第4話

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 内閣総理大臣、そして与党である〈美しい国民の党〉の党首、村井邦彦は、ことのほか機嫌が良かった。専用車の隣席に座る繁之に向かって陽気にしゃべり続けていた。この日、憲法改正の可否を問う国民投票が行われていた。

「はっはあ。なんとか成立しそうだな。一時はどうなるかと思ったが、岸辺君や黒糖組がうまくやってくれたわ」

 黒糖組というのは、村井に忠実な議員と広告代理店からなるプロパガンダ部隊で、アイドルや著名人を駆使して投票の行方を賛成に誘導する役割を担っていた。国民投票の略称である「国投」を、黒糖に掛けたネーミングだった。

「これで日本も安泰だな」

 安泰なのは日本ではなく美しい国民の党なのでは、という言葉を繁之は胸の奥にしまい込んだ。

「これさえ成立すれば、怖いものなしだ」

 可否が問われたのは、日本国憲法に緊急事態条項を挿入するか否かで、成立が確実な情勢となっていた。

「槇島君。君の発案した『非国民プロジェクト』も、これでさらに加速させることができるよ」

 政府内のごく一部で密かにささやかれている「非国民プロジェクト」という言い方が、繁之は大嫌いだった。自分が発案した、と言われることも心外だった。

「しかし、老人や低所得者を国籍から切り離すという君のアイデアは秀逸だったな」

 7年前、繁之は各省から選抜された勉強会のメンバーに選ばれた。テーマは、この国の財政破綻を避けるための方策を考えることだった。その勉強会で繁之は、あるアイデアにもとづくシミュレーションを提出した。

 税金を払えない人間や財政負担が大きい人間を、国民という縛りからはずすことによって、納税などの義務を課さない代わりに福祉などの行政サービスをすべて打ち切る。それによって財政における福祉関連支出の占める割合を低下させようというアイデアだった。

「財政も、これで健全化の道筋が立つ」

「しかし……」

「君はGDPのことを心配しておるのかもしれんが、なあに、GDPなどというものは、先進国ではほぼ人口に比例するものだ。減ったところで、どうということはない」

「はあ」

 当初、それは単純化した極端なシミュレーションのつもりだった。具体的な提案などではなく、単なる数字の上でのお遊びのようなものだった。

 ところが、当時官房副長官だった岸辺が、これに目を付けた。すぐに極秘のプロジェクトを立ち上げ、繁之も厚生労働省から内閣府への出向という形でそのなかに組み入れられた。この時点ではまだ、繁之は岸辺が構想するプロジェクトの全体像をつかめていなかった。

 そのはじまりは、ごくささやかなものだった。岸辺の音頭取りによって提出されたひとつの法律改正案が、さしたる混乱もなく与党の賛成多数でひっそりと可決された。


【国籍法】

 第十一条 日本国民は、自己の志望によって外国の国籍を取得したとき、または日本国籍からの離脱を届け出たときは、日本の国籍を失う。


 この地味な改正を報じたマスコミは、ほとんどなかった。そして、一般の国民のなかで、この改正が持つ本当の意味を理解した者は皆無に等しかった。

 岸辺は、この極秘プジェクトを立ち上げた功績で、村井から内閣官房長官の椅子を与えられた。プロジェクトじたいが国家財政の健全化に役立つだけではなく、激しい国際競争にさらされている財界から強く望まれていたものでもあったからだが、村井の異常な趣味を満足させることを可能にしたことも大きな理由だった。


 二人を乗せた車は長いトンネルを出て、川崎沖に浮かぶ巨大な人工島へ走り込むと、その一角にある建物に滑り込んだ。

「君は、ここへは来たことがないそうだな」

「はい」

 繁之は意識的に、この人工島へ来ることを避けていた。勝手な方向へねじ曲げられたプロジェクトの実態を直視するのが怖かった。

「なぜかね?」

「それはその、グッドジョブ社にすべて任せてあることですし……」

 非国民プロジェクトは書類上、民間企業であるグッドジョブ社の自主的な企業活動ということになっていた。

「一度ぐらい、自分の目で実態を見ておくべきだろう。プロジェクトに携わる人間として」

 前後の車から降りたSPが警護するなか、村井と繁之は長身の男に迎えられた。あご髭を蓄え、高価そうなスーツをラフに着こなしたその男は、にこやかに二人を迎えた。年齢は、どう高く見ても40代前半といったところか。黒く日焼けし、にやけた風貌からは

