第3話
3
電話に向かって怒鳴り散らす男を、繁之はじっと観察した。顔立ちは悪くはないのだが、異様に大きい目が全体のバランスを台無しにしていた。とはいえ、政治家の家系に生まれ、細身で背が高くスーツが似合うその容姿は、選挙区ではまずまず受けが良い。
男の名は
20代後半で初当選を果たし、30代から要職を歴任した、いわばエリート政治家だ。だが性格に何か問題があるのか、同僚政治家にも官僚にも友人はほとんどいなかった。人望のないこの男が年齢に似合わぬ要職にありついたのは、やはり家柄と、例のプロジェクトのおかげか、と繁之は想像した。
電話の内容は、このところ日本近海で不審な動きを繰り返すA国との交渉内容についてだった。
「いいな。交渉の動きは、
A国との交渉は、外務大臣の頭越しに岸辺が仕切っていた。村井首相から直接まかされた案件だと岸辺は言うが、A国に対してだけ、なぜこのような強硬姿勢を取るのか、周囲はまったく理解できなかった。
乱暴に電話機を置くと、岸辺は繁之を見上げた。
「それにしても、困ったことをしてくれたもんだね。君の息子も」
「申し訳ありません」
「よりによって、プロジェクトの中枢にいる人間の息子が非国民とは」
「申し訳ありません」
「聞き飽きたよ、それは。だが、とありあえずプロジェクトは君がいなければ進まないから、そのまま仕事は続けてもらうよ。ただ……」
「ただ、何でしょう?」
「君と君の家族は、これから公安の監視下に置くから、そのつもりでいてくれたまえ」
大きな目玉がまたたきもせず、こちらを見つめていた。繁之は、そこから何の感情も読み取ることができなかった。
「……。わかりました」
官房長官室を出た繁之は、麻利絵とマオに何と説明すべきか考えた。公安の監視下に置かれるとなれば、二人にも24時間体制で見張りがつく。外出や旅行もそうとう制限される。さらに、せっかく買った成城の家を出て公安が指定する宿舎に移らなければならない。
心配なのは、イオの家出以来、麻利絵の精神状態が不安定なことだった。これ以上彼女の心に負担をかければ、さらに状態が悪化することは目に見えている。しかもプロジェクトは特定秘密なので、はっきりと理由を言うことができない。繁之は頭痛を予感した。
繁之がドアの向こうへ去ったのを見届けた岸辺は、執務室内の淀んだ空気を入れ替えようとして、立ち上がった。
カーテンを開け放って窓を少し開けたとたん、地表から自動車のクラクションや工事の騒音が立ちのぼってきた。同時に、鉄筋でも切断しているのか、鉄が焼けるような匂いが岸辺の鼻孔を刺激した。それが引き金となって、禍々しい記憶がフラッシュバックした。
《智ちゃん、逃げて!》
拳銃の発射音が、岸辺の頭のなかに鳴り響いた。40数年前のあの時と同じように、岸辺のからだが凍りついた。全身が震え、額から脂汗がしたたり落ちた。目の前で母親を射殺され、恐怖に支配された子供は叫び声すら上げることができなかった。
壊れそうなほどの速さで心臓が脈打っている。呼吸をしようとしても、思うように肺に空気を取り込めない。死への不安が積乱雲のようにわきおこり、全身の毛穴から大量の汗が噴き出した。
からだに力が入らず、あわや失禁するのではないかと恐怖した。すべての臓器が制御不能に陥ったように思えた。
「ひいいいっ」
岸辺の唇から痙攣したような悲鳴が漏れ出すと同時に、忌まわしい記憶がふいに消えた。硬直したからだに、じょじょに力が戻ってきた。震える手で抽斗を開けて薬瓶を取り出し、錠剤をむさぼるように口のなかに押し込んだ。
しばらくすると、荒い呼吸が落ち着いてきた。これまで数えきれないほど繰り返してきた発作だが、どんな薬を使ってもいっこうに良くなる気配はなかった。まだ震えが止まらない手を見つめながら、岸辺は呪いの言葉を吐いた。
