第8話

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 日本のテロ騒ぎに乗じてA国が日本近海に浮かぶ無人島を占拠したという報告を受けたとき、岸辺は大声で叫び出したいほどの気分だった。自分には神が味方している、とさえ思った。

 A国を消し去りたい。総理を暗殺してまで、この国を動かす力を手に入れたかったのは、その野望を実現するためだった。いずれかのタイミングで、A国とは戦端を開くつもりだった。そんな岸辺にとって、待ち望んでいたものが向こうからお土産を携えてやって来たようなものだった。

「総理、総理大臣臨時代理」

 呼びかけられても、すぐには返事ができなかった。

「国家安全保障会議を招集しますか?」

 町田の後を受けた新しい内閣危機管理監の呼びかけに、岸辺は反射的に叫んだ。

「もちろんだ。ただちに招集しろ」

「わかりました。では、この後のことは国家安全保障局長の神山こうやまさんにおまかせします」

 内閣危機管理監の所掌することがらに、「国の防衛に関するもの」は含まれない。武力攻撃を受けるなど国防に関する緊急事態が発生した場合は国家安全保障会議に諮問され、その答申を得て対応を決めることになっている。


 すぐに国家安全保障会議が招集された。議員は外務大臣、防衛大臣、官房長官などの関係九閣僚で、議長は総理がつとめる。この会議の事務局となるのが国家安全保障局だ。

「A国と緊急に話し合わなくてはいかんでしょうな」

「大使を呼んだほうがいいのでは」

「こういう時のために、ホットラインがあるんじゃないですか」

 実際に武力による主権侵害が起きているというのに、議論はいっこうに進まなかった。業を煮やした岸辺は出席者を怒鳴りつけた。

「現に我が国の領土が武力で侵略されているんだ。もう話し合いなどしている段階ではない」

「いや、しかし、今まで日本は平和国家として……」

 岸辺は大きく息を吸い込んだ。

「平和ボケもいいかげんにしろ。君たちはほんとうに事態を理解しているのか。いま、まさに日本の領土がA国によって奪われているのだぞ。指をくわえて見ていろというのか。これ以上の議論は時間の無駄だ」

「じゃあ、どうするんです」

 拗ねたような顔で頬をふくらませる総務大臣を無視して、岸辺は立ち上がった。

「すぐに反撃する。これがこの会議の結論だ」

 動揺し、なおも議論を続けようとする出席者を顧みることなく、岸辺はドアへ向かった。その途中、神山を手招きし、武力攻撃事態等対策本部を設置するように命じた。

 通常であれば武力攻撃事態等対策本部は、閣議決定した対処基本方針を国会にはかり、その承認を受けて設置される。しかし、いま日本は緊急事態の宣言下にある。こうした手続きはいっさい省略された。


 A国侵攻の報を受けて、統合幕僚長を務める黒沢くろさわ静雄そずおは気を揉んでいた。こうした事態が起きたときには、即時に対応するのが軍事的なセオリーだ。早ければ早いほど損害も少なく、作戦の成功率も高い。だが自衛隊の実戦部隊を動かすには煩雑な手続きが必要で、政府のなかでそれがどこまで進んでいるのか、黒沢には知るすべがなかった。

