恐怖の具現
その姿を、俺は忘れることはない。いや、忘れることはできないと言ったほうが正しいかもしれない。
黒く巨大な体。らんらんと赤く輝く巨大な双眸。口元から零れ出る鋭い牙。
四肢に備わった爪は、下手なナイフよりも切れ味が良さそうだし、長くしなやかな尻尾はそれ自体が巨大な凶器。
ばふ、と口から吐き出される硫黄臭い息。
そう。
それは俺が初めて異世界へと渡った時、最初に出会った存在。
俺が異世界で最初に戦った存在。
邪竜王。巨大で禍々しい黒竜。
「ふむ……どうやら、あれは君の心に根付く恐怖を具現したようだね」
こんな状況だというのに、相変わらずクールに分析をするのは、もちろんオスカルくんだ。
「君という存在は、現在この場に集っている者たちの『要』だ。その『要』である君の潜在的な恐怖を具現化し、心理的に圧迫しようという魂胆なのだろう」
な、なるほど……確かに、俺にとって邪竜王はある意味で一番恐怖を感じた存在だと言えるからね。
なんせ、まだカーリオンの力を理解しておらず、いきなり異世界に飛ばされたと思ったら、いきなり遭遇した巨大な黒いドラゴンなわけだし。
あの時、漏らさなかった自分を褒めてもいいと思うんだよね、今でも。うん。
その後もいろいろな敵と戦ったけど、やはり一番恐怖を感じたのは邪竜王だろう。
邪竜王以後に出会った敵は、カーリオンに任せておけば安心という気持ちが心のどこかにあったから、それほどの恐怖を感じることはなかった。もちろん、全く怖くなかったわけじゃないし、本気で漏らしそうになったことだって何度もある。
それでも、邪竜王は特別だと思う。特別だけに、俺の心の奥に恐怖の象徴として刻み込まれていても不思議じゃない。
その恐怖の象徴を「害虫」は的確に読み取り、こうして利用しているわけか。
なるほど、確かに心理戦として考えれば正しい作戦であるだろう。更に言えば、目の前にいる邪竜王は、本物よりも二回り以上大きいので視覚的圧迫感は本物以上だ。
だけどこの戦い、心理戦だけでどうこうなるってものでもないと思うんだよね。
なんせ、ほら。
今の俺、カーリオンの力不足で俺自身では戦えないしさ。
だから俺の恐怖を煽ったところで、戦局にあまり変化はないんじゃないかな?
──なんて思った時が、俺にもありました。
はっきり言おう。現れた邪竜王──正確には邪竜王の姿をした「害虫」だけど、もう邪竜王と呼ぶことにした──は強かった。これまで出会ったどの「害虫」よりも。
吐き出される高熱の炎はトレーラーの装甲板を容易に溶かし、鋭い爪はジョバルガンの甲殻さえも斬り裂く。
幸い、トレーラーの装甲が耐弾耐熱の複合装甲板だったことと、炎が直撃したのが動力のあるトラック部分ではなく、牽引していたカーゴ部分だったため、トレーラーが爆発炎上することはなかった。とはいえ、炎の高温でカーゴが完全に溶けてしまい、もう使い物にならないだろう。
そしてジョバルガンの方だが、彼の甲殻にはエルフのエリクサーが効果あったため、その傷はすぐに塞がった。だけど、あんなものを数回食らえばいくらジョバルガンといえども命の危機に及ぶに違いない。
「師匠の名にかけて、今度こそ本物の竜斬の英雄になってみせます!」
気合と共に、ビアンテが剣を振るう。彼の手元から迸った銀光は、見事に邪竜王の脚へと吸い込まれたが……ぎぃぃん、という耳障りな音と共に、ビアンテの剣が弾かれた。
「な、なんという硬さかっ!!」
ビアンテが手首を押さえ、顔を顰めながら零す。どうやら、邪竜王の鱗は相当強靭らしい。
彼に続き、〈銀の弾丸〉の団員たちが次々に軽機関銃の弾丸を浴びせるが、これまた全く通じていないようだ。
そして、ボンさんがその小さな体を活かして銃弾の雨を掻い潜り、邪竜王に肉薄して手にしたナイフを振るう。
ボンさんのナイフはその小さな刃が幸いして、鱗と鱗の隙間に上手く入り込めたようだけど、今度は刃が小さすぎて大したダメージを与えられていない。
「みなさん、下がってください!」
フロウちゃんの声が背後から響く。そして、邪竜王に向かって幾条もの紫電が奔る。
彼女が手にした杖から雷が迸り、邪竜王の肉を焼く。だが、雷は確かに邪竜王にダメージを与えたものの、そのダメージは瞬く間に回復していく。
邪竜王の元となっているのは、例の黒い「巨人」だからね。その再生能力も引き継がれているわけだ。
「おっし、次は俺の
勇人くんが朱金の鎖を飛ばし、邪竜王の前脚の一本を見事に切断した。おお、さすがは勇人くん!
