第2話
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このまま桃香のことを諦めることは、どうしてもできなかった。例の警官が漏らした
かといって、尋常な手段では父親からこれ以上の情報を引き出せそうにもない。イオは一計を案じた。
繁之の書斎に入ると、20本以上あるギターのコレクションから手近にあった一本を取り上げ、床に叩きつけた。ギターは大きな音とともにネックがへし折れ、部品が床に転がった。
すぐに2本目のギターを持ち上げ、頭上から一気に振りおろした。豪快な音を立てて、ギターはバラバラになった。
「何をやっているんだ」
破壊音に驚いて飛んできた繁之は、床の上の惨状を見て息を呑んだ。
「ひっ」
その間にも、イオは新たなギターを頭上に持ち上げた。
「やめろっ。俺の大事なギターに何をするんだっ」
イオはかまわずギターを床に叩きつけた。先の2本と同じように大きな音を立て、ギターは粉々になった。そしてためらうことなく、次のギターを持ち上げた。
「やめてくれ。それはレスポールのオールドだ。高かったんだ」
ギターを振り上げたまま、イオは繁之をにらんだ。
「親父、答えろ。非国民って何だ。桃香はどうなったんだ。あんたなら知っているだろう」
「言えん」
イオはさらにギターを振り上げ、叩きつける姿勢を取った。
「やめてくれ。頼む」
「だったら、教えろ」
「言えないんだ。特定秘密なんだよ。わかるだろ」
「わからねえよ。非国民って何なんだ。言えっ」
「やめろぉっ」
繁之はイオに組み付いた。二人が衝突したはずみでギターは宙を飛び、他のギターをなぎ倒して床に落ちた。繁之は傷だらけになったギターに駆け寄って持ち上げ、抱きしめた。
「俺のレスポールがぁ」
子供のように泣きじゃくる繁之を見て、イオは戦意を喪失した。この状態では、とてもじゃないが情報を聞きだすことはできそうにもない。
「ちっ」
書斎の入り口からなかを覗いていた麻利絵とマオを押しのけ、イオはそのまま家を出た。
初夏の生暖かい風が頬を撫でたとたん、唐突に桃香の柔らかい唇の感触が思い出された。その生々しい記憶が、イオには桃香からのSOSのように感じられた。残された手段は、一つしかなかった。その足で、グッドジョブ社を訪れた。
もう夜の八時を過ぎているというのに、グッドジョブ社は昼間と同じように営業していた。前回と同じように一階で番号札を受け取り、二階のブースに入った。対応したのは前回とは別の女だったが、作り笑いを浮かべた表情は不気味なほどそっくりだった。
「もう大丈夫ですよ。何も心配いりませんからね」
言うことも同じだった。きっとマニュアルにそう書かれているに違いない。
「すべてグッドジョブにお任せください」
イオは黙ってうなずいた。
「まず、この申請書にお名前と電話番号と現在の住所をお書きください。住所がなければ……」
ひったくるようにボールペンを受け取ったイオは、乱暴な字で空欄に記入した。これしか手掛かりがないとすれば、飛び込んでみるしかない。
「ハンコをお持ちですか?」
「いえ」
「だったら、拇印でかまいませんので、ここへ」
女が指し示す場所へ、朱をつけた親指をついた。
「手続きは、これですべて終わりです。では、エレベーターで地階へ行ってください」
そこは、50人ほどが入れる会議室のような場所だった。半分ほどの席が埋まっている。ほとんどがみすぼらしい格好をした中年以上の男女だったが、なかにはイオと近い年齢の者もいた。
「では、オリエンテーションを始めさせていただきます」
壇上に、黒いスーツを着て黄色のネクタイを締めた三〇代ぐらいの男が立った。
「みなさんは先ほど二階でやっていただきました手続きにより、日本国籍を離脱されました。これより以後は、納税など国民としての義務はなくなります。未納付金のある方は、これ以上の取り立てに遭うことはありません」
会場から、安堵とも悲嘆ともつかない溜め息が漏れた。
「これからのことをご説明します」
男の説明によると、国籍離脱者センターに移動し、そこで生活することになるということだった。そこには寮が用意されており、仕事をすればその時間や内容に応じて報酬を受け取ることができるという。
「仕事ができない人間は、どうすればいいのですか?」
会場から質問があがった。見ると、座っているのもやっとという風情(ふぜい)の顔色の悪い中年男だった。
「そういった詳しいことは、センターに着いた時点でお伝えします。では、これから移動しますので、バスに乗るためのグループ分けをします。番号が呼ばれた方は、前に立っている係員のところに並んでください」
最初に呼ばれたグループはすべて老人か、いかにも体調の悪そうな者たちだった。10人ほどの一団は係員に先導され、入った時とは別のドアから外へ出ていった。
次に呼ばれたのは、子供を連れた若い母親たちばかりだった。親子で6、7人はいただろうか。
最後に残ったのは、イオを含め、10人弱のグループだった。下は10代後半から上は50代前半ぐらいまで、年齢にはバラつきがあるが、比較的元気そうな男女だった。
「では、バスに移動します」
