非国民ニ告グ
加集大輔
第1話
第一部
1
口の中に入り込んだ細かな砂を、
相手のチームは、都大会で常に上位に食い込む実力校だった。進学校として有名なイオの学校に対する嫉妬でもあるのか、試合中は執拗に激しいチャージを仕掛けてきた。
「あいつらだけには負けるな」
試合が始まる前には、そんな声も聞こえたような気がした。それにしては、イオのチームは善戦していた。後半40分を過ぎた現在、失点はわずかに一点にとどまっていた。
残り時間2分という場面でチャンスが訪れた。ディフェンダーがカットしたボールを受けたミッド・フィールダーのイオは、相手エンドを確認した。味方のフォワードが駆け上がりながら、さかんに合図を送ってくる。相手チームの選手は不意をつかれ、まだ完全に戻りきれていない。
イオはためらうことなくドリブルを選択した。ゴールめがけて一直線に進むイオを阻止しようと、キーパーが前に出てきた。
「こっちだ。まわせっ」
味方フォワードの声はイオの耳にも届いていた。フォワードへのパスさえ通れば確実にゴールできるパターンだったが、イオはキーパーとの一騎打ちを選んだ。キーパーの頭越えを狙い、浮き気味のシュートを放った。
イメージしたより低く飛んだボールを、相手のキーパーがジャンプしてはじいた。ゴールポストを大きくそれ、ボールはピッチの外に転がった。その直後にホイッスルが鳴り、試合が終わった。決まれば引き分けに持ち込めるところだった。
「何を勝手なことやってんだ」
「サッカーはチームスポーツなんだぞ」
先輩や監督は口々に身勝手なプレイを批判したが、イオは意に介さなかった。恋人の
だが、その桃香は試合を見に来ていなかった。試合後にあたりを探したが、どこにも見当たらなかった。いま、家が大変らしいと聞いていた。何か急用でもできたのだろうとあまり深く考えず、あとで電話してみることにした。
玄関の扉を開けたとたん、毛の長い大きな猫と鉢合わせした。不意をつかれたイオは、思わず声をあげた。
「ああ、びっくりした。イチゴか」
猫はイオの顔を見るやいなや
リビングに入ると、弟のマオが手作りのパソコンを調整していた。そこへ、何かを探している様子で父の
「おう、イオ。帰ってきたか」
それだけ言うと、繁之はすぐに探し物を続けた。
「マオ。イチゴがどこへ逃げたか知らないか?」
マオはモニターがわりに接続している大型テレビの画面から目を離さず、顎でソファのあたりを指し示した。
繁之がソファの下を覗きこむと、全身の毛を逆立てて怒りをあらわにしたイチゴが、両眼を光らせて反撃体制をとっていた。
「さ、イチゴ。出ておいで。お店でシャンプーしてもらおうね」
手を伸ばしたもののしたたかに噛みつかれ、繁之は悲鳴を上げた。その様子を見ていた
「あらあら、お父さん。またイチゴと喧嘩?」
大声で威嚇しながら逃亡を図ろうとする猫をしっかりと抱きかかえながら、繁之はひとりごとのように言った。
「どうしてこいつはシャンプーが嫌いなんだろうな」
「シャンプーじゃなくて、あなたのことが嫌いなんじゃないの」
麻利絵は、盆の上のマグカップと菓子皿をテーブルに並べた。
「イオ、お帰り。今日は勝ったの?」
「負けた」
「そう。たまには勝てばいいのに」
「勝ち負けだけで、やってるわけじゃないから」
強がりだった。自分のせいで負けたとは言えなかった。
「マオ、あなたも何かスポーツやったら?」
「やだ」
「毎日毎日、パソコンいじりばっかりなんだから」
美しく装飾されたチョコレートをほおばりながら、麻利絵はつまらなそうにタウン誌のページをめくった。
「ね。みんなで、うなぎ食べに行こうか。天然だって」
開いたタウン誌のページを麻利絵がイオに向けたそのとき、玄関のセンサーが反応して電子音が聞こえた。
「あら、ペット屋さんかしら? パパ、イチゴをケージに入れてくれた?」