 企業のトップというよりも、都落ちしたホストにしか見えなかった。

「総理。国籍離脱者センターに、ようこそおいでくださいました」

「やあやあ。元気かね、福神ふくがみ社長。おっと、いまは福神CEOか。グッドジョブ社も、大きくなったものだな」

「おかげさまで」

「槇島君は知っておるな」

 福神は繁之の顔を見てうなずいた。

「プロジェクトがスタートする前から、もう何度も」

「そうだったな」

 親しそうに会話する村井と福神のつながりを、繁之は尋ねた。

「総理。福神CEOとは、お知り合いで?」

「岸辺くんに紹介してもらってね」

 二人が案内されたのは、暗い部屋だった。村井は、SPに扉の外で待機するように命じた。部屋の真ん中には頑丈そうな椅子が据え付けられ、そのそばには何かのコントロール・ユニットが載せられた机が置かれていた。

 福神が白衣を着たアシスタントの技師に命じると、部屋が少し明るくなった。すると、椅子に若い女がくくりつけられているのが見えた。女は全裸で、気を失っているように見えた。からだじゅうに、電極のようなものを貼りつけられている。

「これは?」

 村井の問いに、福神が答えた。

「この娘は、ここでの生活にまったくなじもうとしません。反抗が過ぎるので、少々お仕置きが必要だと思いまして」

「なるほど。それで、私にどうせよと?」

「総理じきじきに罰を与えていただこうかと」

 村井は女に近寄ると少し腰を落とし、女の顔を覗き込んだ。食事を満足に与えられなかったのか、やつれてはいるものの、美しい顔立ちの女だった。

「ふん。君は私の好みをよく心得ているようだね」

「恐れ入ります」

 福神は部下に命じ、注射を打たせた。数秒もしないうちに女は目を覚まし、村井の顔を見て目を丸くした。

「総理大臣?」

「ほう。よく知っているな。最近の若い者は政治などには興味がないと思っていたが」

「あたしを、どうする気?」

 革ベルトで厳重に拘束されたからだを激しくくねらせながら、女は叫んだ。

「君は、ここでの生活が嫌いだそうだそうじゃないか」

「当たり前じゃない。からだなんか、誰が売るもんか」

「しかしね。ここは、ええと、何といったかな? 福神君」

 顔を福神のほうに向け、村井が尋ねた。

「国籍離脱者センターです」

 福神が答えると、村井は満足そうにほほ笑んだ。

「そうそう、そのセンターでは、命令には絶対服従することになっているそうじゃないかね」

「だから、売春しろという命令にも従えっていうわけ?」

「残念だね。こんなに反抗的でなければ、私が悪いようにはしないものを。君のような娘には罰が必要だよ」

 そう言うと村井はコントロール・ユニットのスイッチを入れた。とたんに女は、厳重に拘束されているにもかかわらず、椅子から跳ね上がるように全身を痙攣させた。その様子を見て村井は、口に残忍な笑みをたたえた。

