第5話
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理沙の言葉に、イオはとまどった。
「聞こえた? 妊娠したみたいなの」
言葉の意味はわかるのだが、まるで現実感がなかった。
「妊娠って、子供ができたっていうこと?」
「他にどんな意味があるのよ」
少し怒った声でそう言う理沙の表情に、イオは次の言葉を飲み込んだ。そこには、これまでに見せたことのない強い意志を秘めたまなざしがあった。
「話があるの」
「え、何?」
理沙はイオの前に正座し、その両手を握った。
「落ち着いて聞いてちょうだい」
「うん」
「私、
産院はセンター内にある唯一の医療施設で、妊娠した母体が無事出産するまでのケアをしてくれる。ただし、生まれた子供はグッドジョブ社が一定のポイントと引き換えに引き取ることになっている。
「えっ、でも」
「私たちに選択肢はないわ。このままお腹が大きくなったら……」
子供を堕ろす方法はない。しかし、産むとなれば必要な栄養も十分には摂れないし、動きが鈍くなったら襲われる可能性も高くなる。理沙の言うとおり、選択肢はなかった。
「わかってくれるわね」
「理沙……」
イオは両腕をまわし、理沙を強く抱きしめた。桃香の死体と向き合ったあの日以来、理沙の優しさが、そして彼女の体温が、どれほど自分に慰めと癒しを与えてくれただろうか。それを失うと思うと、気が狂うほどのいとしさを感じた。理沙を抱きしめる腕に、いっそう力がこもった。
「いつ、行くんだ?」
「明日。いっしょに来てね」
「ああ。子供を産んだら、帰ってくるんだろう?」
「生きていればね」
それは冗談ではなかった。このセンターのなかでは、死は呼吸や排泄と同じぐらい身近なものだった。出産までに何が起こるかわからなかったし、無事出産にこぎつけたとしても、そのあとに何が待ち受けているのかも不明だった。
夜半過ぎ。誰もいなくなったオフィスのなかで、繁之は自分の机に向かって作業をしていた。デスクの上に書類を一枚ずつ乗せ、携帯端末で撮影した。すべて非国民プロジェクトに関連する書類だった。
パソコンのなかのデータをメモリーに移しかえれば簡単だが、それでは記録が残ってしまう。公安は、パソコンの中身を常にチェックしているはずだ。手間がかかっても、紙の書類を一枚一枚写真に撮るしかなかった。
これをすべてマスコミにぶちまけたとしても、そんなニュースは誰も信じないかもしれない。それに万が一報道されたとしても、美しい国民の党は、「国家財政を健全化する施策だ」、「この国の未来のためだ」と主張するだろう。
現に、非国民プロジェクトの進行と並行するように、財政赤字が減少する兆しが出ていた。ここのままでは、直接国民の目に触れることのない非国民プロジェクトは、その実態が知られないまま正当化されかねない。
いいのか、こんなことをして。そう自問しながら繁之は作業を続けた。書類を持ち出したことがばれれば、自分は役人を罷免されるだろう。いや、あのサディストの村井のことだ。なぶり殺しにされるかもしれない。だが一方で、この書類が自分の命を保障する保険になるかもしれない、との思いもあった。
恐怖で叫び出したくなる衝動を抑えながら、繁之は必死の思いで作業を続けた。
産院のドアの前で、イオと理沙は長い間抱き合っていた。
「もう、いくわ」
「いかないでくれよ、理沙。オレを一人ぼっちにしないでくれよ」
「何度も言ったでしょう。私たちには選択肢はないのよ」
それは、理屈ではわかっていた。だが心とからだは、納得してなかった。
「理沙」
自分を抱くイオの腕を優しくほどき、理沙は両手を握った。
「元気でね」
「うん」
「生きるのよ。何があっても」
それだけ言うと理沙はイオの手を振りほどき、軽く手を振ってガラス・ドアの向こうへと消えていった。
「理沙ぁー」
イオはあふれる涙をぬぐうこともせず、その姿を見送った。お互い口には出さなかったが、もう二度と会えないだろうと、なんとなく予感していた。
それから数日後。イオは仕事帰りに久保田に呼ばれた。
「明日、決行する」
いつもの工事中の部屋で、久保田はイオに打ち明けた。
「明日は新月で月がない。絶好の海水浴日和だ」
「海から脱出するんですか」
「そうだ。いろいろ調べたが、やはり逃げ道は海しかないようだ」
「久保田さんも、行っちゃうんですね」
桃香、理沙に続いて、残された唯一の味方である久保田まで失うことにイオは恐れを抱いていた。