だけど、喜んだのも束の間。切断された邪竜王の脚は、あっという間にくっついてしまった。
「いくらなんでも、再生能力高すぎじゃね? 反則だろ、あれ!」
自分の攻撃を無効にされた勇人くんがグチる。うんうん、その気持ち、よく分かる。邪竜王の再生能力は半端なさすぎだ。
「ははははは! こいつの相手に相応しい敵じゃねえか!」
と、高笑いしながらトレーラーから現れたのは、ブレビスさんが搭乗するCTだ。その手には先ほどまでのライフルではなく、巨大なバズーカ砲みたいな兵器が装備されていた。
「HEAT弾を撃ち出すCT用ビッグ・バズーカだ! こいつならドラゴンの鱗だってぶち抜くぜ!」
おお、バズーカ砲! ガトリングガンと並ぶ、漢の魂を揺さぶる浪漫兵器だ!
ブレビスさんの搭乗するCTが担いでいる巨大なバズーカの外観は、某機動戦士なロボットアニメ、それも初代に登場するバズーカそっくりだった。
もしかすると、あのバズーカを設計した人は某機動戦士のファンだったのかもしれない。
「ああああああ! 父さんってばまたそんなコストの高いヤツを持ち出して!」
どこかから誰かの悲鳴が聞こえた。うん、その辺りは後で必ず補填しますから。
誰かさんの悲鳴はともかくとして、HEAT弾──別名を成形炸薬弾ともいう──は貫通力に優れ、徹甲弾ほどの運動エネルギーを必要としないため、個人携行サイズでも戦車を相手にできる恐るべき兵器なのである。
それがCTで運用することを目的としてスケールアップされているわけだ。その威力、推して知るべし、である。
そして、そんなHEAT弾のお値段も推して知るべし。誰かさんが悲鳴を上げるのも分かるってものだね。
「細けぇことは気にすんな! 金なんざ後でまた稼げばいいんだよ! それよりも俺の射線に入り込むマヌケはいないだろうな? 巻き込まれても知らねえぞ!」
ブレビスさんがそう言い放つと同時に、巨大なバズーカが咆哮した。
そう、まさに咆哮。
ライフルやマシンガンではあり得ない巨大な砲撃音。バズーカから撃ち出された巨大なHEAT弾が邪竜王の体を穿つ。
ビアンテの剣や軽機関銃の弾丸さえ通用しなかった邪竜王の鱗も、HEAT弾を防ぐには至らない。
着弾したHEAT弾が巨大な黒竜の体を抉り、邪竜王が苦し気な咆哮を上げる。
おお、効いている、効いている。
邪竜王は更に咆哮する。だけど……先ほどとはどこか様子が違う気がする。
どこがどう違うのかと聞かれても困るけど、何となくそんな気がしたんだ。
そして、それを裏付けるかのように、脳内にカーリオンの苦し気な声が響いた。大丈夫か、カーリオンっ!?
──怪我を回復させるために、またボクから力を奪って……
な、何だってっ!?