「消えてなくなれ。A国なんか消えてなくなれ」
それは、発作の回数と同じだけ繰り返してきたことだった。
「もうすぐだ。もうすぐ俺がA国をやっつけるんだ」
そうつぶやきながら。岸辺は口の中に深く入れた右手の指をいつまでも強く吸い続けた。
自動ドアの向こう側は、ちょっとした広場になっていた。そこへ足を一歩踏み入れた途端、イオは立ちすくんだ。10人ほどのさまざまな年齢の男女が、じっとこちらを睨んでいた。全員、イオと同じ薄緑色のつなぎを着ている。
イオがこれまでに見たことのない、強く、刺さるような視線だった。逃げる方向を探したが、視線の主たちに半円形に囲まれてしまっている。うしろの自動ドアは一方通行で、こちら側からは開かないらしい。
しばらく視線と対峙していると、彼らをかき分けるようにして背の低い小太りの中年男が近づいてきた。その男も薄緑色のつなぎを着ていた。
油ぎった顔にせいいっぱいの笑みを浮かべ、男はイオに話しかけてきた。
「やあやあやあ、新人さん。よく来たね」
イオの右手をつかむと、無理やり握手した。
「俺は0713号。ここではけっこう古顔の部類でね。あちこちに顔がきくんだ。案内してやろう」
そう言うとイオの肩に左手を回し、もう一方の手で男たちをかき分けた。彼らは不満そうな顔でしぶしぶ道を開けた。
「腹は、空いているかい?」
「はあ、少し」
「そうか。じゃあ、まず食堂へご案内しよう」
広場の反対側が食堂だった。なかは向こう側の壁が見通せないほど広く、多くの人間が座って食事をとっていた。
いちおうカフェテリア形式になっているが、メニューは一つしかなかった。得体の知れない汁がかかったどんぶり飯。それだけだった。「ここは頼むよ」という0713号の言葉に抗しきれず、男の分と自分の分、合計400ポイントをナビゲーターを操作して支払った。
「新人さん、あんたは運がいいよ。俺がいなけりゃ、あんた、扉のところであいつらに半殺しにされていたかもしれねえぜ」
「半殺し?」
「そうさ」
「あの人たちは、何なんですか?」
「ヘマをやらかしたか何かで仕事がなくて、ああやって新入りを狙っているのさ」
「狙うって?」
「あんたを半殺しにして、ナビゲーターからポイントを吸い取るのさ」
0713号はイオのナビゲーターを指さして、ニヤリと笑った。
「え? でも、これって……」
「本人の認証機能なんて、付いてやしねえ。だれがいじっても動くんだ」
「そうなんですか」
「さんざん痛めつけてから、自分のナビゲーターにポイントに移し替えるんだ。なかには殺しちまう奴もいるから、気をつけろよ」
イオは背筋が寒くなるのを感じた。
「ところで、あんた。仕事はどうするんだい?」
「まだ、何も」
「そうかい。だったら俺に任せな。悪いようにはしねえから」
そう言うと、0713号は立ち上がった。寮に案内してやるという。
寮というのは、よく言えば、カプセルホテルのようなものだった。奥行き二メートルあまり、高さと幅がそれぞれ90センチほどのベッド状のスペースで、薄っぺらなマットレスと布団が用意されていた。洗濯はされているようだが、嗅いでみると、かなり汗臭い匂いがした。
足を伸ばせる程度のスペースはあるので、一人ならば、かなり楽に寝ることができる。内側からシャッターを閉めれば、まがりなりにもプライベートな空間を確保することもできる。ただ、このベッドに寝泊まりするには、一日500ポイントが必要だった。
つまり、グッドジョブ社からもらったポイントが底をつかないうちになにか仕事を見つけないと、先ほどの男たちのように新人のポイントをかすめ取るような暮らしをするハメになる。その不安を見透かしたように、0713号はイオの肩を抱いた。
「じゃ、明日の朝、迎えに来るから」