 荒い息をしながら、女は岸辺を睨みつけた。

「あんた、総理大臣なんでしょっ。こんなことをしていいと思ってるのっ。人権をどう思っているのっ」

「非国民に人権などない。人権をうんぬんできるのは、あくまでも国民であるという枠組みのなかでのことだ」

「そんなバカなこと、よく言えるわね」

「バカなことでも何でもない。事実、アメリカなどは外国人に人権を保障しておらんよ」

「人権は人類普遍のものでしょっ」

「わが美しい国民の党は天賦人権論を採用しておらん。それに、だいたい君は」

 村井はコントロール・ユニットからリモコンを取り上げ、女に歩み寄った。

「自分の意思で日本の国籍から抜けたのだろう?」

「それは……」

 答える前に、女は短い悲鳴を上げて再びからだを痙攣させた。村井がリモコンを操作して電撃のスイッチを入れたのだった。

「非国民になる前の名前は、何と言った?」

 女が答えずにいると、村井は再びスイッチを入れた。長い悲鳴が部屋のなかに響き渡った。

「名前を言う気になったか?」

 唇がわずかに動き、かすかな声が漏れた。

「……桃香。高見沢……桃香」

 その名を聞いて、繁之は驚いた。イオの恋人の名前ではないか。思わず女の顔を凝視した。

「桃香君か。非国民になる前に会っていたら、君の運命も変わっていたかもしれんな」

「だれが、あんたなんかに」

 再びスイッチが入れられ、人間のものとは思えない絶叫が桃香の口から放たれた。繁之は恐怖で足が震え、その場にへたり込んだ。

「こ、こんなことが、許されていいのか」

 そして、そのままの姿勢で後ずさりしながらドアへ向かった。だがドアは遠く、なかなかそこへたどり着くことはできかった。

「ふん。意気地なしが。非国民プロジェクトの発案者が、実態を知らんでどうする」

 村井は繁之の無様な姿を一瞥いちべつすると、唇にサディスティックな笑みを浮かべ、桃香のからだにさらに強い電流を流した。やがて桃香のからだはピンク色に輝きはじめ、あたりに肉の焼ける悪臭が漂いはじめた。


 その日もスーパーバイザーから命じられ、死体を運ぶことになった久保田は、イオを連れて死体が置かれている部屋に向かった。

 台の上に無造作に置かれていたのは、女の死体だった。全身に火傷を負い、皮膚のあちこちが焼けただれていた。きつく拘束されたのだろうか、腕や足には明らかにそれとわかる跡があった。息を合わせて上半身を持ち上げようとしたイオが、突然、悲鳴のような叫び声をあげた。

「桃香!」

 イオは死体の肩を両手でつかみ、強く揺さぶった。

「桃香ぁっ」

 その姿を見て、久保田は何が起こったのかを即座に理解した。あえて非国民になってまで行方を追いかけていた恋人が、突然、死体となって目の前に現れたのだ。そのショックが、若いイオには受け止めきれないほどの衝撃であることは、年上の久保田にはよくわかった。

 だが、このまま心ゆくまで泣かせておくわけにはいかない。戻るのが遅いとスーパーバイザーが疑うかもしれない。

「イオ、イオ。落ち着け。よく聞くんだ」

「桃香が、桃香があ」

「落ち着け、イオ。気持ちはわかるが、いまは泣いているときじゃない」

「うるさいっ。放っておいてくれ」

 桃香の死体をかき抱いて泣きじゃくるイオの顔面に、久保田は拳でパンチを叩きこんだ。イオのからだは、部屋の向こうまで吹っ飛んだ。

 床に倒れたイオの胸ぐらをつかみ、久保田は小さいが断固とした口調で諭した。

「すまない、イオ。いまは耐えてくれ。スーパーバイザーに疑われてはまずいんだ。それに君も、いまこの仕事を失っては困るだろう?」

 イオは久保田の顔を睨みつけた。だがそれ以上反抗しようとはしなかった。状況は理解したらしい。

「ここでは詳しく話せない。いつもの場所で話そう」

 久保田はイオを助け起こすと、死体を載せた台に戻った。そして桃香の亡骸(なきがら)を丁寧にリヤカーに乗せ、船へ向かった。顔を腫らし、しゃくりあげているイオの様子を、スーパーバイザーは訝った。

「のろのろしていたので、一発、気合を入れたんです」

 久保田がそう説明すると、スーパーバイザーは疑うこともなく納得した。センターのなかでは、この程度の暴力は珍しいことではなかった。


 仕事を終えると、二人は別々に例の工事中の部屋に入った。

「イオ、これでお前にもわかっただろう。これが、ここの実態だ」

 そう言うと、久保田はひとつ大きなため息をついた。

「低所得者を国籍から外して奴隷化する。そのなかで、若くてきれいな女や男は政治家の慰みものにする。おそらくお前の大事な人も変態政治家あたりの犠牲になったんだろう。そして……」