カーリオンに言われて邪竜王の足元を見れば、黒竜の周囲の地面が黒く変色していた。
俺たちが今いるのは、カーリオンの内面世界。要するに彼の内部だ。ただっ広く見える一面の草原も、そう見えるだけで実際には草原じゃない。
その草原のように見える一部が黒く変色しているということは、邪竜王はあそこからカーリオンの力を奪っているのだろう。
イモムシが「食う」ことでカーリオンから力を奪っていたのだから、その最終進化形態らしい邪竜王が似たようなことができないわけがない。
実際、先ほどまで淡く輝いていた聖剣の刀身から、その輝きが失われている。それだけ、カーリオンの力が奪われているってことなのだろう。
え、えっと……これ、かなりヤバい状況じゃね?
邪竜王がその鋭利な爪を振り下ろし、ジョバルガンの体を捉えた。
【うぐっ!! な、なんのこれしき! グルググの誇りを侮るなよ!】
爪による攻撃で甲殻を割られ、その衝撃で大きく吹き飛ばされたジョバルガン。だが、意識ははっきりしているようだ。
致命傷にこそ至っていないものの、放っておいていい怪我でもない。
「後退してくれ、ジョバルガン!」
【まだ大丈夫だ、友よ! この程度では私は倒れんよ!】
ジョバルガンは触角の先を邪竜王へと向け、そこから酸の弾丸を飛ばす。撃ち出された酸は邪竜王の前脚に付着し、どろりと数枚の鱗を溶かした。
だが、溶けた鱗は見る間に元に戻ってしまう。同時に、邪竜王の脚元に広がる黒い部分が更に広がった。
「
負傷したジョバルガンを庇うように、ブレビスさんのCTが立ちはだかる。
「採算を度外視した傭兵が、どれだけ手強いのか見せてやるぜ!」
CTが担ぎ上げた巨大バズーカが再度咆哮する。吐き出されたHEAT弾が邪竜王の体に穴を穿ち、邪竜王が苦し気にその巨体を捩らせる。
い、いや、違う!
やつは苦し紛れに体を捩らせたんじゃない!
そのことに気づいた俺が警告を発するより早く、邪竜王は反撃に移った。
そう。
邪竜王が身を捩ったのは、攻撃されて苦しかったからではなく、反撃するためだったのだ。
周囲の空気を斬り裂くように、長くしなやかな「それ」がブレビスさんのCTを真横から強襲した。
「ち、尻尾かよっ!?」
ブレビスさんも邪竜王の尻尾攻撃には気づいた。だが、移動用装備のないCTの動きは極めて遅く、奇襲気味に振るわれた邪竜王の尻尾を躱すことはできなかった。
どん、という重々しい音と共に、CTが吹き飛ぶ。
CTが宙を舞い、結構な距離を飛ばされて地面に激突する。
その側面が大きくひしゃげ、CTの全身から激しいスパークが飛び散る。これ、ヤバいやつですやん。
邪竜王の尻尾の一撃を受けて大破したCTへと駆け寄り、ブレビスさんをコクピットから引っ張り出す。今の俺は戦えないから、これぐらいはしないとね。
ブレビスさんは意識を失い体も負傷しているようだが、どの程度の負傷なのかは俺には見ただけでは分からない。だが、息があるのであればエリクサーで回復できるだろう。
俺がブレビスさんを救出している間も、邪竜王は暴れ続けている。
その爪で、その尻尾で。時には火炎を吐き出し、仲間たちを追い詰める。
幸いにも今のところ、負傷者はいても死者はいないようだ。だが、このままではすぐにでも最初の死者が出てしまうだろう。
なあ、カーリオン! 何とかならないのか? このままだと、みんなが危ないんだよ!
心の中で相棒に問う。そして、その問いに相棒は答えてくれた。
どこか戸惑うように、相棒は言葉を繋げる。そして彼の言葉を聞いた俺は、どうしてカーリオンが戸惑っているのかを理解した。
「そんなことか。そんなことなら気にするな! 遠慮なくやってくれ!」
──本当にいいの? もしかしたら、シゲキは全ての力を失ってしまうかもしれないんだよ?
「いいに決まっているだろ? このままじゃ、遠からず仲間たちを失ってしまう。当然、その中には香住ちゃんも含まれるだろう……俺は香住ちゃんを……みんなを護りたいんだ」
──分かった。
頭の中でカーリオンの声が響いたのと、手にした聖剣の刀身が激しく輝いたのは同時のことだった。
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