黒熊



 突然現れたそれは、確かに熊だった。

 体毛は黒一色。ツキノワグマのように、首元に白い模様が入っているようなこともない。本当に純黒な体毛。

 そんな全身黒一色な中、爛々と輝く眼の赤と、涎を垂らす口元から零れる牙の白さが異様に目立つ。

 俺が初めてこの「小世界」へ来た時、狼や狐といった小型から中型に相当する肉食獣は生息していると聞いた。

 だが、熊のような大型の獣はいないとも聞いていたんだ。

 じゃあ、この目の前に現れた熊……いや、熊のような生き物は一体何なのだ?

 その大きさは大体、小型のバスぐらいだろうか?

 日本最大の陸生哺乳類であるヒグマが体長2.5メートルから3メートルほどらしいので、それよりも一回りぐらい大きいだろうか。あくまでも俺の主観だけど。

「フィーンさん、ボンさん……あ、あの生き物は一体……?」

 俺は熊のような生き物から目を離すことなく、背後にいるフィーンさんとボンさんに尋ねる。

「そ、某はあのような大きな獣は初めて目にするでござる……」

「私もあんな生き物は初めて見るわ……」

 どうやら、二人とも見たことがない生き物のようだ。

 ってことは、以前戦った白いオークのような存在なのだろうか?

 あのオークもどこから来たのか、いまだに分からないらしいんだよね。もしかすると、この森林世界にはボンさんやフィーンさんたちが知らない未知の生物が多数生息しているのかも。

 その可能性は高いんじゃないかな。俺たちが暮らす地球世界だって、違う国や大陸へ行けば日本とは全く違う動物や植物が生息しているわけだし。

 この世界だって、今俺たちがいる森以外の森があり、そこから何らかの理由で未知の生物がやってくることは十分あり得るだろう。

 フィーンさんやボンさん、そして以前に会ったトレントの長老さんだって、この世界の全てを知っているわけじゃないしね。

 それよりも問題は、あの黒い熊が俺たちにとって脅威かどうかだ。

 聖剣が臨戦態勢を取っている以上、間違いなく脅威的な存在だと思うけど……もしかして、あの「害虫」が関係しているのか?

 以前この世界に来た時は、巨大なスライムもどきに「害虫」が憑依していたっぽい。他の「小世界」でも、連中がその世界の生物に憑依していたことがあったし、あの黒熊に憑依している可能性はあるのではないだろうか。

「茂樹さん……あれってもしかして……?」

「うん……聖剣がかなり緊張しているから、おそらくそうだと思う……」

「シゲキ様、カスミ? 一体、あの黒い熊は何なのですか?」

 俺と香住ちゃんは、あの熊の正体に予想がついている。これまで、何度もあの「害虫」と戦ってきたからね。

 でも、まだまだ「害虫」と接触した経験が少ないミレーニアさんは、よく分かっていないようだ。だけど、手にした聖剣の尋常ではない様子は理解しているようで、熊から決して目を離そうとはしない。

「シゲキ様! あの熊はひょっとして?」

「ああ、多分だけど、ミレーニアさんが考えている通りだと思う」

 どうやら、ミレーニアさんもあの熊が何なのか理解したようだ。彼女にも俺たちがこれまで遭遇した「害虫」のことは説明してあるから、少し落ち着いて考えれば当然そこに思い至るだろう。

「ボンさん、フィーンさん、二人とも俺たちから離れて! あいつは……あの黒熊はおそらく俺たちの敵です」

「な、なんとっ!? ではあの獣が先ほどシゲキ殿が話していた宿敵でござるかっ!?」

 ボンさんはそんなことを言いながらナイフを構える。

 フィーンさんも声にこそ出してはいないが、木剣を構えて熊を注視している。

 二人とも、明確な敵を前にしてやる気が満ち満ちているようだ。

 だけど……やる気になっている二人には悪いけど、さすがにあの「害虫」が相手では荷が重いと思う。

 そもそも、ただのナイフや木剣で「害虫」にダメージを与えられるとは思えない。もっとも、あの黒熊が「害虫」と関係しているという確証はまだないけど、聖剣の様子からしてその可能性は極めて低い。

「いや、この場はまず、某とフィーン殿に任せてはくださらんか?  某たちが積み重ねてきたものが、決して無駄ではないことを証明したいのでござる!」

「シゲキ、カスミ先生、私からもお願いするわ」

 うーむ、ボンさんの心情は理解できる。最初こそ香住ちゃんの指導を受けたものの、その後は長年──ボンさんたちの言葉を信じるならば、だけど──自分たちだけであれこれと考えながら修練を続けてきたのだ。