 こうして待っている間にも、事態は深刻さを増しつつある。焦燥感をつのらせていた黒沢が岸辺に呼ばれたのは、侵攻が確認されてから二時間後のことだった。

 統合幕僚副長の島本しまもとたけるとともに官邸へ赴くと、岸辺は興奮のせいか顔を赤くし、目を大きく見開いて黒沢に命じた。

「撃退しろ。徹底的にやれ」

「承知しました。ただちに島から敵を排除いたします」

「それでは生ぬるい。奴らの兵站基地を叩け」

「待ってください。それでは戦争になってしまいます」

 黒沢はあわてて制止した。

「かまわん。日本は戦争などできないなどとナメてかかる奴らに、目にものを見せてやる」

「臨時代理。お気をお鎮めください」

 岸辺は無言でデスクから立ち上がり、黒沢に詰め寄った。怒鳴られるのを覚悟して対峙すると、岸辺は思いがけない行動をとった。黒沢の右手を握ると、その指先を舐めあげた。

「わあっ」

 予期せぬ行動に驚いた黒沢は、あわてて手を引っ込めた。

「何をするんです」

 咎めると、岸辺は口の端を曲げて笑った。

「君が何を考えているか、よくわかったよ」

「何のことです?」

「私はね、指先の味で人の考えがわかるんだよ」

「はあ?」

「君は、あまり戦いたくないようだね」

 半分は事実だった。しないで済むなら、戦いなどしないにこしたことはない。だが、いまはそんなことを言っている場合ではない。

「何をおっしゃっているのか、わかりかねますが」

 すると岸辺は形相を一変させた。

「意気地なしめ。そんなに戦争が嫌なら、いますぐに辞めろ!」

 デスクから立ち上がって黒沢に詰め寄ると、肩から階級章を剥ぎ取って床へ投げ捨てた。

「お前を解任する。副長、統合幕僚長を命ずる。任務を遂行しろ」

「承知しました」

 副長は敬礼すると、足早に総理大臣執務室を出ていった。

 解任された黒沢は、岸辺のなかば理性を失った行動が理解できなかった。荒い息を吐きながら怒りの形相をあらわにする岸辺を、何か禍々しいものでも見るように無言で見つめ続けた。


 国籍離脱者センターの地下深く、グッドジョブ社のなかでも一部の警備関係者しか知らない通路をたどった先に、秘密の私設監獄があった。

 通路から先を厳重に区切る鉄のドアの向こうには、中央の通路を挟んで両側に収容房が数十房も並んでいた。照明がやけに明るいのは、影や死角をなくし、監視をしやすくするためのようだ。

 房の一つ一つには頑丈そうな鉄格子がはめられ、外からは房のなかの様子が丸見えだった。房は10畳ほどの広さがあり、奥には洗面台と小さく仕切られたトイレが作りつけられていた。三方の壁はすべてコンクリートで窓はなく、飾りというものがいっさいないセンターのなかでも、ひときわ殺風景な場所だった。

 その房のひとつに、年齢がばらばらの男が四人、収容されていた。

「若いの。君は、なぜこんなところにいるのかね?」

 壁に寄りかかり、まばたきもせずに天井を眺めているイオに、同房の老人が話しかけてきた。白いあご髭を長く伸ばし、年齢は八〇歳を超えているように見える。

「さあな」

「何か、政治的な活動をしていたのかね?」

「……」

 イオは返事をしなかった。返事どころか、何をする気もしなかった。そんなイオを老人は好奇心いっぱいの目で見つめ、じっと待ち続けている。イオは根負けし、口を開いた。

「フュルフュールとかいうテロ組織で、非国民プロジェクトの破壊を手伝っていた。首相暗殺の犯人も、オレらしい」

「ほう。それは勇ましいな」

 老人は嬉しそうに微笑むと、無遠慮に質問を投げかけた。

「で、首相はどうやってったのかね?」

「ほんとうに犯人なら、警察が捕まえるだろ。こんなところにいるはずがない」

「そりゃそうだの」

 老人は屈託のない声で笑った。その声に、イオは気が抜けたのか、もう少し話をしてみる気になった。

「あんたこそ、何でここにいるんだ?」

「わしか。わしは嘉数かかず穣栄じょうえいといってな、これでも民友党の元党首だ」

 民友党は、緊急事態が宣言される前までは野党第一党だった。

「いまはこんな爺いだが、昔は闘士と言われたこともあるのだぞ」

 国家による統制的支配を推し進めようとする美しい国民の党政権に対し、嘉数は国会で舌鋒鋭い質問を放ち、果敢に権力に挑んだ数少ない政治家の一人だった。だがイオは、その名を知らなかった。