「ああ。だいぶ暴れてくれたけど」
書斎から持ってきたギターを大事そうに磨く繁之に、立ち上がる気配はなかった。その様子を見た麻利絵は、玄関カメラの画面を確認して怪訝そうな声を出した。
「おかしいわねえ」
「どうしたの?」
「誰もいないのよ」
「いたずらじゃねえの」
「イオ、ちょっと見てきてよ」
「オレが?」
「だって、変な人がいたらイヤじゃない」
玄関に出てまわりを見たが、人影はなかった。日曜日の午後、一戸建てが建ち並ぶ住宅地の穏やかな光景が広がっているだけだった。
ふと郵便受けを見ると、小さな包みが押し込まれているのが見えた。それは不器用だがていねいにラッピングされ、リボンがかけられていた。
「なんだ、これ?」
包みには、二つ折りにしたカードが添えられていた。
《いままでありがとう。桃香》
イオは家の前の道を見渡した。こちら側にも反対側にも、桃香の姿は見えなかった。部屋に戻って包みを開くと、なかに入っていたのは、数週間前に桃香に貸した、サッカーをテーマにした映画のDVDだった。桃香が観たいと言っていたものだった。
すぐに桃香に電話をかけた。だが携帯端末からは、「この番号は現在使われていません」というアクセントのおかしい合成音が流れてくるばかりだった。しかたなく、SNSにメッセージを残した。
翌日。登校したイオは自分の机に鞄を置くと、桃香のいる教室を目指した。メッセージは読まれた形跡がなかった。
「桃香、いる?」
同じ中学から進学した友人に尋ねると、驚きの表情を浮かべた。
「えっ。お前、知らねえの?」
「何を?」
「引っ越したぜ、あいつ」
「え?」
突然、恋人の自分に一言もなく去ってしまったことにイオはショックを受けた。父親の会社の経営状態が良くないことは、デートの時に聞かされていた。業界でも屈指の超精密加工が売り物だったが、政府が関係する得体のしれないプロジェクトに自社の部品が使われるのを拒否して以来、取引が激減したという。
「引っ越したって、どこへ?」
「なんか、神奈川のどこかとか聞いたぜ」
「神奈川?」
桃香から神奈川の話題が出たことは、これまで一度もなかった。親戚がいるとも聞いていなかった。イオは、自分がどこかに置き去りにされたような寂しさをおぼえた。同時に、桃香の家庭に何が起こったのか、言いようのない不安を感じた。
教師に尋ねても、個人情報保護をたてに、引っ越し先を教えてもらうことはできなかった。
自由が丘に近い桃香の自宅へも行ってみた。しかしそこには誰もおらず、入り口に貼られた破産管財人の告知が、風に吹き飛ばされまいと虚しい抵抗を続けているだけだった。
ちょうど通りがかった、近所の主婦らしい中年の女性に声をかけた。
「あの、オレ、ここんちの桃香の学校の友人なんですけど、どこへ引っ越したか知りません?」
告知を指さしてイオが尋ねると、女性は足を止めた。
「高見沢さんちのこと? たぶん、外国に行ったんじゃないかしら」
「外国? 神奈川じゃなくて?」
「神奈川? 神奈川は外国じゃないでしょ」
会話が噛み合っていなかった。イオはしかたなく、相手の主張に合わせた。
「外国って、どこですか?」
「知らないわ。だって、国籍を離れるとかなんとか言ってたから」
「国籍を離れる?」
「私も詳しいことは知らないのよ。噂に聞いただけだから」
去っていく女性のうしろ姿をぼんやりと眺めながらイオは、「国籍を離れる」とはいったいどういうことなのかを考えた。だがそれは、あまりにも日常からかけ離れており、イオの想像力の範囲を超えていた。
週末。一家で出かけたちょっと贅沢な夕食も、イオにはほとんど味が感じられなかった。
「このオムレツ、おいしいな」
「けっこう、いいトリュフを使ってるわね」
「あれ、兄貴。食わねえの?」
桃香の行方は、杳として知れなかった。トリュフどころではなかった。