そう言うと、歯の抜けた口に下品な笑みを浮かべながらどこかへ消えていった。
翌朝、0713号が迎えに来た。ついて来るように言われたイオは、なんの疑いもなく彼のあとについていった。
歩いた距離から、自分たちがいま歩いているのが、そうとう大きな建物のなかだということがわかった。しかし、初めからその大きさで建てられたのではないことは、不規則な形で縦横に走る通路が物語っていた。無計画に増設を重ねたらしく、内部は複雑な迷路のようになっていた。
「これから、何をするんですか?」
「うん。仕事、仕事」
0713号は詳しいことを語らずに、迷路のなかを先に立って歩いていく。イオは置いていかれないように、必死にそのあとを追った。通路はどこもコンクリートの打ちっぱなしで表示のようなものはなく、いちど迷ったら迷子になるのは確実だった。数分もすると二人は、薄暗く、人気のない通路を歩いていた。
0713号が立ちどまったのは、通路の突き当りにある錆びついた鉄の扉の前だった。
「ここ、入って」
イオがノブを握ると、ドアはロックされていた。
「あれ? ここって鍵が……」
そのときだった。0713号は長さ10センチほどの棒のようなものをすばやくポケットから取り出すと、イオの首筋に当てた。
悲鳴を上げることもできずに、イオは床に崩れ落ちた。からだ全体が痺れ、指の先さえも動かすことができない。昨日登録ブースで受けたときよりも、はるかに強い電気ショックだった。
「悪いな、新入りさん。ここでは人を簡単に信用するなよ」
0713号はイオのナビゲーターを操作し、残っていたポイントをすべて自分のナビゲーターに移し替えた。
ようやく動けるようになったイオは、ナビゲーターを見た。すでに夕方近い時間になっていた。ポイントの残高はゼロ。すべて0713号に奪われていた。
まだ痺れが残るからだをなんとか動かし、よろよろと立ち上がった。
「ちくしょう、あのジジイ。ぶっ殺してやる」
そう口に出してみたものの、0713号はとっくに姿を消していた。それどこらか、自分がいまいる場所がどこなのかもわからない。腹も減っていた。
ナビゲーターの〈センターのご案内〉から地図を検索して広場へ戻ったものの、一ポイントも持っていないイオは食堂で腹を満たすどころか、今夜のベッドさえも確保できない。
しかたなくイオは、〈お仕事情報〉を検索した。しかし、そのほとんどがある程度の専門技能を必要とし、そうでない仕事は応募が殺到して片端から埋まっていった。
そんななかで、応募者が非常に少ない仕事が一つだけあった。内容は、「力仕事」とだけ書いてあった。イオはためらうことなく応募のボタンを押した。選択の余地はなかった。
その夜。指定された場所に集まった6人は、イオのほかに中年の男が3人、真新しいつなぎを着た新入りの若い男が二人という陣容だった。顔が腫れていたり服に血が付いていたりするところを見ると、この二人は広場で半殺しの目に合わされ、ポイントを奪われたらしい。
赤いつなぎを着た男が現れて集まった人間の間をまわり、持っていたタブレットにそれぞれのナビゲーターを接触させた。登録を行っているようだ。
それが終わると、声を張り上げた。
「俺はこの仕事を担当するスーパーバイザー。荷物を運ぶ。隣の部屋へ行く」
赤いつなぎを着た人間は、スーパーバイザーと呼ばれるようだ。登録のブースでは、「スーパーバイザーに逆らうと、電撃」だと言っていた。先ほどの登録は、そのためのものらしかった。
スーパーバイザーに従って隣に部屋に入ると、イオは言葉を失った。そこには50人ほどの男女が椅子に座ったまま、あるいは床に倒れて眠っていた。テーブルの上に食べかけの食器が並んでいるところをみると、食事に睡眠薬のようなもの入れられていたようだ。