係員について部屋を出ると、そこは飛行機の搭乗口のようになっており、バスに直接乗り込めるようになっていた。イオには、それが乗客の便利のためというよりは、逃亡を防ぐために設置されているように思えた。
車窓を流れる無機質な都市景観を眺めていると、隣に座った女が話しかけてきた。歳は、イオよりやや上だろうか。着古したジーンズの上下に身を包んだ女の顔には化粧した跡がなく、髪は先のほうが乱雑に切り落とされていた。自分で切ったのかもしれない。少なくとも美容師の仕事ではなかった。
「私たち、どうなるんでしょうね」
怯えたような表情だった。だがイオも、この先のことについては何の知識も持ち合わせていない。
「さあ」
女は黙ってうつむいた。イオは何か悪いことをしたように思え、あわてて言葉を継いだ。
「あの、オレ、槇島イオっていいます」
女はイオの顔を見て、弱々しく微笑んだ。
「私は星野理沙。よろしくね」
バスは突然トンネルに入った。長いトンネルだった。まるで、地獄の底へ向かって降りていくような長さだった。桃香もここを通ったのだろうかと思うと、イオの心は乱れた。
やがてバスはトンネルを抜け、一瞬月明かりに照らされたと思うと、大きな建物のなかに吸い込まれて停車した。入口の両脇には、自動小銃を持った黒い服の警備員が待機していた。なぜ自動小銃を、と訝しむ暇もなく、係員に急かされて建物のなかに追い込まれた。
装飾というものが一切ない殺風景な建物のなかには、固そうなベンチが十数列置かれているだけだった。視線の向こうにある反対側の壁には、空港の入国審査場のようなゲートがいくつか設けられている。時間が遅いせいか、空いているゲートは一つだけだった。
真っ赤なつなぎを着た男が前に立ち、拡声器のマイクを握った。
「これから登録を行う。一人ずつ、順番に前方のブースへ入れ」
先ほどとはうって変わって、乱暴な口調だった。さっそく、いちばん前に座っていた中年の男が、赤いつなぎの男に追い立てられるようにしてゲートへ追い込まれた。
登録は一人あたり、15分ほどかかった。一時間ほどでイオの番がやってきた。
「名前は?」
「槇島イオ」
ゲート内のデスクに座る太った男も、やはり赤いつなぎを着ていた。イオは立たされたまま、矢継ぎ早に言葉を浴びせかけられた。
「これから、あんたの名前は1957号。覚えろ、1957号」
「1957号……」
「持ち物を、すべてここへ」
男が指さしたトレイに、ポケットから財布や携帯端末を出して乗せた。
「マイナンバー・カードは?」
イオは財布からカードを抜き出して男に渡した。係の男はカードを読み取り機のスロットに挿し、パソコンを操作した。
「これであんたの財産は、すべて国有化済み。財布も携帯端末もここに置いていく。ここでの生活には必要ない」
なるべく言葉数を少なくしようとしているのだろうか。語尾を省略する聞きなれない口調でそう言うと、係の男はうしろの棚から腕時計のようなものとビニール袋に入った衣類と靴をイオに渡した。
「ナビゲーターを、腕に」
腕時計のようなものは、ナビゲーターという名称らしい。イオが左腕につけるのを見て、係の男は机の下からコードを引き出してナビゲーターに接続した。そしてパソコンを操作すると、軽い電子音がした。
「これでもう、死ぬまでナビゲーターははずせない。無理にはずそうとすると高圧電流」
イオは自分の左腕を持ち上げて、ナビゲーターをしげしげと眺めた。文字板に当たる部分はモニター画面になっていて、現在は時刻が表示されている。
「必要な情報は、すべてそのナビゲーターから読み取る。操作は携帯端末とほぼ同じ」
〈TOP〉と書かれた部分をタップすると、いくつかのボタンが現れた。〈はじめに〉、〈センターのご案内〉、〈お仕事情報〉、〈ポイント〉、〈エンタテインメント〉などの文字が読み取れた。
「仕事をするとポイントがもらえる。そのポイントは買い物や飲食に使う」
「メシはどうすんの?」
「センターのなかに、食堂」
「タダかい?」
「ポイントで支払う」
「オレ、ポイントなんか持ってないぜ」
「登録記念として、グッドジョブ社から五万ポイントを進呈。それがある間に、何か仕事を見つける」
同じ説明を、これまでに何百回と繰り返してきたのだろう。係の男の口調には抑揚がなく、一刻も早くルーティンをこなしたいという意思だけが読み取れた。そんな態度に、イオはしだいに反発を感じはじめた。
「服。着替える」
「ここで?」
「そう。全部脱ぐ」
「下着も?」
男は手もとのタブレットに触れた。そのとたん、イオのからだは宙にはね上がり、そのまま床にたたきつけられた。
「スーパーバイザーに逆らうと、電撃」
赤いつなぎの男は、表情ひとつ変えていなかった。こうしたことは日常茶飯事のようだった。イオはよろよろと立ち上がると、その場で服を脱ぎ、薄緑色のつなぎに着替えた。
男が面倒くさそうに指し示す先、ブースの奥には不透明なガラスでできた自動ドアがあった。ドアの上には、「国籍離脱者センターへようこそ」と書かれた看板が掲げられていた。
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