「だったら、俺にくれよ」
マオがすばやくイオの皿を引き寄せ、料理を口に詰め込んだ。
「うまい。あれ?」
イオは怒りもせず、ぼんやりと宙をにらんだままだった。いつもと様子が違う息子を心配した麻利絵が声をかけた。
「イオ、どうしたの? からだの具合でも悪いの?」
「いや、別に……」
その様子を見たマオが茶化した。
「兄貴は彼女にフラれて落ち込んでるんだよ」
「へえ、そうなのか?」
繁之が興味深そうにイオの顔を覗き込んだ。ちょうどいい機会だと思い、イオは心のなかにある疑問をぶつけてみようと思った。
「なあ、親父」
「なんだ?」
「国籍を離れるって、どういうこと?」
繁之の顔に、ふだんは見せないような緊張が走った。
「外国人になるっていうこと?」
「なんで、そんなことを聞くんだ?」
「いや、それが……」
桃香の一件を簡単に説明した。すると繁之は声をひそめ、しかし断固とした口調で言った。
「そのことは二度と口にするな。誰にも言ってはいかん。その桃香という娘のことを探すのもやめろ。これは、お前が知らなくていいことだ。絶対に首を突っ込むんじゃない。いいな」
繁之は厚生労働省のキャリア官僚で、内閣府へ出向している。その父に聞けば何かわかるかと思ったのだが、その結果がこれだった。
「さ、次はメインの鹿だぞ」
繁之は直前の会話を覆い隠すように、明るい声をあげた。そのわざとらしさに、イオの疑惑は増すばかりだった。
インターネットでいくら検索しても、「国籍を離れる」ということについては、まるでフィルターがかけられているかのように、ただの一つもヒットしなかった。繁之の態度から予想はしていたが、思った以上にガードが固いようだった。
「ちぇ」
イオはタブレットの画面から顔を上げ、大きく息を吐いた。検索の視点を変えればいいのだろうか。考えつく限りの類似ワードを入力してみたが、自分が求める答えは得られなかった。
やり方を変え、まったく別の角度のキーワードを入れてみることにした。いくつか試したあと、「生活に困る」と入れてみた。すると、驚くべき数の結果が表示された。しかも、その多くがグッドジョブ社という派遣会社のものだった。
検索結果の一つを開いてみた。そこには、こんな文字が躍っていた。
《生活にお困りのあなたへ。ここに完全な解決法があります。》
他にもいくつか開いてみたが、キャッチコピーは違っていても、すべて同じグッドジョブ社のページにつながっていた。タップしてみると、電話番号と、「ご相談窓口」として都心の一等地に建つビルの地図が掲載されているだけだった。それ以上の情報は何も書かれていなかった。
なんでもいいから桃香についての情報が欲しい。強い焦燥感に駆られたイオは、学校をさぼって「ご相談窓口」を訪れた。
地図にあった場所はグッドジョブ社の本社ビルで、1階ロビーが受付になっていた。30人ほどが並ぶ列のうしろに付くと、順番はすぐに回ってきた。係員から番号を書いた札を渡され、2階の「ご相談窓口」へ行くよう促された。
エスカレーターの先には、大きな円形の待合室が広がっていた。天井からは巨大なモニターが何台も天井からぶら下がり、受け付け中の番号札を表示していた。弧を描く待合室の壁面には摺りガラスのドアが20ほどあり、それぞれに番号が書かれていた。
ほどなくイオの番号が表示された。指定された番号のガラス・ドアを開けると、ダーク・グレイに統一された調度がしつらえられ、壁際には唯一の彩りである生花が飾ってあった。モノトーンの室内が珍しく、その場に立っていると、黒いスーツを着て黄色いスカーフを首に巻いた化粧の濃い女が職業的な笑みを浮かべながら椅子をすすめた。黒い革張りの、座り心地のいい椅子だった。
「もう大丈夫ですよ。何も心配いりませんからね」
イオが口を開くより先に、女が言った。
「いや、あの。オレは……」
