第10話
第二部―――15年後
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からだを刺すような寒さのせいで意識は戻ったが、目の前は真っ暗だった。目をこすろうとすると、手が動かなかった。身体のうしろにまわされた手首に痛みを感じた。紐のようなもので、きつく縛られているようだった。足首にも同じような痛みがあり、やはり動かすことができなかった。
口には詰め物をされたうえに猿轡をされているらしく、しゃべることはおろか、声を出すこともできなかった。頬に感じる冷たくザラついた感覚からは、コンクリートのようなところに乱暴に転がされていることがわかった。
なんとか手足の自由を取り戻そうと体を動かしていると、いきなり目隠しを取られた。目の前には片手に拳銃を持ち、垢じみた服を着て異様な体臭を放つ男がしゃがんでいた。男は拳銃を突き付け、歯の欠けた口をむき出しにして怒鳴った。
どうやら動くなと言っているらしいが、男のしゃべる訛りの強いA国語は、一〇歳の岸辺には理解できなかった。恐怖に震えながら、岸辺は数時間前の出来事を思い出した。
日本人学校のスクールバスは、下校する生徒を一人ずつ家に送り届けるのが日課だった。岸辺一家が住む家は学校から少し遠かったので、毎日、他の子どもたちがバスを降りたあと、最後の乗客として運転手と二人だけで帰り道をたどるのが常だった。
数時間前。いつものように座席に座って本を読んでいると、スクールバスが急停車した。
「うわ」
シートベルトをしていなかった岸辺は座席から転げ落ち、床にたたきつけられた。その直後、激しい音がしてフロント・ガラスが粉々に砕けた。顔を上げて運転席のほうを見ると、血まみれになった運転手が上半身を右側に傾けたまま力なく揺れていた。
「何?」
混乱する岸辺の前に、スクールバスのドアを破って乗り込んできた3人の男が立ちはだかった。彼らが手にする自動小銃からは、うっすらと煙が立ち上っている。
そのなかの一人がA国語で何かをまくしたてた。その言葉が理解できず、怯えて体を硬直させている岸辺を残りの二人が乱暴に立たせ、バスから引きずり降ろした。待機させてあったバンに押し込まれた岸辺は、薬品を浸みこませた布で口と鼻をふさがれ、一瞬のうちに意識を失った。襲撃開始から逃走まで三分とかからない、プロの仕事だった。
あれからどれほどの時間が経ったのだろうか。恐怖と寒さで震えていると、また人が近づく気配を感じた。ふたたび目隠しを取られた岸辺は足のいましめを解かれ、立たされた。
まわりを見ると、そこは使われていない廃工場のような場所だった。薄暗い室内には巨大な機械が岩石のように冷たくそそりたち、油の滲みた床には錆びて朽ちかけた部品や工具が散乱していた。
背中を小突かれながら屋外へ出るシャッターをくぐると、すでに夕暮れだった。オレンジ色の残照が夜の闇とせめぎあいを繰り広げながら、足早に後退している最中だった。15メートルほど先には、電柱の上から弱々しい光を放つ白熱灯が一基だけ灯り、その下に、大きなカバンを重そうに抱えた母親が真っ白な服を着て立っていた。
「さあ、約束どおりお金は持ってきたわ。子供を返して」
誘拐犯の一人が母親に歩み寄り、カバンを奪うように取り上げた。地面に置いたカバンを開け中身を確認した男は、残りの二人に合図をした。それを見て、リーダー格の男は岸辺を母親のほうへ押し出そうとした。
その時だった。いっせいに投光器がたかれ、物陰から十数人のA国警察官が飛び出した。誘拐犯たちは即座に反撃し、自動小銃を乱射ながら工場のなかへ戻ろうと駆け出した。岸辺はリーダー格の男に腕をつかまれ、強く引きずられた。
必死に抵抗したが、男の力は強かった。母に助けを求めようと振り返ったとき、目に飛び込んできた光景が岸辺に強い衝撃を与えた。A国警察官が母のうしろから誘拐犯を射撃したのだ。射線上に立っていた母はうしろからの弾丸を受け、たちまちその場に倒れた。
「智ちゃん、逃げて!」
白い服を真っ赤に染めた母が最期に放った言葉は、岸辺の耳に届いた。だが手を縛られ、誘拐犯に引きずられていく岸辺にはなすすべがなかった。