 久保田は眉根に皺を寄せ、吐き捨てるように言った。

「働けない人間は、消去する」

「消去?」

 イオは、その言葉が使われた背景がわからないという様子で聞き返した。

「そうだ。文字どおり、消去だ。俺たちが船に積み込んでいる老人の行き先が、ようやくわかった」

「どこなんですか?」

「海の底さ」

「え、海の底?」

「そうだ。今日、船員たちが話しているのを聞いたんだ。『昨日は檻が船底に引っ掛かって、うまく落ちていかなくて困った』と言っていた」

 怪訝な顔をするイオから、久保田は視線を外した。

「つまり、檻ごと海に捨てているというわけだ。船のスケジュールから考えて、行き先はおそらく日本海溝だろう」

「じゃあ、桃香も……」

「そうなるな。老人たちを捨てるついでに、ああいう始末に困る死体も捨てているんだろう」

 イオの顔が、怒りでしだいに青ざめていった。

「許さねえ」

 その様子を見て久保田は立ち上がり、イオの両肩をつかんだ。

「イオ、聞いてくれ。機会を見て、俺はここを脱出する」

「オレも連れて行ってください。桃香をこんな目に合わせたヤツに復讐してやる」

「いずれ、君もここを出なければならない。ここは、君の居るべきところじゃない」

「だったら、いっしょに」

「二人で脱出するのは難しい。下手をすれば二人とも殺されてしまう」

「でもオレは、桃香の仇を討ちたいんだ」

「誰かが外へ出て、このことを公にしなければならない。だから君には、俺が脱出に失敗したら、俺の意思を継いでほしいんだ」

「……」

「こんなことは、やめさせなければならない。後を託せるのは君だけなんだ。わかってくれ」

 そう言うと久保田は、イオの両手をしっかりと握った。その体温のぬくもりと真剣なまなざしは、イオの激しく燃え上がろうとする怒りをかろうじて抑え込んだようだった。イオは何も言わず、セメント袋から立ち上がった。


 理沙は、戻ってきたイオの様子がおかしいのに気づいた。

「どうしたの? 何かあったの?」

「ああ」

 イオは、探していた恋人が見つかった、とつぶやくように言った。

「そうだったの」

 そういうことなら、イオとのこのささやかな暮らしももう終わるのだろう。理沙はつとめて平静を保ちながら微笑んだ。

「よかったじゃない。じゃあ、これからはその彼女といっしょに暮らすんだね」

「いや」

「え、なぜ?」

「殺されてた」

「どういうこと!?」

 先ほど見たことを言葉に出して言うと、イオは膝を抱えて頭をうずめ、声を押し殺して泣いた。理沙は、そんなイオの丸めた背中をうしろから優しく抱きしめた。

 その夜、理沙はイオと初めて結ばれた。


 自分が発した悲鳴で、繁之は目を覚ました。からだじゅうに電流を流され絶命する桃香が、鮮明な姿で夢に出てきた。ベッドに置き上がると、汗で全身が濡れ、手が震えていた。

 非国民プロジェクトは、発案者である繁之の意思とは無縁のところで勝手な自己増殖を始めていた。岸辺と福神は急速にシステムを作り上げていき、そしてそれは、さらなる悪夢をもたらそうとしていた。

 国籍法の改正が成立したとき、こんな方向へと進むとは想像もしていなかった。せいぜい、ホームレスが多少増えるだろうという程度の感覚だった。

 だが現実は、多くの国民の奴隷化され、抹殺されていた。手元の資料では、すでに5000人以上の低所得者が非国民となり、その半分近くが日本海溝の底に沈められていた。

 何とかしなければならない。岸辺と福神は非国民プロジェクトを日本全国へ広げる準備をしている。そうなれば、日本人の半分近くが非国民になってしまう可能性がある。しかし、プロジェクトの中枢にいながら繁之にできるのは、書類の決裁を数日遅らせるぐらいのことだった。

 繁之は、隣で眠る麻利絵の顔をじっと見つめた。彼女の頬の肉は削げ落ち、繁之と出会った頃の艶やかな顔とは別人のようだった。

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