「で、その嘉数ナントカさんが、何で捕まっているんだ?」

「知らんのか? いま日本は非常事態が宣言され、憲法が停止状態にある」

 イオは意味がわからず、首を傾げた。

「つまり、政府のやりたい放題ということだよ。美しい国民の党に批判的な政治家やジャーナリストは、みな捕まった」

「ジャーナリスト? じゃあ、久保田聡って人、知りませんか?」

 それまでとは一転して、イオ身を乗り出して聞いた。

「久保田聡? 誰だね、それは」

「非国民プロジェクトの潜入リポートを発表した男ですよ」

 横から口を出したのは、40代ぐらいの太った男だった。自分は岡田おかだといい、新聞記者だと自己紹介した。

「じゃあ、あのリポートは世に出たんですね?」

「ああ。あれで国民は、非国民プロジェクトの存在を知った」

 残りの一人が口を挟んだ。新風会という小政党の議員で、吾妻あづまと名乗った。

「だが、死んだらしい」

「えっ、死んだ?」

「ニュースで見ただけだが……」

 吾妻はタンクローリーの事故の件を語った。

「殺されたんだ」

 イオのつぶやきに、岡田が反応した。

「なぜ、そう思う?」

「久保田さんが脱出するとき、自動小銃を持った警備員が発砲したんだ」

「自動小銃? 警備員が?」

 三人は、お互いに顔を見合わせた。

「君、名は何と言う」

「槇島イオ」

「ここは非国民の暮らす場所らしいが、君も非国民なのかね?」

「そうです」

「非国民プロジェクトについて知っていることを、わしらに教えてくれんかね?」

「久保田さんから預かったものがあります」

 イオは着ていたつなぎの襟のほころびから、小さなメモを取りだした。久保田聡が残したリポートの写しだった。

 受け取った嘉数は、それを岡田に渡した。字が小さすぎて読めないようだった。

「雑誌に発表されたものと、まったく同じです」

 メモを読んだ岡田の言葉に、嘉数はうなずいた。

「ということは、あの記事はすべて事実ということか」

「自動小銃を持っていたとなると、警察、もしくは自衛隊も関わっていたということではないでしょうか」

 吾妻の推測をイオが裏付けた。

「グッドジョブの本社にも警官がいました」

「どうやら、これは政府ぐるみの陰謀のようだの。槇島とかいう一官僚の力でそこまでできるはずがない」

 嘉数がなにげなく発したその言葉に、イオは驚いた。

「槇島? 何のことです?」

「政府は非国民プロジェクトを、槇島という内閣府の官僚が一人でやったことだと説明している」

 岡田の言葉で、嘉数が気づいた。

「そういえば、君も槇島という名だったの」

「それは、たぶんオレの父です」

 沈黙する三人に、イオは尋ねた。

「父は、どうなりましたか?」

 言いにくそうに、岡田が答えた。

「行方不明になった、と聞いている」

 イオは天を仰いだ。桃香への強い想いから感情にまかせた行動をとってしまったが、父には相当な迷惑をかけたに違いない。母やマオにも申し訳ない思いでいっぱいだった。生まれて初めて、家族に会いたい、とイオは心から願った。


 同盟国による強い制止を聞き入れず、岸辺は陸上、海上、航空自衛隊の連携による無人島の奪回作戦に踏み切った。作戦はほぼ成功したがA国は激昂し、より大きな軍事作戦に踏み切る構えを見せていた。

 さらに、日本の奪還作戦成功を見て、A国との国境紛争を抱えるいくつかの国が、軍事力による領土の奪還を試みようと軍隊を動かしはじめた。きなくさい事態が東アジア全域に広がろうとしていた。

「A国と対立している国々と連携を図れ」

 岸辺は、事態の拡大を食い止めようとする周囲の声に耳を貸さず、むしろ危うい決断を愉しんでいるかのように振る舞った。

「臨時代理。どうか冷静になってください。なぜA国のことになると、なぜそのように興奮なさるのですか?」

 諫(いさ)める神山を、岸辺は大声で黙らせた。

「うるさい! 私の言うことに口出しするな!」

 誰も岸辺を止めることができなかった。臨時代理とはいえ、非常事態宣言下の総理大臣を抑える権限は、もはやどこにも存在しなかった。

 A国と日本をキー・プレイヤーに、東アジアを舞台にした戦争が始まろうとしていた。


 嘉数は、イオのことが気に入ったようだった。毎日飽きもせず、イオを傍らに座らせ、さまざまなことを教え込んだ。岡田も吾妻も他にやることがないので、イオの教育を手伝った。

「吾妻君は〈美しい国民の党〉以上の極右なんだが、こうして捕えられておるところをみると、奴らには嫌われていたらしいのう」

 いたずらっぽく笑う嘉数に、吾妻は少し怒って見せた。

「あんなえせ右翼どもと私を、いっしょにしてほしくないですな」

「おお。これは、すまん」

「しかし、私まで敵に回すとは、いったい奴らは何を企んでいるのでしょうか?」

「権力欲というものは、胃に穴の空いた酒飲みみたいなものだ。飲んでも飲んでも満足しようとせん」

「そうかもしれませんな」

「そのうち飲み続けることだけが目的となり、酒の毒が脳にまわるんですよね?」

 岡田の言葉に、嘉数は朗らかに笑った。

「そうならないために、近代社会は憲法というものを作ったのだ。わかるかの」

 首を横に振るイオに、嘉数が優しい声で続けた。

「権力がとんでもない暴走をしないように、やっていいことと悪いことを明確にし、政府を縛るのが憲法だ。それを美しい国民の党の馬鹿どもは、緊急事態条項を抜け穴にして憲法自体を骨抜きにし、自分たちのやりたい放題をしておる」

