せてくれないか」
サングラスの男は、何かを確かめるように、じっくりと顔を覗きこんだ。
「私の顔に何か?」
F6731号は、会話を早く切り上げたかった。仕事以外の私語は禁止されていたし、送迎車が来る時間も迫っている。ちょっと困った顔した。
「いや、いいんだ」
男は視線をはずすと立ち上がり、パソコンをいじっていたおっちゃんのそばへ歩いて行った。
その日以来、F6731号が掃除に行く日には、かならずといっていいほどサングラスの男が来ていた。といって声をかけるでもなく、トレーニングをしながら、彼女の姿をそっと見守るだけだった。だがF6731号は、その視線を敏感に感じ取っていた。
そんなある日、トレーニングの合間をみはからって、F6731号は男に声をかけた。
「私の仕事に、何かご不満があるのでしょうか?」
人と接した経験が少ないF6731号は、言葉の調子を加減することができない。場違いなほど強い口調にびっくりした男はトレーニングを中断し、F6731号をじっと見つめた。
「君は、F6731号というのか?」
つなぎの左胸に書かれた数字を、男は読み取った。
「はい」
「無粋だな。名前を付けてあげよう」
「名前?」
それが何なのか、彼女は知らなかった。人は記号や数字で区別されるものだと思っていた。
男はひとしきり頭をひねったあとで、一つの名前を口にした。
「そうだ。君の名前は、
「み、さ?」
「うん。いい名前だろう」
そう言われても、F6731号には判断できなかった。だが、なんとなく暖かく、安らぎを感じさせてくる響きだとは感じた。
「君と二人でいるときは、その名前で君を呼ぶからな」
「はい」
それが規則違反に当たるかどうかわからなかったが、美沙と呼ばれることは悪い気分がしなかった。
男はサングラスを取って微笑みかけた。その口には、歯が一本欠けていた。美沙が口元をじっと見ていると、男が気づいた。
「ああ、これか? これは昔、ある人に殴られて折れたんだ」
「格闘訓練ですか?」
「格闘訓練?」
男は意味がわからず、美沙の肩を軽く叩くと立ち上がった。
「またな」
男は、カウンターで事務処理をしていたおっちゃんと二言三言、言葉を交わし、奥へ通じるドアを開けて入っていった。
男は事務所の奥まった場所にある用具入れの扉を開け、その床に造られた縦坑を降りた。底まで降りると鉄の扉があり、それを開けた先には、人がようやく立って歩けるほどの大きさのトンネルが横方向に延びていた。
数メートルおきにほの暗い照明が灯るトンネルのなかを歩きながら、男はサングラスを外し、薄緑色のつなぎのポケットに押し込んだ。おっちゃんが用意してくれた偽物のつなぎは程よく古び、本物と見分けがつかなかった。顔に施した汚れメイクとも、うまくつり合いが取れていた。
通路は狭かった。川崎沖の人工島へ電力を供給するためのこのトンネルは、中央に設置された太いケーブルが主役であり、いま男が歩いている通路は点検用の足場として作られたものだった。
男は歩きながら、15年という歳月を想った。最初は草の根的な反政府運動から出発し、いまでは、このように国籍離脱者センターへ秘密裏に侵入する経路を確保するまでになった。警察や自衛隊に追われたことは一度や二度ではない。これまでよく命があったものだ、と男は思った。
やがて男は、別の鉄の扉の前で立ち止まった。そして扉を開けるとその先にある縦坑を登り、マンホールの蓋を少し開けて様子をうかがった。いつもと同様、人の姿は見えなかった。縦坑から出ると、そこは工事中の大きな部屋で、セメント袋や鉄筋などの資材が乱雑に置かれていた。
部屋を出た男は地理を熟知した様子で歩き、古びたアルミ製のドアの前に立った。ドアには、「37区工事事務所」という消えかかった文字がかろうじて読み取れた。一定のリズムでノックすると、なかからドアが開いた。
顔をのぞかせたのは、年老いた感じの男だった。
「やあ、イオ君。2か月ぶりだな」
「お元気でしたか? 吾妻さん」
15年前、ほんの一時ではあったが、イオが私設監獄でともに過ごした吾妻だった。監獄からは解放されたものの、国籍離脱者センターから出されることはなかった。顔に刻まれた年齢に似合わない深い皺は、ここでの暮らしの厳しさを物語っていた。
「この人は?」
部屋のなかに見知らぬ顔を見つけて、イオは吾妻に聞いた。
「アベ君だ。新しく我々の仲間に加わってくれた」
紹介された男は頭髪を一分ほどに短く刈り上げており、顔の左半分にひどい傷があった。左目は見えないようだった。
「オレはイオだ。外との連絡係をしている」
アベは無言で軽く会釈した。もしかすると言葉も不自由なのだろうか、とイオは想像した。
吾妻はイオにソファを勧め、自分は壊れかけたパイプ椅子に座った。
「B国はどうだった?」
「あちらで調達した〝パーツ〟は、実行グループに渡しました」
「そうか。うまくいくといいな」
「そうですね」
イオや吾妻が所属する反政府運動は、これまでに数回のテロ行為を試みていたが、いずれも失敗に終わっていた。
「君も立派なテロリストになったものだな」
15年前のことをからかわれ、イオは苦笑した。
「こちらのほうは、どうですか?」
「だめだな。もともと向こうの暮らしが続かなくてここへ来た連中だからな。たとえどんなにひどい生活でも、それなりに安定した暮らしができるとなると、反政府運動などやる気にならんらしい」
イオは嘉数の言葉を思い出した。
《人は飢えたぐらいでは革命など起こさん。革命が起きるには、下の層がいまの生活をこれ以上「望まない」と感じると同時に、上の層がいまの生活をこれ以上「望めない」と感じることが条件なんじゃ。》
その嘉数は、すでにこの世にいない。
「やはり、上の層が満足しているいまの状況では、世の中を変えたいという欲求は起こりませんかね?」
「そうかもしれんな。下の層にしたって、賛同してくれたのはこのアベ君ぐらいだ。ところで、岡田君はどうしている?」
「いまは関西です。情報宣伝活動をやっています」
「そうか」
「吾妻さんは、ここを出ないんですか?」
「もう少しここにいようと思う。非国民のなかから同志を募りたいし、ここのことを見届けて後世に記録を残す人間も必要だろう」
「オレたちのほうは準備が整っていますから、必要な時はいつでも」
「わかった。だが今日は、かわりにこいつを連れて行ってやってくれ」
吾妻はアベを指さした。
「わかりました」
イオはポケットから小さな黒い箱を取り出すとコードを引きだし、アベのナビゲーターに接続した。すぐに軽い電子音がしてナビゲーターが床に落ちた。その様子を見て、吾妻が驚いた様子で感想を漏らした。
「案外、簡単にはずれるものなんだな」
「安物ですよ。非国民にはなるべく手間も金もかけない、というのがグッドジョブ社の方針なんでしょうね。一人ずつ、個別の管理もしてないようですし」
地雷原を歩かされたときに付けられた首輪も、B国の技術者が有り合わせの材料で作った装置で簡単にはずれた、とイオは説明した。
「この場所は、古くて使い勝手が悪くありませんか?」
「私にはちょうどいい隠れ家だ。まさか一度襲撃を受けた場所をアジトに使っているとは、敵も思うまい」
「そうですか。では、また2か月後に」
イオはアベを連れ、部屋を出た。
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