そのほとんどが老人だった。車椅子に乗った病人もいた。薄緑色のつなぎを着ているものは一人もいなかった。移動のバスから、直接この部屋に連れてこられたらしい。
「1031号、リーダー」
スーパーバイザーから指名されたヒゲ面の中年男が、棒状の器具を受け取って腰に装着した。その器具には、なんとなく見覚えがあるような気がした。
この仕事に慣れているらしいヒゲ面の男は、壁の大きな扉を開け、そこからリヤカーのようなものを引きだした。すると他の男たちは老人を一人ずつ抱え上げ、リヤカーに積み込み始めた。スーパーバイザーの言う荷物とは、この老人たちのことだった。
「これはいったい何なんだ? この人たちを、どうするんだ?」
若い男の一人が声を上げた。そのとたん、若い男は悲鳴を上げて床に倒れた。スーパーバイザーが電撃のスイッチを入れたらしい。
「私語は禁止。早く運ぶ」
イオは若い男を助け起こし、老人や病人をリヤカーに載せる仕事に加わった。五人ほどを載せたところで、リーダーがリヤカーの後部を指さした。うしろを押せということらしい。黙って指示どおりにリヤカーのうしろに回ると、リーダーがリヤカーを牽きはじめた。残りの男たちとスーパーバイザーが、そのあとに従った。
部屋を出て薄暗い灰色の通路を数十メートルほど行くと、急に夜空が見え、潮の匂いが鼻孔に飛び込んできた。港の埠頭のようだった。目の前には500トン程度の黒い小さな船が接岸していて、ディーゼル・エンジンがアイドリングする低い音をとどろかせている。船の明かりはすべて消されていて、唯一、横腹に空いた積み込み口だけが照明で照らされていた。
船内に入ると、そこは一般的な船の船室でも船倉でもなく、大きな鉄製の檻だけが置かれていた。作業に慣れた中年男たちは無言で老人たちをリヤカーから降ろすと、檻の床に敷き詰めるように並べ始めた。イオは何か悪い予感を感じたが、電撃を受けるのは嫌なので、黙って作業を手伝った。
すると、運んでいた老人が突然目を覚まし、大きな声を上げた。
「どこだ、ここはっ。俺をどうする気だっ」
老人は思いがけない力でイオを突き飛ばし、檻の入り口めがけて突進した。不意をつかれたイオはしりもちをつき、後頭部を鉄の檻に打ち付けた。
それを見たリーダーの動きは素早かった。老人を追いかけながら腰の棒を抜き、首筋に押し付けた。老人は犬の鳴き声のような悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。リーダーは足で老人のからだを揺すり、動かないのを確かめるとイオに合図した。
後頭部を撫でながら、イオは倒された老人のところに行き、抱え上げた。老人には意識がなく、からだにまったく力が入っていない。今朝の自分と同じ状態だった。
イオは気がついた。リーダーが使った棒状の器具は、0713号が持っていたものとそっくりだった。あの男は、何らかの方法でこの電撃棒を持ちだすことに成功したに違いない。
このセンターのなかでは、一本の電撃棒が自分の立場を劇的に強力にするようだ。現に、あの背の低い、いかにも非力そうな0713号には誰も手を出さなかったし、その行動に文句を言う者もいなかった。
何度か部屋と埠頭を往復し、すべての積み込みが終わると、檻の扉が閉じられ、外から鍵がかけられた。それを確認したリーダーの合図で、男たちは船を降りた。通路を戻る途中、長い嘆息のような船の汽笛が聞こえた。
終了後の点呼を終えると、スーパーバイザーがタブレットを操作した。ナビゲーターにポイントが振り込まれていた。2000ポイントだった。短時間の作業にしては破格の報酬だった。
「さっきは、ありがとうございました」
ヒゲ面の男に礼を言うと、短い答えが返ってきた。
「おう」