 そこへ岡田が、うっかり口を挟んだ。

「〈美しい国民の党〉は結党以来、憲法による縛りを嫌っていましたからね」

「それがわかっていながら、君たちマスコミのやってきたことは何だ。政府の宣伝ばかりしおって。だいたい君たちには言論人としての気概が……」

 矛先が自分のほうを向き始めたのを知って岡田は、イオに向かってペロリと舌を出して見せた。

 つかの間の、和やかな時間だった。嘉数と岡田、そして吾妻を教師に、イオは彼らの持つ知識を貪欲に吸収していった。政府やマスコミの第一線で戦ってきた男たちの経験から紡がれる言葉は、学校の教科書などよりよほど腑に落ちた。イオは生まれて初めて、学ぶことの楽しさを教えられた。


 手続きを済ませたマオは、曇りガラスのドアを通り抜けた。国籍離脱者センターに足を踏み入れたマオが最初に見たものは、自分を取り囲む、険悪な目つきをした10人ほどの男女の姿だった。

「こいつは、俺がもらった」

 右側に立っていた体格の大きな男が抜け駆けし、隠し持っていた棍棒を振り下ろした。それはマオの顔の左側を正確にヒットした。激しい衝撃とともに、マオは気を失った。

 再び意識を取り戻したとき、マオは強い痛みとともに、顔じゅうが血だらけになっていることに気がついた。左目が見えなかった。何度も袖で顔を拭ったが、目は見えるようにならなかった。ナビゲーターのポイントは、すべて奪い取られていた。


 戦闘は東アジア一帯に広がりつつあった。岸辺は「自衛のため」と称して各地に戦闘部隊を送り込んだ。だが一か月が過ぎたあたりから、戦線の拡大に伴って、目に見えて人員が不足しはじめた。

「人間が足りないなら、非国民を使え!」

 怒鳴る岸辺に、島本が反論した。

「無茶を言わんでください。素人を何か月か訓練したところで、実戦の現場には出せません」

「前の戦争の時は、そうしていたじゃないか」

「いまはテクノロジーで戦う時代です。鉄砲一丁担いでいけば戦争ができる時代はとっくに終わっています」

「訓練など適当でいい。どうせ非国民の命などタダも同然だ。盾ぐらいには、なるだろう」

 島本と神山は顔を見合わせた。

「早くしろ!」

 この一言で、非国民を戦線に投入することが決まった。非国民たちが腕につけるナビゲーターには、募集広告が大きく表示された。

《戦争に行って国民になろう。自衛隊サポーター募集中!》

 広告は、応募してポイントを稼げば日本国籍を取得できるうえに大学進学や優良企業への就職も可能、と謳っていた。だが詳しい募集要項の最後に、ごく小さな文字で《ただし、国民になるには審査があります。》と書かれていたのを読んだ応募者は、そう多くなかった。


 吾妻は、会話のなかでフュルフュールの話題が出たのを機会に、以前から気になっていたことをイオに尋ねた。

「そのフュルフュールというテロ組織はあまり聞いたことがないんだが、指導者は、どんな奴だった?」

「50歳ぐらいの男で、ヨハンと名乗っていました」

「ヨハン?」

 吾妻は思い当たることがあるらしく、少し考え込んだ。

「その男は口ヒゲを生やして、女を連れていなかったか?」

「ええ。いつもいっしょでした。ビアンカという」

「ふうむ」

「吾妻さん、何か知っているんですか?」

 腕を組んだ吾妻は、イオの顔を見つめた。

「そいつのことは聞いたことがある。岸辺の汚れ仕事を専門に引き受けている奴だ」

 イオの顔が険しくなった。

「テロリストじゃなかったんですか?」

 岡田も口を挟んだ。

「私も聞いたことがあります。中東を根城に活動していたサイバー犯罪者だか武器商人だかを、岸辺がどこかにかくまっているという噂を」

「電撃棒が効かなかったと言ったよな?」

 吾妻の問いに、イオはうなずいた。

「はい。でも、それが何か?」

「おそらく奴は、電撃棒を無効にする装置を、あらかじめ身につけていたんじゃないかな」

 話を聞いていた嘉数がとどめを刺した。

「どうやらイオ君は、騙されていたようだの」

「くそっ。あの野郎」

「だが、これで岸辺の関与がはっきりした。あとはなんとかここから出て、奴を倒す方法を考えねばならん」

「これでぼくらは、立派な反政府主義者ですね」

 おちゃらける岡田に、吾妻がしぶしぶ同意した。

「やむを得まい。よもや、嘉数さんと組むことになるとは思わなかったがな」

 とは言ったものの、具体的な方法は何一つ思いつかなかった。

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