脅威の変異体



 首筋──おそらく頸動脈が傷つけられたのだろう──から噴水のように血を噴き出しつつ、セレナさんが下水道の床に倒れ込んだ。

 え? 一体何が起きたんだ……?

 倒れ込んだセレナさんを、俺は呆然と見つめた。脳は確かにセレナさんが倒れた事実を認めているものの、心の方が混乱しているのか、身体は全く動いてはくれない。

 そして。

 そして、俺は見た。

 それまでセレナさんが立っていたそのすぐ後ろに、「ヤツ」がいることを。

 背丈はセレナさんと同じぐらい。だが、身体の横幅と厚みはセレナさんの倍近いかもしれない。

 そして何より特徴的なのは、極端に長い腕。ゴリラのようにナックルウォークができそうなほど長い腕は、香住ちゃんの太股ぐらいはありそうだ。もちろん、その腕の先にある巨大な拳は、それだけで凶悪な鈍器と化すだろう。

 真っ黒な身体──暗闇ゴーグル越しのためはっきりとした色は分からないが、メガモスキートと同じような色合いなのは間違いない。

 そんな真っ黒な身体の中でらんらんと光る両眼と、セレナさんの血で汚れた口周りだけが赤く色づいているのが、なぜか暗視ゴーグル越しでも理解できた。

 もちろん、「ヤツ」の口元が血でべったりと汚れているのは、その薄汚れた牙でセレナさんの首筋を噛みきったからだ。

「せ、セレナさん……っ!?」

 ようやく事態を理解したマークが、倒れたセレナさんに駆け寄ろうとする。どうやら、思わず呆然としてしまったのは俺だけではなかったようで、《銀の弾丸シルバーブリット》のみんなも同じだったみたいだ。

「ま、待て、マークっ!!」

 無防備にセレナさんに近寄ろうとするマークを、俺は引き止めた。こいつ、もしかして「ヤツ」に気づいていないのか? 「ヤツ」に気づいているのなら、いくらセレナさんが倒れているからといっても、そんな無防備には近寄らないだろう。

「ど、どうして止めるんだよ、シデキっ!! は、早くしないとセレナさんが……っ!!」

「馬鹿野郎っ!! あれが……『ヤツ』の姿が見えないのかっ!?」

 俺にそう言われたマークが、はっとした表情を浮かべながらセレナさんの向こう側を見た。もちろん、マークだけじゃなく香住ちゃんや《銀の弾丸》のメンバーたちもだ。

「な、なんだ……あれは……?」

「も、もしかして……あ、あれが俺たちの探していた……標的ターゲットの変異体……か?」

 みんなは手にしたSMGを構え、その銃口を「ヤツ」へと向ける。複数の銃口を向けられても、「ヤツ」は逃げようともしない。それどころか、血に汚れた口角がにぃと吊り上がったのを、俺は確かに見た。

 《銀の弾丸》のメンバーたちは、銃口を向けるものの引き金トリガーを引くことはなかった。なぜなら、「ヤツ」のすぐ前には倒れたセレナさんがいるからだ。このままSMGを撃てば、下手をするとセレナさんまで巻き込んでしまうかもしれない。

 だが、いつまでもこのまま見つめ合っているわけにもいかない。倒れたセレナさんの身体の周囲には、黒いもの──間違いなく血だ──がどんどん広がっていくのが暗視ゴーグルの中に映っている。

 後になって思えば、この時の俺はやはり相当混乱していたのだろう。なぜなら、「ヤツ」の接近に俺たちどころか聖剣までもが気づけなかったという事実に、思い至ることができなかったのだから。



「俺が『ヤツ』の注意を引きつける。その間に香住ちゃんは……」

「は、はい、分かっています。で、でも……き、気をつけてくださいね……」

 気丈に返事をする香住ちゃんだが、その声はやっぱり震えている。俺は彼女を安心させるため、軽くその肩を叩いた。そして、背負っていたリュックを下ろして彼女に預ける。

 リュックの中にはエルフ印のエリクサーが入っている。あれなら、セレナさんを助けることができるはずだ。

 香住ちゃんは震えてはいるものの、逃げ腰にはなっていない。大量出血しているセレナさんを前にしても、足腰はしっかりとしているようだ。この辺り、剣道を通じてメンタルも鍛えられているからかもしれない。

 とにかく、セレナさんのことは香住ちゃんに任せ、俺は手にした聖剣の切っ先を「ヤツ」へと向けた。

 頼むぜ、聖剣。一緒にセレナさんを助け出そう。

 俺は心の中で聖剣あいぼうに声をかけた。それに応じてくれたのか、聖剣がほんの僅かにぶるりと震えた──ような気がした。

 俺は聖剣を信じて、全身の力を抜く。同時に俺の足が勝手に動き出し、「ヤツ」目がけて鋭く踏み込む。

 しかし。

 俺が一歩踏み込むと同時に、何かを擦り合わせるような耳障りな音が聞こえた。すると突然俺の身体は、不自然な格好で凍りついたように動きを止めてしまう。

「…………キシシ……っ」

 どうやら、それは「ヤツ」の声のようだった。

「…………タマゴ…………ミジュク……」

 え? 卵? 未熟……? 未熟な卵? もしかして半熟卵って意味? って、そんなわけないだろ!