その態度はぶっきらぼうだったが、とりたててイオを嫌がっているふうでもないように感じられた。
「飯、喰いませんか」
「ああ」
遅い夕飯を食うあいだ、ヒゲ面の男はほとんどしゃべらなかった。イオの問いかけにも短く答えるだけで、食べ物を胃に流し込む作業に没頭した。
「あのスーパーバイザーというのは、グッドジョブの社員なんですか?」
「いや」
「じゃあ、非国民?」
「そうだ」
「何で、あんなに横柄なんですか?」
「さあな」
イオに問いかけに、1031号は短い答えを返すだけだった。ただ、食べ終わって立ちあがるときに一言だけ、こう言った。
「その気があるなら、明日の夜も来るといい」
他に仕事のあてもないイオは、一も二もなく首を縦に振った。
案の定、麻利絵とマオは強く抵抗した。せっかく買った成城の家をなぜ出なければならないのか、それがイオの家出と関係あるのかを執拗に問いただしてきた。
繁之は、ただ「政府の極秘プロジェクトに携わることになった。機密保持のためには仕方がない。詳しいことは何も話せない」の一点張りで押し通した。
だが麻利絵の抗議は、しだいに沈静化した。精神状態がさらに悪化したらしく、繁之やマオともあまり話すことがなくなった。心療内科から処方された薬を服用し、毎日、うつろな目でテレビを見続けていた。
マオも学校の行き帰りに監視がつけられることを嫌がったが、それが高級車を使った送迎であることを知ると何も言わなくなった。本人はパソコンやその周辺機器さえ自由にいじらせてもらえるのならば、あまり文句はないようだった。
そんな二人の様子を見て、繁之はとりあえず安堵した。イオの件は政府から固く口止めされており、監視されている家のなかでは口に出すことさえはばかられた。だが槇島家は、そんな生活にもすぐに慣れていった。
老人たちを船に積み込む仕事を始めて、数日が経った日のことだった。いつものように仕事を終え、寮へ向かう通路を歩いていると、どこからか、女がすすり泣くような声が聞こえてきた。
そのようなことは、ここでは日常的な出来事だった。イオは無視して歩き続けた。0713号とのことがあったので、なるべく人とのかかわりを避けてきたのだが、この日は、なんとなく心に引っ掛かるものを感じた。
「ちっ」
歩みを止め、斜めに交差する別の通路の奥を覗いた。一人の女が壁にもたれるように床に座り込んでいた。そばに行くと、女の様子が普通でないことがわかった。唇が切れて血が付着していた。着ているつなぎも、ところどころ破けていた。イオの存在に気が付いた女が顔を上げた。その怯えた表情には見覚えがあった。
「星野……理沙さん?」
バスで隣の席に座っていた女だった。
「イオくん」
「いったい、どうしたんですか?」
事情を聞こうとイオがしゃがみこむと、理沙はイオにむしゃぶりついた。
「理沙さん?」
それには答えずに、理沙はしばらく無言でイオにしがみついていた。からだが小刻みに震えていた。イオは理沙の背中に腕をまわし、優しく抱きしめた。
「ここは、地獄よ」
ようやくからだの震えがおさまった理沙は、つぶやくように言った。
「地獄って?」
「女にとって、こんな地獄はないわ」
「どういうこと?」
「レイプされたの」
「えっ」
理沙は運良く広場をすり抜け、商品仕分けの仕事にありついていた。しかし終業後に、スーパーバイザーからポイント付与の条件としてからだを求められたのだという。理沙が断るとスーパーバイザーは電撃を加え、動くことのできない理沙をむりやり犯した。
欲望を満たし終えたスーパーバイザーは、こんなことを言ったという。
「これは、お前のためにしてやった。妊娠して子供を産む。グッドジョブ社が高く買う」
耳を疑った。いったい、グッドジョブ社という会社は何をしようとしているのか。こんなことが現代の日本で許されるのだろうか。心のなかに抑えきれない怒りが湧き上がるのを、イオは感じた。