仲間二人を犠牲にして逃走に成功したリーダー格の男は、岸辺を引き立てるようにしてスラム街へ入って行った。そこは迷宮のような路地の奥にある、常識ある人間ならば絶対に立ち入らないような怪しげな一角だった。建て込んだ古い建物の多くは、お互いにもたれかかりながら立ち枯れているようにも見えた。あたりにはいちめん、腐臭のような匂いがたち込めていた。
そのなかの一軒から出てきた小柄で背中が丸まった老人に、岸辺は引き渡された。老人は口から酸っぱい口臭を漂わせていて、それが岸辺の恐怖をさらにあおった。
建物のなかは不思議な構造になっていた。一階はロビーのような広い広間で、比較的上等な服を着た5、6人の少年たちが物憂げな表情をしてたむろしていた。二階へ上がる階段の先には小部屋がいくつもあるらしく、同じような形の扉が並んでいるのが見えた。
「じゃまだ。部屋へ戻れ」
老人が一喝すると、少年たちは岸辺を品定めするような視線を投げかけながら無言で二階へ上がっていった。
老人は岸辺の服を脱がせ、両手で全身をまさぐった。肩から順に下へ向かっての筋肉のつきぐあいを確認すると、今度はむりやり口を開けさせて歯と舌を確かめた。さらに股間と尻を入念に調べ、最後に四つん這いにさせた。何かぬるりとしたものが岸辺の肛門に塗られ、指が差し込まれた。
「ぎゃっ」
岸辺は驚いて悲鳴をあげ、逃げようと試みたが、老人の意外な力に阻まれた。指を抜いた老人は満足した様子で、リーダー格の男になにがしかの金を支払った。
「日本人のガキとは珍しい。客が喜ぶだろうよ」
その夜から、岸辺は客を取らされた。
一年も経たずに岸辺のからだはぼろぼろになり、客を取れなくなった。すると老人は、瘦せて鶏ガラのような風貌の中年女に岸辺を売り渡した。中年女は売春宿からさほど遠くない自宅に岸辺を連れて行った。
階段の上から突き落とされるようにして、真っ暗な地下室へ放り込まれた。そこは、以前はブタを飼っていた場所らしく、床に敷かれた藁からは吐き気を催すような糞尿の匂いがした。
目が慣れてくると、二人の先客がいることに気づいた。二人とも、岸辺と年が近い男の子だった。一人は岸辺より年上らしくからだが大きかったが両目が見えなかった。もう一人は岸辺より若く、両手両足がなかった。
その日のうちに、若いほうの男の子が、中年女の配下らしい屈強な男たち二人によって運ばれていった。翌日には、年上の子が同じように連れていかれた。二人とも、この場所へ帰ってくることはなかった。
3日目には岸辺が地下から出され、小さな診療所のようなところへ連れていかれた。
「客を取れない子は、臓器を売って金を稼ぐんだ。日本人のガキは栄養がいいし、病気をもっていないから高く売れる」
中年女はA国語でそう言い残すと、皺だらけの顔に残虐そうな笑みを浮かべた。その程度のA国語は、売春宿で過ごした一年の間に理解できるようになっていた。
岸辺は控室のようなところで、中年女の配下の男たちに服を脱がされたあと、手術室に連れていかれた。
手術台に縛りつけられ、見上げる天井からは、丸い無影灯から無機質な光が絶えまなく降り注いでいる。かたわらのステンレス製のワゴンには、取り出した臓器を入れるのか、ガラスの容器とクーラーボックスが出番を待っていた。
これから自分は生きながら解剖され、臓器を抜き取られる。岸辺はあまりの恐ろしさに、全身を震わせた。何かを叫ぼうとしても、歯が音を立てて鳴り続けるだけで、声が出せなかった。
やがて準備が整い、手術着を着た男たちが岸辺を上から覗き込んだ。手術室に漂う強烈な消毒薬の匂いが、岸辺の恐怖をさらに煽った。
「助けて。お願いです」
最後の力を振り絞って声をあげた岸辺の腹にメスが押し当てられたその時、手術室の扉が勢いよく開き、A国の警官がなだれ込んできた。
救出され帰国した岸辺は、著名な大学病院に入院した。専門チームによる治療でからだの傷はなんとか癒えたが、心に深くついた傷は完全に直ることはなかった。何の前触れもなく起こるフラッシュバックのような発作が、その後も岸辺を苦しめた。心拍数の病的な増加と呼吸困難が起こるたびに、A国への怨嗟が少しずつ心のなかに積み上がっていった。