「どうしたんだ。何かあったのか?」
「理沙が……」
一部始終を話すと、久保田は苦笑した。
「君は、女に手が早いな」
そんなつもりだったのはない、と抗議するイオを久保田はさえぎった。
「弱気になるな、イオ。ここでは強くなければ生きていけないぞ。それに、これは誰かがやらなくてはならないことだ」
久保田はイオの目を見据えた。
「原稿の写しを作っておいた。預かってくれ。俺が失敗したときは、君が脱出してこの原稿を世に出してくれ」
久保田はポケットから小さな紙の束を取り出し、イオに渡した。すべてのページに、鉛筆で細かな文字がぎっしりと書きこまれていた。
「……。わかりました」
「頼んだぞ」
そう言うと久保田は、イオの背中を音が出るほど強く叩いた。
翌日の夜。いつものように薬で眠らされた老人と病人を運んでいるときのことだった。リーダーをつとめる久保田が突然、赤いつなぎの男を呼び止めた。
「スーパーバイザー、ちょっと」
「何だ?」
「あれを見てください」
スーパーバイザーは久保田が指さす暗がりを確認するためにやや腰をかがめ、目を凝らした。すると突然、奇妙な叫び声とともに赤いつなぎを着たからだが宙に跳ね上がり、そのまま地面に崩れ落ちた。その傍らには、電撃棒を構えた久保田が立っていた。
さらに久保田は地面に落ちたタブレットを海のなかに蹴り飛ばすと、そのままイオに駆け寄り、押し倒した。
「もっと本気で抵抗しろ。監視カメラが見ているぞ」
イオは言われたとおり、全身で久保田をはねのけようとした。だが久保田の力は強く、なかなか逃れることができなかった。そのさなかに、久保田は持っていた電撃棒をイオのつなぎのポケットに押し込んだ。
「生きるんだ。そしてここを脱出しろ」
そう言うと久保田はイオを力いっぱい殴り、起き上がって埠頭を駆け出した。
ちょうどその時、埠頭の反対側から自動小銃を持った黒い服の警備員が二人、走ってきた。
「待て」
「逃げると撃つぞ」
静止に耳を貸さず、久保田は暗い海面に飛び込んだ。大きな水音に続いて、自動小銃を発射する乾いた連射音が響いた。
「やったか?」
「わからん」
二人はしばらく海面を覗いていたが、何も見つからなかった。
騒ぎが収まった頃合いを見計らって、イオは立ち上がった。口のなかに貯まった血を吐き出すと、いっしょに歯が一本飛び出した。
本気で殴られたことにイオは腹が立ったが、それは久保田に深い意図があってのことだと、すぐにわかった。二人の警備員は、歯が欠け、血だらけのイオを見ると特に疑うそぶりも見せなかったのだ。それどころか、イオの身体検査も行わなかった。電撃棒は無事にイオの手元に残った。久保田といっしょに海に沈んだと考えたのだろう。
その後も様子をうかがったが、周辺を捜査するということも行われないようだった。彼らにとって、非国民の一人や二人、生きようが死のうがどうということはないのかもしれなかった。
ベッドに戻ったイオは、久保田から預かった原稿を開いてみた。そこには几帳面な細かい字で、自分が見聞きしたことが書き連ねられていた。
《これは棄民だ! 潜入取材●非国民プロジェクトの実態を探る
読者にはまず、この記事がすべて記者が見聞した事実であることをお伝えしなければならない。信じられないかもしれないが、事実なのだ。ここには誇張も、比喩もない。厳然たる事実であることを信じてもらいたい。》
そうした書き出しで始まる原稿には、グッドジョブ社が低所得者を日本国籍から離脱させていること、そうやって作り出した非国民を格安の労働力として使っていること、一部の若い男女には政治家や政府高官相手に売春を強要していること、働けない老人や病人を日本海溝に捨てていることが冷静な筆致でリポートされていた。
さらに、その始まりが国籍法の改正にあったこと、政府はグッドジョブ社と結託して非国民プロジェクトを実行していること、非国民を作りだすことで福祉関係予算を縮小し国家財政を健全化させようとしていることなどが書かれてあった。
久保田は無事に脱出できたのだろうか。桃香、理沙、そして久保田までも失ってしまったイオは、自分という存在の頼りなさと危うさに打ちのめされそうな気分になった。
理沙も久保田も、「生きろ」と言った。だが、いまの自分に生きる価値があるのだろうか。家族を捨て、日本の国籍も捨てた自分は、何を座標軸として生きて行けばよいのか。
絶望的なまでの孤独感に
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