「すべてグッドジョブにお任せください。ここへいらっしゃる方のなかには、あなたのようにお若い方も少なくありませんから」
「いや、だから……」
「まず、この申請書にお名前と電話番号と現在の住所を。あ、住所がなければ本籍地でもかまいませんよ」
女は、イオに考える
「違うんです。オレは申し込みに来たんじゃないんです」
ボールペンを突き返すと、女は真意をはかりかねる様子でイオを見つめた。
「と、おっしゃいますと?」
「教えてほしいことがあるんです」
「生活にお困りではないのですか?」
「いえ。高見沢桃香という子が、ここへ来ませんでしたか?」
「そういう個人情報については、お答えいたしかねます。生活にお困りでなければ、お帰りください」
イオの質問に警戒した女は、急に冷たい口調になった。
「じゃ、一つだけ教えてください。ここは外国の仕事も斡旋しているんですか?」
「なぜ、そんなことを?」
「桃香が国籍を離れたかもしれないって聞いたから」
その言葉に、女は敏感に反応した。
「お待ちください。いま、詳しい者を呼びますので」
女がどこかに電話をかけると、ものの数秒もしないうちに背後のドアが開き、スーツ姿の二人の男が入ってきた。
「ちょっと、こちらへ」
二人はイオを両側から挟み、犯罪者を連行するように別室へ連れていった。
イオが連れ込まれたのは、先ほどのブースとはうって変わって殺風景な部屋で、安っぽいスチールの机と椅子しか置かれていなかった。まるで、ドラマで見る取調室のようだった。
男の一人が、机を挟んでイオの前に座った。
「名前は?」
「え?」
「名前を言え」
「取り調べかよ、これは。ふざけんな」
男は背広の内ポケットから何かを取り出し、イオの目の前で広げた。警察手帳だった。
「え、警察!?」
「こちらの質問に素直に答えないと、困ったことになるぞ」
イオは混乱した。派遣会社のなかに、なぜ私服警官がいるのか。その私服警官に、なぜ自分は尋問まがいのことをされているのか。そもそも、なぜ自分がこんな目に合わなければならないのか。
しばらくの間、イオは無言で抵抗したが、私服警官の執拗な質問攻めに根負けした。「答えなければ、永遠にここから帰れない」と言われたのが決定的だった。
名前と住所、学校名、両親の名前と職業を紙に書かされた。私服警官たちは「ここで待つように」と言い残すと、一人がその紙を持って出ていった。残った一人はドアの前に立ち、出口をふさいだ。
一時間ほどすると、部屋の外に足音がした。なかに入ってきたのは先ほどの私服警官と、父親の繁之だった。
「お前……」
繁之はイオに歩み寄ると、拳骨で力いっぱい殴った。イオは壁まで吹き飛び、床に倒れた。
「イオっ、馬鹿な真似はするなと言っただろう」
「まあまあ、お父さん」
私服警官の一人があわてて繁之を引き離した。その間に、もう一人がイオを抱き起こした。唇をぬぐった手には血がにじんでいた。
まだ興奮が醒めない様子の繁之に、私服警官が低い声で話しかけた。
「本来であれば、息子さんにはこのまま
「申し訳ありません。息子にはよく言い聞かせますので」
「そうしてください。くれぐれもこのことは他言なさらないように。もし人に話すようなことがあれば、その時は……、おわかりですね?」
繁之は私服警官たちに三拝九拝したあと、イオの首根っこを引きずるようにしてグッドジョブ社から連れ出した。
「いいか。今日のことは全部忘れるんだ。さもないと、あいつら公安は……」
そこまで言いかけて、繁之はあとの言葉を飲み込んだ。その顔はさっきの興奮状態とは別人のように蒼ざめていた。
父は何かを知っている。イオの疑惑は深まるばかりだった。だが父親の表情は、イオにこれ以上質問をぶつける勇気を萎えさせた。
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