「いっしょに働いていた女の人は、子供をとられちゃったんだって」
「とられちゃった?」
「そう。登録の時に『子供は預かる』って言われて、それっきり会えないんだって」
「……」
「ずっと泣いてたわ、その人」
イオは何と言っていいのかわからず、ただ理沙のからだを強く抱きしめた。
「お願い。今夜はあなたのベッドに入れて」
「え? でも……」
ベッドに女を連れ込んではいけないという規則はなかったが、知り合ったばかりの女と共に夜を過ごすことに、少しためらいを感じた。
「お願いよ」
切迫した様子で懇願する理沙を、このまま突き放すわけにはいかなかった。イオは理紗を支えて立ち上がらせ、抱きかかえるようにして寮へ戻った。
受付でベッドの支払いを済ませたイオは、理沙にシャワーを浴びさせた。シャワーといっても、服を着たまま箱に入り、洗浄液をふりかけられたあとに水流にもまれ、さらに温風乾燥させられるという、人間を丸ごと洗う洗濯機のようなものだった。それでも、血のついたつなぎがきれいになると、理沙は少し落ち着いたようだった。
からだからうっすらと湯気を立ちのぼらせる理紗を連れ、イオは指定されたベッドにもぐりこんだ。二人で寝るには少し窮屈だったが、我慢できないほどではなかった。
シャッターを下ろしたとたん、理沙は再びイオにしがみついてきた。高めの体温が、二人のつなぎを通ってイオの皮膚に伝わった。忘れかけていた、生きている人間の暖かさだった。しばらくその温もりを楽しんでいると、理沙が話しかけてきた。
「お願い。明日もいっしょに居させて」
断る理由はなかった。
「それはいいけど、昼間はどうするんです?」
「なるべく早く、別の安全そうな仕事を見つけるわ。それまで、ここに居させてくれない?」
今日と同じ仕事を続ける限り、2000ポイントが入ってくる。理沙といっしょに居つづけることはできるだろう。イオは承諾した。
その日からイオは、昼間は理沙と過ごし、夜になると眠りこけた老人や病人たちを船に積み込む仕事に行った。リーダーを務めるのは、いつもヒゲ面の1031号だった。彼はスーパーバイザーからかなり信用を得ているようだった。
数日経つと、船は同型のものが二隻あり、毎晩交代で埠頭に入ってくることがわかった。そのことから、船は一昼夜ほどかかる距離を往復していることが推測できたが、いったい老人たちはどこへ運ばれていくのか。グッドジョブ社に対する疑念は深まるばかりだった。
日によって人数は変わるが、老人や病人を船に積み込む作業は毎晩続いた。そんななかで、ときおり違うものを追加で船に運ばされる日があった。それは、若い女や男の死体だった。破格の報酬にもかかわらず応募する人間が少ないのは、このことに理由があるようだった。
数こそ多くはなかったものの、死体は全裸で、性器や肛門を中心にひどい傷を負っている者が多かった。そしてその全員が、生きていたら美少女や美少年と言われるはずの美貌を持っていた。
彼女らや彼らは誰なのか。なぜこんな姿で死んでいるのか。食事を共にするたびに、イオは1031号に尋ねたが、彼はあいまいな返事をするか沈黙するばかりで、はっきりした答えを返さなかった。
それから10日ほどたった日のことだ。積み込みの仕事が終わると、珍しく1031号のほうからイオに声をかけてきた。
「ちょっと、付き合わんか?」
「いいですけど、どこへ?」
それには答えず、1031号はどんどん人気のないほうへと歩いてゆく。0713号の苦い記憶がよみがえってきたイオは、警戒して足を止めた。
「大丈夫だ。襲ったりはしない」
振り返った1031号は、怯えた顔のイオを見て微笑んだ。初めて見る表情だった。その笑顔がことのほか穏やかだったので、信用することにした。