 「ヤツ」が何を言いたいのか分からない。だが、俺の身体は……いや、聖剣は「ヤツ」を警戒するかのようにぴくりとも動かない。

 一体、どうしてしまったのか。普段であれば、聖剣は「ヤツ」を両断するために動いているはずなのに。

「………………キシシっ!!」

 突然、「ヤツ」が動き出した。

 その太くて長い腕を鞭のように大きくしならせ、ハンマーのような拳が俺を襲う。

 ぶん、と空気を唸らせつつ迫るその拳は、まるで黒い砲弾だ。だが、俺は……いや、聖剣はそれを難なく回避。ようやく動いてくれた聖剣に安堵しつつ、俺は注意深く「ヤツ」の動きを見つめる。

 動きそのものはそれほど速くはなさそうだ。少なくとも、今の一撃はビアンテの剣閃に比べれば相当遅い。聖剣の力を借りなくても回避できそうだな。

 もっとも、「回避するだけ」ならばの話だ。「ヤツ」の拳を回避しつつ、こちらから攻撃を仕掛けることは、俺にはちょっと無理だろう。

 だが、そこは聖剣先生。「ヤツ」の豪腕を巧みに回避しつつ、その振るわれた腕を絶妙のタイミングで下から上へと斬り払う。

 途端、がつんという硬い手応えが俺を襲う。

 え?

 聖剣が……斬ることができなかった……?

 これまで、ドラゴンや狂ったグリズリー、果ては倒すことができないはずの異世界の〈鬼〉でさえ斬ってきた聖剣の刃が……弾かれた?

 う、嘘だろ? そ、そんなことって……。

 ショックを受ける俺。でも、身体の方は動き続けており、「ヤツ」の攻撃を躱しつつ反撃を繰り返す。

 しかし、やっぱり斬れない。何度も「ヤツ」の腕に刃を立てるものの、その度に聖剣の刃は弾かれてしまう。

「…………キシシっ ヤハリ、ミジュク……」

 再び「ヤツ」の声が聞こえた。未熟って……もしかして、聖剣が未熟だと言いたいのか?

 思わず眉を寄せる俺に気づいているのかいないのか、「ヤツ」は更に言葉を続ける。

「……タマゴ……ヤドリギ……ミジュク……ミジュク……キシシ……っ」

 よく意味が分からないが、どうやら「ヤツ」が俺と聖剣を侮辱しているのは何となく分かった。

 確かに、俺は未熟な人間だ。特別な取り柄もない、ごく普通の大学生。一人前の大人とも呼べない今の俺が、未熟と呼ばれてもそれは仕方ない。

 だが。

 だが、俺の聖剣まで未熟と言われるのはどうか?

 手に入れた経緯は偶然だが、俺の聖剣は本当に凄い力を持った最高の剣だと思っている。少なくとも、俺はそう信じているんだ。

 その聖剣を……未熟呼ばわりだと?

 あ、何か、すっげえ腹が立ってきた。俺を侮辱するのはいいけど、俺の聖剣を侮辱するのは止めてもらいたい。

 自分で自分の目つきが悪くなっていることが分かる。あー、俺がここまで怒りを覚えるなんて、いつ以来だろう。

 どこか他人事のように考えつつ、俺は「ヤツ」を睨み付ける。しかし、「ヤツ」は俺の怒りの篭もった視線など、ものともしていない。

「……ヤドリギ……ミジュク……キシシ……っ!!」

 再び耳障りな声を発すると同時に、「ヤツ」の視線が動いた。

 ゆっくりゆっくりと移動するその視線の先には、気を失っているセレナさんを介抱する香住ちゃんの姿があった。

「……キシシっ」

 「ヤツ」が動いた。

 ゴリラのようなナックルウォークで、突風のように「ヤツ」は駆ける。

 それまでの動きからは想像できないような速度で、「ヤツ」は香住ちゃんたちの方へと移動した。

 くそっ!! 狙いを変更しやがったっ!!

 「ヤツ」の狙いは香住ちゃんか、それともセレナさんか。

 俺が鋭く聖剣を振るも「ヤツ」はそれを難なく回避し、俺など眼中にないとばかりに香住ちゃんたちへと迫る。

 香住ちゃんが「ヤツ」に気づき、目を大きく見開くのがはっきりと見えた。

 《銀の弾丸》のみんなも二人を守るべく動き出すが、「ヤツ」の速度が速すぎて銃器の狙いを定めることさえできない。

 そして、香住ちゃんへと瞬く間に肉薄した「ヤツ」が、その巨大な拳を頭上高く振り上げた。

 俺には「ヤツ」の背中しか見えないが、きっと今の「ヤツ」は嫌らしい笑みを浮かべているだろう。

 そして、上げられた拳が振り下ろされる。その先には香住ちゃん。あの拳がまともに当たれば、人間の頭なんて簡単に潰されるに違いない。

「か、香住ちゃんっ!!」

 必死に走る俺の視線の先でがつんという硬質な音が響いたのは、俺が彼女の名前を呼んだすぐ直後だった。



 俺は目を見張った。

 夏の浜辺で割られたスイカのごとく、無惨に爆ぜ割れた香住ちゃんの頭部を直視したから…………では、もちろんなく。

 俺の視線の先には、一振りの剣。「ヤツ」の黒拳をがっしりと受け止めている剣を、俺は凝視した。

 それは、反射的に香住ちゃんが自分の腰から引き抜いた、俺が彼女にプレゼントした邪竜王の財宝だった長剣だ。

 しかし、その長剣は俺が覚えている剣とは姿が違う。

 香住ちゃんにプレゼントした長剣は、装飾の少ない実用的な剣だったはず。だが、今彼女が手にしているのは、どこか神々しい雰囲気を放っていた。

 そして、その剣に俺は見覚えがあった。いや、見覚えなんてものじゃない。彼女が手にしている剣、それは────

「…………え?」

「ど、どういう……こと……?」

 俺も香住ちゃんも、そしてなぜか「ヤツ」までもが香住ちゃんが手にする剣を見つめていた。

「こ、この剣は……茂樹さんの……聖剣……?」

 そう。

 香住ちゃんが手にしているその剣は、なぜか俺の聖剣と同じ姿をしていたのだ。



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