 その成果が明確に分かる機会なのだから、それを逃したくはないのだろう。

「分かりました。最初はボンさんとフィーンさんに任せます。ですが、危ないと判断した時は俺たちが割り込みますからね」

「おお、かたじけないシゲキ殿!」

「ふふ、カスミ先生の前で無様は晒せないわね」

 闘志を燃やすボンさんとフィーンさん。二人は得物を構えると黒熊に向かって突進した。

 しかし、フィーンさんって結構好戦的なタイプだったんだね。もっと物静かなタイプだとばかり思っていたけど。

「…………私、もうエルフさんたちから先生って呼ばれる資格ないと思うんですよねー……」

 なお、マイエンジェルがどこか黄昏れていたので、無言で肩を抱き寄せておいたのは言うまでもない。



 瞬く間に彼我の距離を詰め、黒熊に攻撃を仕掛けたのはボンさんだった。

「──────せいっ!!」

 気合一閃、ボンさんが振るったナイフが黒熊の前脚を斬り裂く。

 一太刀浴びせたボンさんは、それ以上は仕掛けずに素早く後退する。そして、下がる彼と入れ替わるようにフィーンさんが前に出る。

 躍動的に揺れる彼女のお尻に思わず目がいきそうになって、俺は慌てて自分を戒めた。

 危ない、危ない。今はそんなことをしている時じゃない。そもそも、俺は紳士だからな。

 それでもついフィーンさんの形のいいお尻に目がいってしまうのは、悲しい男の性というものだろう。

「はっ!!」

 肉薄したフィーンさんが袈裟懸けに木剣を振り下ろすと、熊の左肩から左前脚にかけて見事に斬り裂いた。

 しかし、どうして木剣で熊の毛皮や肉が斬れるのだろうか。そこが不思議でならないのだけど。

 それはともかく、熊の動きが妙に遅い。以前、近未来世界でグリズリーの変異体と戦ったことがあるが、あの時のグリズリーはもっと素早かったし迫力も段違いだ。

 だが、目の前の黒熊はボンさんやフィーンさんの攻撃を躱す素振りさえ見せていない。二人の攻撃を甘んじて受けている。

 その身に怪我を負っても、痛がるような様子もないし。

 これ、絶対に何か変だよね?

 ちらりと香住ちゃんの方を見れば、彼女も俺と同意見のようで無言で頷いている。ミレーニアさんも、熊の様子がどこかおかしいことは分かっているようだ。

「シゲキ様、これはどういうことでしょうか?」

「あの熊からは反撃する様子が全然感じられませんね」

 二人とも剣を構えたまま、油断なく熊とボンさんたちの戦いの趨勢を見守っている。

 明らかに何か変だ。ボンさんとフィーンさんは、入れ替わりながら熊に斬りかかり、今では熊の体は全身傷だらけだ。

 それでも熊は二人の攻撃を避けることさえせず、特に何をすることもなくただその場に居続けている。

 一体、あの熊は何がしたいんだ? 聖剣はいまだに警戒態勢を解いてはいない。つまり、あの熊を脅威だと判断しているわけだ。

「フィーン殿! そろそろ止めを刺そうぞ!」

「分かったわ!」

 一旦距離を取った二人が、腰を落として攻撃の態勢に入る。

 最初こそ様子見を繰り返していたボンさんとフィーンさんだけど、相手が無抵抗なこともあってこのまま倒しちゃえって結論に至ったみたいだ。

 聖剣先生もまだ静観するようだし、もう少し二人に任せても大丈夫だろう。

 これまでのようなヒットアンドウェー的な戦い方ではなく、止めを刺すべく強力な一撃を繰り出すようだ。

 しかし、二人がその攻撃を繰り出すことはなかった。いや、できなかったと言ったほうがいいだろう。

 なぜなら、黒熊の体がまるで空気が抜けた風船のように、突然しゅるしゅると萎んでしまったのだから。



 これは何が起きたんだ?

 あ、いや、何が起きたのか理屈は分からないけど、その理由は推測できる。

 だって、以前に似たようなものを見たもの。

 ペンギン騎士がいる海洋世界へ行った時、巨大なゴカイとエイに襲われたことがあったけど、その時のゴカイとエイが目の前の熊のようにしわしわになったことがあった。

 そして、その後にゴカイとエイの体を食い破るように出てきたのが──

「な、何よあれっ!?」

「こ、これは面妖な……」

──しおしおになった黒熊の背中がぱっくりと割れ、その中から出て来たのは、熊の黒い毛皮よりもなお黒い、熊の巨体以上に大きなイモムシだった。

 やはり、今回もあの「害虫」が絡んでいたようだ。



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