二人は、コンクリートを打ったばかりのだだっ広い部屋に入った。センターのなかには、こんな場所があちこちにあった。いろいろな企業が工場や作業場を作っているようだが、工事はすべて非国民の手によって進められているので人手が足りず、中途半端な状態で放置されているものも多かった。
まだ工事中のその部屋のあちこちを、1031号は何かを確かめるように歩きまわった。
「うん。まだ監視カメラは取り付けられていない。大丈夫そうだ」
そういうと1031号は床に置かれたセメント袋に腰を下ろし、イオにも座るように合図をした。
「君は、何をしにここへ来た?」
いきなり核心を突かれ、イオは動揺した。
「どうして、そんなことを聞くんですか?」
「君の目は死んでいないからな。ここにいる連中の目は、みなどこか空虚で生気が感じられない」
そう言ってイオの顔を覗き込む1031号の目は、何かを探るような鋭い光を放っていた。
「オレは……」
真実を話していいものかイオは迷ったが、先ほどの笑顔を信じることにした。
「ガールフレンドを探しに来たんです」
その答えを聞いて、1031号は一瞬驚いた表情をした。
「なるほどな」
「おかしいですか?」
「いや。いまどきの若い奴にしては、いい根性をしているなと思っただけだ」
「名前は何というんだ?」
「槇島イオです」
「そうか。俺は
「はい。ところであなたは、やはり生活に困って?」
「俺か? 俺はフリーのジャーナリストなんだ」
久保田は、以前から格差や貧困の問題を取材するうちにグッドジョブ社の怪しさに気づき、ここで潜入取材をしていると語った。
「取材? 新聞か何かの?」
「ふん。いまは、大手マスメディアのほとんどが〈美しい国民の党〉の奴隷だ」
久保田は説明によれば、与党である〈美しい国民の党〉の村井内閣は、政権発足以来、マスコミに対して権力をバックにした恫喝を繰り返すとともに、執拗な圧力をかけているという。手下のクレーマーを動員し、美しい国民の党を批判する記事や報道に対して大量のクレームを突きつけるのだ。その指揮を執っているのが、官房長官の岸辺だった。
「たいていのマスコミは
久保田は穴の開いたセメント袋から一握りのセメントをつかみだすと、投げるように床へ撒いた。
「大事なことは何一つ報道されないからな。あとは自分で調べるしかない」
「あの……」
イオは、もっとも切実な問題を聞いてみた。
「高見沢桃香、というのはオレのガールフレンドなんですが、何か聞いていませんか?」
「すまんが、何も知らない。だが」
久保田は言いよどんだ。
「若い女は、容姿が良ければからだを売らされると聞いている」
桃香は学年で一、二を争う美少女だった。イオの胸に、強い痛みに似た焦燥感が走った。だが、まだ彼女の行方はおろか、その手掛かりさえ何もつかめていない。
「何か聞いたら、教えてくれませんか」
「わかった。心がけておく」
そう言うと久保田は腰を浮かせた。
「そろそろ戻ったほうがいい。どこで誰が見ているかわからないからな」
別れる前に、イオはもう一つだけ気になっていることを尋ねようと思った。
「あの老人や病人たちは、どこへ運ばれるんですか?」
ふいに、久保田の顔が暗くなった。
「それは、まだ確かなことが言えない。調べがついたら教える。それから」
久保田はイオに近づくと、耳にささやいた。
「ここでは誰も信用するな。監視カメラもたくさんあるし、スパイもうようよいる。わずかなポイントのために人を売る奴なんざ、ざらにいるからな」
必要な時は俺から声をかける、と言って久保田は足早に部屋を出ていった。
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