外交官である父の仕事の関係で移り住んだA国の記憶はあまりにも忌まわしく、11歳の少年が抱えるには過酷すぎるものだった。
さらに追い打ちをかける出来事が、岸辺を待っていた。外地に赴任している父に代わって、著名な政治家である祖父が岸辺を育てることになった。
ある日岸辺は、遊びに来た友人が持ってきた鉄道模型で遊んでいた。そこへ、仕事から帰ってきた祖父が目の前に立った。
「何をしている」
祖父の声は怒りを含み、低く沈んでいた。恐怖のあまり、岸辺が何も答えられずにいると、祖父は模型の電車を力いっぱい蹴飛ばした。電車は壁に激突し、バラバラに壊れた。
「お前は、我が岸辺家の唯一の跡取りだ。ゆくゆくは政治家となって国民の上に立たねばならん。こんなつまらぬもので遊んでいる暇はない」
そう言うと祖父は、壊れたおもちゃを手に呆然と立ちつくす友人を一瞥した。そして「金をやっておけ。二度とこの家に入れるな」と執事に命じ、足早に立ち去った。
祖父の教育は厳しく、常にナンバー・ワンであることを岸辺に求めた。勉学と身体の鍛錬、そして自分は他の人間とは違うという選民思想の涵養(かんよう)が何よりも優先された。子供らしい遊びは何一つ経験したことがなかった。
政治家として人の上に立つことだけが人生の目標と教える祖父への反発は、いつしかA国での悲惨な記憶と結びつき、A国に対する激しい憎悪へと育っていった。
秘書官の呼びかけに、岸辺は白日夢から覚めた。吐き気を催すほどのおぞましい記憶だが、岸辺はこの記憶を忘れた日は一日もなかった。むしろこの記憶こそが、岸辺の行動をを支える原動力だった。まもなく50歳に手が届こうという岸辺は現在も総理大臣臨時代理の職にあり、いまだにA国への復習を遂げるため、あらゆる方法を模索していた。
「停戦交渉を受け入れますか?」
統合幕僚長の提案を、岸辺は即座に否定した。
「だめだ。最後に一発、決定的なダメージを与えてからだ」
岸辺の側近たちは、うんざりした表情でお互いの顔を見合った。彼らは長引く戦闘に
「例のものは、どうなっている?」
「すでに生産施設は完成していますが」
「早く生産を始めろと言え」
「ですが、しかし……」
思いとどまらせようとする側近を、岸辺は怒鳴りつけた。
「早くしろ!」
側近はそれ以上何も言わず、無言で指示に従った。
A国に復讐するという岸辺の野望は、一五年たっても達成できずにいた。東アジアの各地で小競り合いは続くものの、大きな戦闘は十年以上前から途絶えていた。同盟国はじめ世界の主要国から強く自制を求められたうえ、武器や戦略物資の輸入を制限されたことも、戦闘の拡大を食い止める要因となっていた。
お互いに手を打ち尽くした感があった。
人員の不足も、膠着状態が続くのを後押ししていた。戦争が始まって以来、自衛隊への入隊希望者は激減の一途をたどっていた。
開戦当初、岸辺はテレビやネットで戦意を高揚するためのCMやドラマを連日放送させた。
「また戦争ドラマかよ。いい加減、もう飽きたな」
「え、戦争って、まだやってたの?」
戦闘とは直接かかわらない一般国民の関心は、いっこうに高まらなかった。
岸辺は側近を怒鳴りつけた。
「非国民戦闘員は、どうなっている!」
「そう言われましても、養成にはそれなりに時間がかかりますから」
岸辺は福神に指示し、非国民の徹底活用を命じた。成人非国民を半ば強制的に戦場へ投入したが、それだけでは焼け石に水だった。並行して、子供の非国民や国籍離脱者センターで生まれた赤ん坊を選別し、幼いころから訓練を施して戦闘員に育てることにした。
非国民戦闘員の多くは、人員の損耗が最も激しい最前線に投入された。専門施設で教育を受けたとはいえ、わずか15歳の戦闘員は、実戦ではほとんど役に立たなかった。現場では自衛隊の正規部隊を守る盾の役割を負わされることが多く、彼らの命は湯水のように消費された。
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